学習通信050309
◎「他人の仕事をただながめるだけ」……。

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 子どもがなにも言わずに力をこめて手をさしのばすときには、かれはものにふれようとしているのだ。かれには距離がわからないからだ。かれは思いちがいをしているのだ。しかし、泣き叫びながら手をだすときは、もう距離について思いちがいをしているのではなく、そのものにこっちへくるように、あるいはそれをもってくるように命令しているのだ。

第一の場合には、ゆっくりと一歩ずつ、そのもののほうへかれを連れていくがいい。第二の場合には、かれの言うことがわかるふりさえしないことだ。いっそう泣き叫んだら、なおさら耳を傾けないことだ。

子どもは人々の主人ではないのだから、人々に命令しないように、また、ものはかれの言うことが聞こえないのだから、ものにも命令しないように、はやくから習慣をつけさせる必要がある。

だから、子どもがなにか見ているもので、あなたがたがあたえてもいいと思っているものをほしがったら、それを子どものところにもってくるより、子どもをそこへ連れていったほうがいい。そういうやりかたから、子どもは年齢にふさわしい結論をひきだす。その結論をかれに暗示する方法はほかにない。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p80)

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あそび

 あそびというものは子どもの生活の中で重要な意味をもっています。それは成人には社会的活動、労働、職務があることと同様の意味をもっています。多くの点で、成人してどのような働きをみせるかということは、子どもの時どのように遊んだかに関係があるものです。従って未来の活動家の教育はまずあそびの中ではじまるのです。活動家としてあるいは働き手としてのその人間の生涯の歴史は、あそびの発展のなかに、あそびが仕事へしだいに移行するなかにあらわれるはずです。

この移行は極めてゆっくりと行われます。子どもが極く小さいうちは、遊ぶことに専念します。仕事をするという機能はほとんど気ずかぬほどのもので、きわめて単純な身のまわりのことをするにとどまります。つまり、ひとりで食べるとか、毛布にくるまるとか、ズボンをはくということをはじめます。しかしこのしごとのなかにもかなりあそびをもちこみます。きちんとした家庭ではこのしごとをするという機能はだんだん複雑になり、ますます複雑な仕事が子どもにまかされていきます。

はじめは自分の身のまわりのことを自分ですることをねらいますが、やがては家族全体にとって意義のある仕事がまかされていきます。しかしこの時期のあそびは子どもの重要ないとなみであり、子どもをもっとも熱中させ、夢中にさせるものです。学校へ通う頃になると仕事はもう極めて重要な位置を占め、しごとは重大な責任と結びつき、しごとは子どもの未来の生活に関わるいちだんと明確な意識と結びつき、そしてそれはもう社会的活動に近い性格をもってきます。

しかしこの時期であってもまだまだあそびに熱中しますし、あそびが好きですから、あそびが仕事よりずっとおもしろくて、仕事をあとまわしにして遊びたいと思う時は、かなり複雑な抵抗が子どもの心に残ることもあるものです。このような抵抗が生まれるということは、つまり、あそぶことと仕事をすることの機能についての教育がうまくいかなかったか、はめをはずした行為を親が見逃したということになります。こう考えてみると、子どものあそびに対する指導に、どれほど重要な意味があるかということがはっきりしてきます。

世の中には、もう学校は出たけれど仕事をするより遊ぶことの方がおもしろくてならぬという人がたくさんいます。夢中になって快楽を追い、友だちとおもしろおかしくつきあうために仕事を忘れるという人たちはその類いです。また、気取ったり、もったいぶったり、おどけてみたり、むやみにホラを吹くのもこの種の人間です。

そういう人間は、子どもの頃から厳格であるべき生活にあそびの傾向を持ち込んで、その傾向が仕事のなかで正しく変革されなかったので、つまり間違った教育の結果で、この間違った教育は、主としてあそびがきちんとしていなかったことに起因します。ですができるだけ早く、子どもをあそびの世界からひきはなして、仕事の骨折りや苦労をあじあわせるべきだと強調するのではけっしてありません。むしろそのようなきりかえ方はよい結果を生みません。子どもを圧迫し、仕事に対する嫌悪感を招き、かえって遊びたいという気持ちを強めることになります。

