学習通信050205
◎「あるものの死は、あるものの生でもある」……。

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 われわれが自然や人間の歴史や自分自身の精神活動を考察するときに、まず第一にわれわれの前に現われてくるのは、もろもろの連関と交互作用とが限りなく絡みあった姿である。この絡みあいのなかでは、なに一ついつまでももとどおりのもので・もとどおりの場所に・もとどおりの状態でいるものはなくて、すべて運動しておリ変化し生成し消滅するのである。

この最初の素朴なしかし実質上正しい世界観は、古代ギリシア哲学の世界観であって、これをいちばんはじめにはっきり言いあらわしたのは、ヘラクレイトスである、──〈万物は存在しまた存在しない、と言うのも、流動し絶えず変化し絶えず生成・消滅しているのだから〉、と。

しかし、この見かたは、諸現象の全体としての姿の一般的性格を正しくつかんではいても、この全体としての姿を構成している個々のものを説明するのにはやはり十分でない。そして、これが説明できないあいだは、全体の姿も明確ではないのである。

こうした個々のものを認識するためには、これをその自然的また歴史的な連関から取り出して、それぞれ別個に、その性状・その特殊な諸原因および諸結果などなどについて研究しなければならない。これが、まず第一に、自然科学と歴史研究との任務である。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p34-35)

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考えることを教えた老隠者について

 日は日を追い、人間の生活の川はゆっくりと流れる。あまりゆっくりなので、時がたつのに気がつかないくらいである。そういう時代、がある。すると、突然どこからか嵐が襲い、激しく荒れ狂う。そして、気がついてあたりを見まわすと、もうそこには古い生活の痕跡さえ見あたらない。一日ごとといわず、時々刻々にすべてが変わる。世界は百年のあいだに、過去の一千年間よりもひどく変わってしまう。

 今から二千四百年前の昔が、こういう時代だった。何世紀も立ちつづけてきた古い壁がくずれ落ちた。神々がつくったはずの習慣や信仰や法律もすたれはじめた。きのうまでは法律にかなっていたことが、今日は違法とされた。悪いことがいいことに、いいことが悪いことになった。きのうの文無しが今日は金持ちになり、きのうの金持ちがきょうは乞食になった。平民が名誉を得、王の子孫が浮浪者になってさまよい歩く。

 「いったい、どうしたのだろう?」「いつになったら、こんなこと、がやむのだろうか?」「いつになったら、あの古いよい時代にもどれるのだろうか?」

 ひとびとは、当時の賢人を訪ねてはこう聞いた。しかし、賢人の答えはまちまちだった。ピュタゴラスは、世界の調和について、何千年もつづいた秩序について語り、それをとりもどさねばならぬと説いた。

 ところが、これと正反対の答えをしたヘラクレイトスという賢人がいた。かれに会うには、暗い森にはいって行かねばならない。かれは自分の一族が支配者だったエペソスという故郷を去って、時限の女神アルテミスの神域に近い、海を見わたす山中にかくれ住んでいた。

 弟子入りをしようとする人たちは、この老賢人が頑固で人ぎらいで、人間を軽べつしていると聞かされていた。しかられるかもしれないし、追っ払われるかもしれないと不安だった。にがい顔をしたこの男は、何一つ楽しいことは話さない。だから、「すすり泣くヘラクレイトス」と呼ばれていたのも不思議ではない。かれの話を理解するのは容易ではない。かれはデルフォイの神託のように、あいまいな、なぞめいた話し方をするからである。そこで、「暗闇の人」ともあだ名された。

 しかし、名声のほうがその欠点以上だったので、ひとびとは恐る恐る訪ねて行くのだった。「どうぞはいりなさい。ここにも神はいるからね」とヘラクレイトスは言った。そして、エペヘソスの近況を客にたずねた。かれは自分の生地エペソスの市民にがまんがならない。市民の自負する「平等」という新しい秩序をあざ笑っている。

 「エペソスの市民には理性がない。かれらは無知な暴徒に支配されている。悪人が多数で、善人は少数だということもわからない。しかし、わたしの考えでは、すぐれた人は非常に多くの普通人に匹敵するものだ。ところが、エペソスの市民ときたら、『われわれのところにはすぐれた人などはいなくてもよい。もし、そういう人がいたら、さっさと追い出してしまおう。われわれにはそういう人はいらないのだから』こう言って、最良の人間を追い出してしまう。わたしに言わせれば、ああいうおとなはみんな殺して、町を子どもたちにまかしたほう、がいい。おそらく、子どものほうがりこうだろうから」

