学習通信050307
◎「精密な自然研究の初歩は」……。

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こうした個々のものを認識するためには、これをその自然的また歴史的な連関から取り出して、それぞれ別個に、その性状・その特殊な諸原因および諸結果などなどについて研究しなければならない。これが、まず第一に、自然科学と歴史研究との任務である。

このニつの研究部門は、古典時代のギリシア人たちのところでは、とりわけまずそのための材料を集めてこなければならなかったという、まことにもっともな理由で、従属的な地位しか占めなかった。精密な自然研究の初歩は、やっとアレクサンドレイア時代のギリシア人たちのところではぐくまれ、その後、中世にアラブ人たちがいっそう発展させるのである。しかし、一つの真の自然科学が、やっと一五世紀の後半に始まって、それ以後、絶えず速度を上げながら進歩してきた。

自然をその個々の部分に分解すること、いろいろな自然事象と自然物とを一定の部類に分けること、生物体の内部構造をその多様な解剖学的形態について研究すること、これが、最近四〇〇年のあいだに自然の認識にかんしてわれわれにもたらされたもろもろの巨大な進歩の根本条件であった。

しかし、それはまた、〈自然物と自然事象とを個々ばらばらに大きな全体的連関の外でとらえる、という習慣〉をも、〈自然物と自然事象とを、だから、運動しているのではなくて静止したものであり、本性上変化するものではなくて固定したものであり、生きているのではなくて死んだものである、ととらえる習慣〉をも、われわれに残した。そして、この見かたは、ベイコンとロックとがしたことであるが自然科学から哲学へ移されたことによって、最近の数世紀に特有の狭さを、すなわち、形而上学的な考えかたを、つくりだしたのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p34-35)

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<注解>
(二六) アレクサンドレイア時代──マケドニアのアレクサンドロス三世(大王)の東征(前三三四)からローマのエジプト併合(前三〇)までのいわゆるヘレニズムの時期と、ひきつづきローマ帝国の分裂(三九五)にいたるまでの時期とを併せて言う。この時代には、大王が前三三二年に建設したエジプトの港湾都市アレクサンドレイアが、国際経済関係の最大の中心地の一つであるばかりか文化の中心でもあり、とりわけ自然諸科学研究の一つの中心であった。ヘレニズムの時期を代表する数学者・自然科学者としては、幾何学のエウクレイデス〔ユークリッド〕や静力学のアルキメデスや天文学のヒッパルコスなどを挙げることができる。自然科学上のこの都市の重要性は、その有名な大図書館の焼失(三九〇)後にも失われず、アラブ人の侵入の時点(六四〇)にまで及んだ。この年までが「アレクサンドレイア時代」とされることもある。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p265)

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学者の進む道

 アレクサンドリアの「ミューズの神殿」は、実験に基礎をおく科学の殿堂だった。しかし、これまで三世紀にわたっての哲学者の自然研究がなかったら、この実験科学は誕生しなかっただろう。
 また、何千年間もガラス工や銅匠や、かじ屋や陶工が仕事をしていなかったら、この学問が生まれることはなかっただろう。
 では、なぜ、実験科学がアテナイではなく、エジプトのアレクサンドリアに最初に起こったのだろうか。
 それは、けっして偶然ではない。

 アテナイでは、いっさいの労働は自由民にかわってどれいの手で行なわれていた。そのため、労働はどれいのやることだとして、蔑視されていた。しかし、アレクサンドリアでは、それほどではなかった。ここでは自由市民も仕事場をもち、自由民の職人が自分のむすこや雇い職人といっしょに働いていた。

 アレクサンドリアでは、遊んでいる市民は一人もいないというのが自慢の種だった。びっこや、からだの不自由な者や、めくらでも、何かしら仕事を見つけてやっていた。だから、科学者たちがただすわっているだけでなく、手を動かして仕事をしたからといって、驚くにはあたらなかったのである。

 「ミューズの神殿」は、神殿と呼ばれていたが、むしろ工場に似ていた。いや、それは一つの工場ではなく、工場の群れであり、いわば科学の都市国家だった。あるへやでは物理学者が、別のへやでは天文学者が、織物の工学者が、それぞれ研究をしていた。

 科学はどんどん成長し、「ミューズの神殿」でも、最初の研究が次にはいくつもの研究に分かれ、研究者の集団の数はふえる一方だった。
 エウクレイデスは数学を教え、アルキメデスもそこで学んでいた。
 王や王子たちまで、学間を修めにここへやって来た。プトレマイオスー世ソテルは、エウクレイデスに、数学をてっとり早く教えてくれるように頼んだ。すると、エウクレイデスはこう答えた。「数学に王道なし」