未来の活動家(働き手)の教育は、あそびの排除にあるのではなくて、あそびはあそびとして、あそびのなかで未来の働き手として、市民としての資質を育てるようにあそびを構成することにあるのです。

 子どものあそびを指導し、子どもをあそびのなかで育てるために、親はあそびとはなにか、仕事とあそびはどんな点に相違があるのかという問題を充分考えることが大切です。この問題を考えない親、きちんとその違いを認識しない親は子どもを指導することはできませんし、間題がおこるたびにとまどい、教育するどころか、子どもを堕落させてしまいます。

 おことわりしておきますが、多くの人が考えるほどあそびと仕事に大きな違いがあるわけではありません。健全なあそびというものは健全な仕事によく似ていますし、不健全なあそびは不健全な仕事に通ずるものです。この類似はきわめて大きく、いいかげんな仕事は仕事というよりむしろいいかげんなあそびに近いといってもいい過ぎではありません。

 健全なあそびにはどれをとっても、少なくとも仕事をする努力と考える努力があるものです。子どもにゼンマイ仕掛けのネズミを買ってやり、一日いっぱいネジを捲いては動かしてみせる、ところが子どもは日がな一日それをながめて喜んでいるというのであれば、そのあそびにはなんの取り柄もありません。子どもはこのあそびのなかでは、受身のままで、あそびに参加しているとはいうもののただながめているだけです。

子どもがそんなあそびしかしないということになれば、他人の仕事をただながめるだけの、創意のない、仕事に新しいものを生みだすことも、困難に打ちかつこともできない消極的な人間になってしまいます。努力をともなわないあそび、積極的な活動をともなわないあそびは、いつもいいかげんなあそびなのです。もうおわかりの通り、こうした点であそびは仕事に通ずるものがあります。

 あそびは子どもに喜びを与えます。それは創造の喜び、成功の喜び、美に酔う喜び、つまり質的な喜びであるはずです。健全な仕事もおなじ喜びをもたらします。ですからこの点でも全く一致するのです。

 それでも仕事には責任があり、あそびにはそれがない、そこが仕事とあそびの違うところなのだと考える人もいます。それは間違いです。あそびにも、仕事とおなじように大きな責任があるのです。もちろん健全な正しいあそびの場合に限りますが、これについてはのちほど詳しくお話することにします。

 それにしてもあそびはどんな点で仕事と違うのでしょうか。その違いというのはただ一つです。仕事というのは社会的生産あるいはその生産の方針に、物質的、精神的創造に、いいかえれば社会的価値の創造に人間が参加することなのです。あそびはこのような目標を追求するものではありませんし、社会的目標に直接関わりをもつわけでもありません。しかし間接的関係はあります。つまりあそびは、仕事には欠くべからざる肉体的、心理的努力を人間に習慣づけるものだからです。

 子どものあそびを指導する問題で親はなにを要求されるか、もうはっきりしています。第一に、あそびが子どもの唯一の望みにならないように、社会的目標から子どもを全く遠ざけることのないように気を配ること、第二には、仕事に欠くべからざる心理的、肉体的な習慣的反応をあそびのなかで育てることです。

 第一の目標はすでに述べたように、徐々にしかも着実にあそびに変ってあらわれる労働の分野に子どもを少しずつひきこむことで達成されることになります。第二の目標はあそびそのものの正しい指導、つまりあそびの選択と子どものあそびを援助することによって達成されます。
(マカレンコ著「子どもの教育・子どもの文学」新読書社 p30-35)

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◎「子どもがなにか見ているもので、あなたがたがあたえてもいいと思っているものをほしがったら、それを子どものところにもってくるより、子どもをそこへ連れていったほうがいい。そういうやりかたから、子どもは年齢にふさわしい結論をひきだす。その結論をかれに暗示する方法はほかにない」と。

◎「あそびは子どもに喜びを与えます。それは創造の喜び、成功の喜び、美に酔う喜び、つまり質的な喜びであるはずです。健全な仕事もおなじ喜びをもたらします。ですからこの点でも全く一致するのです」と。