 お客はこういう怒りながらの話を聞かされるので、気持ちがおちつかない。そこで、急いで話題を変え、昔のことを話してくれと頼んだ。しかし、この頑固な老人は、昔のことも、今のことと同じように怒って話すのである。かれはホメロスもヘシオドスもこきおろした。「かれらは自分を物知りだと思っているが、昼と夜は実は同じものだということさえ知らない」と。神々も同じように非難された。ヘラクレイトスは王族であり神官である家柄の出で、アルテミスの神域に住む身でもあるのに、古い神々を信じない。「古い神の像をおがむのは、石べいに話すのと同じだ」こういうのである。

 ヘラクレイトスは、学者に対しても辛辣だった。自分に多少とも役に立った哲人はタレスだけだと言っていた。ことにピュタゴラスはやっつけられた。

 「ピュタゴラスは、自分は科学を知っているから賢人だと考えたが、あんな科学はにせものだ。ほんものの科学なら、ピュタゴラスやヘシオドス、ヘカタイオスやクセノファネスを、もっとましな学者にしているはずだ」

 「では、だれから学んだらよいのでしょうか」と、客たちは尋ねた。

 「わたしたちの師は、自分の目と耳だ。学ぶにはよく耳を澄まし、目でよく見なければならない。たとえすべてが煙になっても、鼻でかぎ分けられる。自然の声に耳を澄まし、それを聞くだけではなく、それを理解しなければならない。もしそれを真に理解できないと、結局は目も耳も無用の長物になってしまう。しかし、目や耳だけを信用するわけにもいかない。自然は姿をかくそうとするから、そのかくれた姿を見ぬく力をもたなければならない。自然の声を聞きなさい。自分自身に尋ねなさい。そして、人間自体が無限なものであり、宇宙のようなものであることを忘れてはならない」

 客たちはこの賢人の一言一言に深く聞き入った。ヘラクレイトスは、またこう言う。

 「よく見ると、万物が流転していることに気づくだろう。何ものも同じ流れに二度とはいることはできない。太陽でさえ、毎日新しい。世界のどこにも、休息と平安はない。いたるところに戦いと争いがある。そして戦いは、ある者をどれいにし、ある者を解放して自由人にする。『神神や人間が争いをやめさえしたら』とホメロスは言ったが、それは大まちがいだ。もし、このことばのとおりになったら、万物は消滅してしまうにちがいない。なぜなら、この争いによって、万物は生じ、万物は滅びるのだから。あるものの死は、あるものの生でもある。たきぎが燃えるとき、木は死ぬが、火は生まれる」

 炉の炎がヘラクレイトスの顔を──まゆの上のしわや、きっと結んだ唇や、ちぢれた白いあごひげを照らした。

 この予言者はさらにことばをつづけた。

 「世界をつくったのは、神でもなければ、人間でもない。一定の法則によって燃えたり消えたりする永遠の火である。この火は、昔も今も同じように生きつづけている。はじめ、この火はまず水になり、空気になり、さらにこの大地になった。そして、すべてはふたたび燃えて火にもどる。これこそ生であり、また死である。このように、たたかい合う生と死が世界の調和をつくる。それは、ちょうど竪琴の弦のようなものだ。われわれは竪琴をひくとき、かわるがわるその弦を張りつめたり、ゆるめたりする。その『張り』と『ゆるみ』の組み合わせから、調和した音律を生みだす世界は混沌ではなく、完全なる調和である。無秩序のように見えるが、そこにきびしい秩序がある。すべては必然性に従っている。けものが食べ物を求めるのも、この必然性に支配されているからである。太陽でさえ、一定の軌道からはずれることはできない」

 やがて日は西にかたむいた。客たちはこの哲人に別れのことばを述べた。かれらはおみやげをもらった。それは目方はないが、あの重い黄金よりも価値あるもの──新しい思想というおみやげである。かれらは質問する前に、もうその答えをもらったのである。古い思想へはもう帰れない。客たちが出て行こうとすると、新しい訪問者──騒々しい子どもたちがやって来た。子どもたちは、ヘラクレイトスとオハジキ遊びをしに来たのである。