──略──

「ミューズの神殿」の観測所では、天文学者が遊星の運動をしんぼう強く観測していた。かれらは、遊星が前進したり後退したりするのを見た。アリスタルコスの学説を信じれば、これは容易に解決がつくが、プトレマイオスの学説を信じると、とてもこれは説明がつかない。

 しかし、プトレマイオスは、自分の学説に固執して、星が動くのだと主張しつづけた。自説をささえるために、かれは天体さえもごまかさねばならない。かれは、月に地球を回らせずに、にせものの中心点を回らせた。また、遊星の運行をややこしい独特のものにしてしまった。

 このようなことは、人間の歴史では、無数にくり返されたことである。人間には、慣れて親しみのもてるもののほうが、ずっと信じやすいからである。たしかに、そのほうがずっと人間にはわかりやすい。この「容易さ」のために、人間はつい夢まぼろしのような説明をしがちだ。それは古くさい過去の観察法に、かびくさい習慣と信仰に、人間をつれもどすものである。

 ところで、もう一度、紀元前三世紀にもどろう。
 恒星は地球からどれほど離れているか、という質問が発せられている。
 この宇宙を測定できる人は、だれだろうか。
 この仕事を始めたのは、アルキメデスである。かれも、アレクサソドリアの「ミューズの神殿」で学んだひとりの科学者である。かれは、シケリアのシュラクサイに住み、宇宙の規模に関する著作をシュラクサイの王にささげた。その著作の題名は、「砂粒の数について」である。

 かれは、こう書いている。「ああ、王よ。あの砂粒を数えられないと思っている人がいます。もちろん、わたくしは、このシュラクサイにある砂粒や、シケリアの砂粒だけの話をしているのではありません。人の住むところ、人の住まないところをひっくるめて、全世界にある砂粒のことを申し上げているのです」

 こうして、かれは全世界にどれだけの砂粒を満たせるかを計算した。地球だけでなく、宇宙全体について。
 しかし、かれはまだ、この宇宙のことを恒星をちりばめたまるい天球だと考えていた。
 さて、かれの計算によると、宇宙にはいる砂粒の数は、1のあとにゼフが六十三もつく。これは、たいへんに大きな数である。しかし、無限に比べれば、小さいものだ。

 やがては、人間が天空の奥の奥までも見とおす時代がくるだろう。何ものよりも遠く走る光でさえ、そこからくるには何百万年もかかるという宇宙の極限までも見る時代がくるだろう。それでもまだまだ、人間の前には無限が広がっている。

 アルキメデスには、まだ無限の宇宙を考えることができなかった。かれは、地上の単位で天空を測っていた。しかし、地球と恒星の距離のとほうもないへだたりは、はっきり知っていたのだった。

 左手には小さな砂粒、右手には大きな山々。それにしても、人間の住む世界はなんと狭かったことだろう。それでも、もうそのころには、空は地球から百万マイルも離れていることが知られていた。そして、小さな砂粒も一つの世界であることが明らかにされていた。

 アルキメデスは、この小さな、目に見えない万物の根源である分子についての、デモクリトスの学説に好意をもっていた。この小さな分子の法則を発見しよう。かれも、この微粒子の世界の戸をたたいた。

 しかし、この門のとびらはなかなか開かない。
 この砂粒、この石の中へはいり込むのは、容易ではない。いちばんがんじょうなハンマーでも、なかなかこわせない。
 むしろ、水のなかのほうがはいりやすい。そこで、アルキメデスは、水の世界を研究した。すると、水の世界にも特別な法則があることがわかった。かれは、液体の世界をそう長く旅行する必要はなかった。「物の重み、がなくなる奇跡の世界」へ行くには、水を満たした水がめに手を入れさえすればいいのだ。

 どんなものでも、水の中ではずっと軽くなる。底に沈まないで、浮き上がる物もある。水の表面と水底の中間に浮く物もある。かなり重い物だけが水底に沈む。
 アルキメデスが、万物は目に見えない分子でできていることを知らなかったら、この水の世界を理解するのは、たいへんむずかしいことだったろう。

 アルキメデスは、どうして水は、そのうつわのままに形を変えるのかを、説明しようとした。かれは、こう説明する。──群衆がひとりひとりから成り立っているように、水は無数の小さい分子から成っている。群衆が広場で広場の形になるように、水もうつわに入れられると、その形をとるのではないだろうか。

