学習通信050227
◎「機会に応じて、多かれ少なかれ進歩する」……。

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 わたしたちは学ぶ能力がある者として生まれる。しかし、生まれたばかりの時は、なにひとつ知らない。なにひとつ認識しない。不完全な、半ば形づくられた器官のうちにとじこめられている魂は、自己が存在するという意識さえもたない。生まれたばかりの子どもの運動や叫び声は純粋に機械的なもので、認識と意志を欠いている。

 生まれたとき、子どもが一人まえの人間の身長と体力をもっていたと仮定しよう。ちょうど、パラスがゼウスの頭から生まれたように、母の胎内からいねばすっかり武装して出てきたものとしよう。この大人とも子どもともつかないものは、完全に無能な人間であるにちがいない。自動人形か、身うごきもせずほとんどなにも感じない彫像のようなものにちがいない。かれにはなにも見えず、なにも聞こえず、人をみとめることもできず、見る必要のあるもののほうへ目をむけることもできないだろう。

自分の外にある対象をなにひとつ知覚することができないばかりでなく、それをかれに知覚させる感覚器官になにひとつ伝えることもできないだろう。目に色も見えず、耳に音も聞こえず、触れる物体も体に感じることができず、自分が肉体をもっていることさえわからないだろう。手の触感は脳のなかにあることになる。あらゆる感覚はただ一つの点に集まることになる。

かれはただ「感覚の中枢」に存在することになる。ただ一つの観念、つまり「自分」という観念をもつだけで、あらゆる感覚をそれに結びつけることになる。そしてこの観念、むしろこの感情が、ふつうの子どもにくらべて、かれが余計にもっているただ一つのものということになる。

 突然できあがったこの人間は、足で立ち上がることもできないだろう。均衡をたもって立っていられるようになるまでにはずいぶん時間がかかるにちがいない。いや、たぶん、立ち上がろうとこころみることさえしないだろう。そして、強くて頑丈なその大きな体は、石のようにそこにじっとしているか、それとも、小犬のようにはいまわっているにちがいない。

 この人間は欲求を感じて不快になるだろうが、それがなにかよくわからず、それをみたす手段を考えつくこともないだろう。胃の筋肉と手足の筋肉とのあいだには直接的な交流はなく、したがって、周囲に食物があったとしても、それをつかむためにそのほうへ近よったり、手をのばしたりすることもしないだろう。そして、その体はすでに成長し、手足はすっかり発達し、したがって、子どものように落ち着かないでたえず体を動かしているということもないから、食物をもとめて動きだすまえに、飢えて死んでしまうかもしれない。

わたしたちの知識が発達する順序と過程をすこしでも考察してみれば、経験から、あるいは仲間の者からなにか学びとるまえの人間の自然の無知と無能さの原始的な状態は、だいたいそんなものであることを否定することはできない。

 だから、わたしたちのひとりひとりがふつうの程度の悟性に到達するための最初の出発点はわかっている、あるいは、知ることができる。しかし、もう一方の極をだれが知っていよう。人はその天分、趣味、要求、才能、熱意、そしてそれらを発揮できる機会に応じて、多かれ少なかれ進歩する。どんな哲学者にしろ、これが人間の到達できるぎりぎりのところだ、これ以上は進むことはできない、と言えるほど大胆な者がこれまでにあったことをわたしは知らない。

わたしたちは本性からいってどういうものになれるのか、わたしたちにはわからない。ある人間とほかの人間とのあいだに存在しうる距離を測定した者はわたしたちのなかに一人もいない。それを考えても興奮しないほど低劣な人がいるだろうか。そしてときに、得意になってこんなことをつぶやかない者がいるだろうか。「わたしはもうどれほど進歩したことか。まだどれほど高いところへ行けることか。仲間の者がわたしよりもっと遠いところへ行けるというようなことがあるだろうか。」
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p69-71)

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人間の全面的発達が社会の大目標となる

 党綱領は、続いて、生産手段の社会化によって、人間社会にどんな変化が起きるかを、三つの角度から描き出しています。
 第一は、人間の生活とその条件に、根本的な変化が起こることです。

「生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす」。

 搾取がなくなるわけですから、当然、社会が生産する財貨のうち、働く者の取り分は大きくなりますし、社会保障の抜本的な充実も可能になりますから、社会のすべての成員の生活を向上させ、貧困をなくす道が大きく聞かれてきます。

 それと同時に重要なことは、すべての人間が、生産労働と同時に、社会の知的分野の活動にも参加し、自分のもっている人間的な能力を自由に発達させる機会と条件に恵まれるようになることです。これまでの搾取社会では、生活条件の上での貧富の格差と同時に、人間としての生活のあり方での大きな格差が、当たり前のことになっていました。

社会の多数者が、その生活時間の大部分を生産労働に当てざるをえない状態におかれ、精神的・知的・文化的な分野での活動に参加できるのは、恵まれた条件にある少数の人びとだけ、ということです。マルクスをはじめ、社会主義の先輩たちは、社会をこの状態からぬけださせ、社会のすべての構成員に、人間として全面的な発達の機会を保障するところに、未来社会が、人類社会の発展の新しい時代をひらくもっとも大きな意義があることを、強調しました。

 そのカギとなるのが、「労働時間の短縮」なのです。
 搾取がなくなり、労働能力のある社会のすべての構成員が生産活動の一部をになうようになれば、それだけでも、労働時間の抜本的な短縮が可能になるはずです。さらに、利潤第一主義から解放された新しい社会では、生産力が発展すれば、そのことを労働時間のいっそうの短縮に結びつけることができるはずです。

 生産手段の社会化は、こうして、すべての人間が、生活の保障と向上を約束されるだけでなく、自分の好きな活動にあてられる自由な時間を大きく保障し、そこでは、スポーツや文化をはじめ、人間的な生活を多面的に楽しむと同時に、自分の能力を自由にかつ全面的に発達させることができる、そういう社会をつくりだします。そこでは、多くの素質をもっていながら、それを伸ばす機会がないままに生涯を過ごしてしまうといった、寂しい人生は、過去の話になるのです。

 そして、ここで新たに開かれる展望は、個人個人の発展にはとどまりません。社会全体がいっそうの豊かな活力をもった社会になり、人類社会がすばらしい発展力を発揮してゆくことになるでしょう。
(不破哲三著「新・日本共産党綱領を読む」新日本出版社 p373-375)

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◎「自分のもっている人間的な能力を自由に発達させる機会と条件に恵まれるようになること」と。