 子ども好きの老人は、にこにこしながら子どもたちを迎えた。ヘラクレイトスは言う。「子どもは世界の希望の光だ。永遠に尽きない泉だ。かれらこそ、未来の世界に君臨する者だ」

 こうして、人里はなれた森陰に、古い思想を破る新しい教えが熟して行く。それは、世界を支配する必然の法則についての教えである。では、この法則にどういう名まえをつけたらいいだろうか? ゼウスとつけようか?……いや、それでは古い神秘な世界に逆もどりし、神々の方に帰ることになる。

 ヘラクレイトスは、名まえを考えた。「法則」という意味の「ノモス」はどうだろう? 「世思の秩序」の意味の「コスモス」はどうだろう? それとも、「ことば」、「法則」、「真理」をあらわす「ロゴス」にしようか? 新しい思想を古いことばで言いあらわすのはむずかしい。結局、ヘラクレイトスは「ロゴス」をいちばん適当だと考えた。なぜなら、この「法則」こそ真理であり、自然も人間の理性もこの「法則」に支配されているのだから。

 こんな話が伝えられている。

 「あるとき、プロメテウスは神々から火を盗み、これを人間に与えた。そこで、ゼウスは怒って、プロメテウスをコーカサスの岩にしばりつけた。ところが、プロメテウスは少しも失望したいし、悲観もしない。かれは、ゼウスがそのむくいを受けることを知っていたし、何ごとも永遠につづくものではないことを知っていたからである。事実、のちにゼウスは海の女神と結婚し、子どもができたが、そのむすこのヘラクレスは父にそむいてプロメテウスを助けた」

 これと同じように、ミレトスやエペソスのにぎやかな港に近い海岸に、ゼウスにそむいてそれを圧倒する力が起こりつつあった。それは、ヘラクレイトスが説く「ロゴス」である。

 ヘラクレイトスは毎日、自分の考えを書きしるした。そして、そのノートをアルテミスの神殿にかくした。

 「このノートは、ここにしまっておいて、わたしの弟子だけが見ればよい。この知恵の宝は、おろかな民衆のために書いたものではない。『こんな書き物が何の役に立つ』と、俗人どもはいうだろう。かれらはロバのように、純金よりもわらがほしいのだ。

 民衆は、戸棚に物を整理してしまうように、何でも区別して、きまった秩序にあてはめる。良いものと悪いもの、有用なものと不用なもの、秘密なものと秘密でないものというように。しかし、海水は魚には必要だが、人間の飲み水にはならない。ブタは泥のなかをころげまわるが、ブタにとって泥はきたないものではない。どんなに美しいサルでも、人間に比べればみにくい。自由人にとっての幸福も、どれいには不幸だ。

 ところが、普通の人にはこれがわからない。光がなければ、闇として区別されるものはないし、嘘がなければ、真実もないはずだ。同じように、病気がなければ、健康とは何かわからないだろう。また、円周では終わりが始めであり、始めが終わりである。水が死ねば水が生まれ、水が死ねば蒸気が生まれる。われわれは、存在しているし、存在してもいない。なぜなら、われわれは一瞬でも同じものではなく、絶えず別なものになっているのだから」

 ヘラクレイトスは、このように考えた。しかし、かれは、ひとびとにはこの考え。が理解できないだろうと思っていた。なぜなら、ひとびとはあまりに狭い世界で育ってきたから。世界は広がったのに、ひとびとの心は昔どおり狭い。かれらには、その心が変えられない。かれらはただ自分だけの真実を知っており、それが反対側からも考えられるものだということに気、がつかない。しかし、教えてやってもむだだ。どうせ、わかりっこないのだから。かれらときたら、すきっ腹に何かを詰めこむことしか考えてはいない。

 老賢者は、このようにひとびとをののしった。しかし、いったい、真理はだれのためにあるのだろうか? もし、この「ひとびと」のためのものでないとしたら、だれのために真理を追求するのだろうか?

 しかし、ひとびとがこういう考えをしっかり把握し、ヘラクレイトスの非難の誤っていることがわかり、その非難を乗り越えて行くほどに成長するには、まだ何世紀かのちの時代まで待たねばならなかった。
(イリン著「人間の歴史」角川文庫 p322-329)

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◎「諸現象の全体としての姿の一般的性格を正しくつかんではいても、この全体としての姿を構成している個々のものを説明するのにはやはり十分でない」と。