 アルキメデスは、木片を水に投げ入れた。なぜ、木片は水に沈まないのだろうか。
 かれの考えは、こうだ。──水はたくさんの微粒子からできているから、上の方にある微粒子が、下の方にある微粒子を圧迫する。ところが木片は、上の水が下の水を圧迫するほどには、下の水を圧迫しない。だから、木は水よりも軽いことになり、水に浮くのだ。
 こうして、液体中の固体は、「それが排除する液体の重量だけ軽くなる」という法則を発見した。このように、物体がなぜ浮くかを考えながら、この法則、すなわち「アルキメデスの原理」を発見したのである。何千年もあとの今日、小学生でもこの原理を知っている。
 アルキメデスは、むずかしい数学や工学の問題を解こうとし、それらの難問題の多くが、ずっと昔すでにデモクリトスによって解決されていることに気がついた。

 アルキメデスは、アレクサンドリアに住んでいるとき、デモクリトスの名をほとんど聞いたことがなかった。なぜなら、デモクリトスは無神論者だったから、学者たちは学問上の議論にも、かれを引用することなど思いもよらなかったからである。
 アルキメデスはシュラクサイに帰って来てから、デモクリトスの書物を読みはじめ、そこに問題を解くかぎ──原子についての学説を見いだしたのである。

 アルキメデスは、その友人だったユラトステネスに手紙を書いた。エラトステネスは、王の権威をたたえ、無神論者デモクリトスを非難していた。かれは天文学者で哲学者だったばかりではなく、王の重臣だった。アルキメデスはそれを知っていた。しかし、エラトステネスに、デモクリトスの思想により自分がなしとげた進歩について教えてやることは、自分の義務だと考えたのである。

 かれは、こう手紙に書いた。
 「わたしは、あなた、がまじめな科学者であり、傑出した哲学者であることを存じております。だから、わたしは、一般的な定理の解決に非常に役だつ特別な方法を、あえて説明申し上げたいのです。この方法をはじめて提唱したのは、デモクリトスです。わたしは、この方法を書物に著わしたいと思いました。なぜなら、そうすることが、科学に対してきわめて重要な寄与をするものだと確信するからです。わたしと同時代の人たちや、これからの時代の人たちの多くが、このデモクリトス的な思想に親しみ、まだわたしも考えつかないような、新しい一般的な定理をうちたてることができるようになるだろうと、わたしは信じます」

 アルキメデスは、「ミューズの神殿」にいるほかの学者たちも、この手紙を読むにちがいないと思っていた。しかし、科学の利益のためには、かれらと、いやだれとでもたたかうことを少しも恐れなかった。かれは、いつでもこうした。「砂粒の数について」のなかでも、かれは、アレクサンドリアの学者たちが公的に否定した学説を、推論の基礎にしていたのだった。

 当時、かれはこう語っている。
 「サモスのアリスタルコスは、多くの暗示に富んだ本を書いた。この暗示の結論は、この世界は、われわれが考えているよりも、はるかに大きいということである。アリスタルコスは、恒星や太陽は動かず、地球が太陽のまわりを回るという地動説を唱えているからである」
 このようにして、「デモクリトスの道」は、科学の公道になり、この道に沿って古代の輝かしい科学者アリスタルコスとアルキメデスが、歩みを進めた。

 ところで、アルキメデスは、科学者だっただけではなく、技術者でもあった。当時は、技術は科学者にとって価値ある仕事とは考えられていなかった。プラトンは、友人のアルキュタスが機械学などで時間を浪費していると言って非難した。アルキュテスは、空を飛ぶ木のハトを作ったのである。プラトンには、こんな仕事は哲学者のやる仕事とは思えなかった。機械学などは、職人の仕事だ。こんなことは職人にまかせておけばいい。アルキメデスは、こういうプラトンとその一派を非難した。かれは、機械学を真の科学にするよう全力を尽くしたのだった。

 ひとびとは機械の機能に驚きながらも、さっぱりわけがわからなかった。それは一つの奇跡──魔術だった。テコにちょっと力を入れると、あんなに重いものが容易に持ち上がるなんて。ひとびとには、テコが自然の法則に反しているように思えた。

 アルキメデスは、テコの原理を発見し、これは、魔術の不思議な力のせいではなくて、自然の法則によるものだということを、ひとびとに示した。
 アルキメデスは、アルキュタスのように、自動仕掛けのおもちゃを作ったのではなく、ほんものの機械を作った。かれは、隠してある水力モーターで動く銅製の天体義を作った。この天体儀が動くと、朝には太陽が月と位置を交替し、月食には月が地球の陰にかくれ、また遊星、がどのように空を動くか、などが見物人に一目でわかるように示された。

 アレクサンドリアにいたころ、かれは畑を潅漑するエジプトの機械を改良して、揚水機を造った。のちに、この揚水機は鉱山で用いられた。スペインの鉱山業者は、しばしば地下水にぶつかった。かれらは、はじめはこの水を低い廃鉱に流し込んで防いだが、のちにはこのアルキメデス式揚水機で、それをすっかり排水することができたのである。

 アルキメデスは、建物の柱がどの程度の重量に耐えられるかを計算した本を書いた。これは、建築作業で非常に重要な役割をはたした。
 大工がひとりでこつこつと船を追っていた時代は、もう過ぎ
た。アルキメデスが住んでいたシュラクサイでは、「町のような巨船」が港に浮かんでいた。船には、屋根つきの廊下、観測所、体操場まであった。また、甲板には、都市の城壁にあるような商い展望台があった。こういう巨船を造るには熟練した職人だけではなく、しっかりした技師が必要だった。

 こんな話、がある。
 あるとき一そうの船ができたが、それがあまりに大きくて重い船だったので、進水することができなかった。シュラクサイの市民が総出で船を押したが、船はびくともしなかった。そこで、かれらはアルキメデスに助けを求めた。アルキメデスにとっては、これは別に目新しい問題ではなかった。「テコの原理」の発見者は、かれなのだから。かれは、こう言っていたという。「支点さえあれば、わたしは地球だって動かしてみせる」と。

 さて、かれは、その船のまわりにテコと滑車の仕掛けをし、百人からの人がロープをひっぱった。すると、船はするすると進水して行った。シュラクサイ王ヒエロンはこれを見て、「きょうからは、アルキメデス、が何を言っても信ずるようにとの命令を、わたしは発しよう」と、叫んだということである。

 かつてはひとびとが、巨人ヘラクレスや、天空を肩にささえているというアトラスについて、夢物語を語り合った時代もあった。しかし、いまやひとびとは、これらの巨神についてではなく、アルキメデスについて語り合うのだった。

 あるとき王、が金属職人たちに、黄金の王冠を作らせたことがあった。ところが、かれらは悪い連中で、王冠に銀を混ぜたらしかった。そこで王はアルキメデスを呼び、これを見破る方法を考えるようにと命じた。

 アルキメデスは、日夜この問題を考えつづけた。食事中も、散歩中も、入浴中さえも、考えることをやめなかった。そして、とうとう入浴中にこの問題の解き方を発見し、はだかのまま外へとび出した。「わかったぞ! わかったぞ!」と叫びながら。

 かれが湯ぶねにゆっくりとからだを沈めると、湯が湯ぶねからあふれ出た。そのとき、ある考えが頭にひらめいたのである。──王冠と同じ重さの金塊を、水のはいったうつわに入れると、いくらかの水がこぼれる。つぎに王冠を入れる。もし王冠、が純金だったら、あふれ出る水の量は同じはずである。あふれ出る水の量が多ければ、王冠には銀が混じっている。銀は金より軽いからである。

 アルキメデスは、この実験をくり返した。いつも同じ結果が出た。つまり、銀の混じった王冠は、常に純金のかたまりより余分に水を排除するわけである。ごまかしがばれ、みんなすっかり驚いた。なかでもいちばん驚いたのは、犯人の金属職人たちである。かれらは巧みなペテン師だったから、金に銀を混ぜても、だれにも見分けられないはずだと考えていたのである。

 これは、おそらくつくり話だろう。科学的知識のないひとびとは、学者の思考のすじ道を理解できないから、つくり話をつくる。リンゴの実が落ちたのを見て、ニュートンが引力の法則を発見したという話も、このたぐいであろう。
(イリン著「人間の歴史」角川文庫 p450-464)

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自然をその個々の部分に分解すること、
いろいろな自然事象と自然物とを一定の部類に分けること、
生物体の内部構造をその多様な解剖学的形態について研究すること、
これが、最近四〇〇年のあいだに自然の認識にかんしてわれわれにもたらされたもろもろの巨大な進歩の根本条件であった。