学習通信050310
◎「それはあした≠ネのです」……
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「明日」について
いない、いない、ばあ
「子どもはあした≠ェ好き」という背表紙の文字を本屋の棚に見出して、私のメモ帳のなかから、ある無認可保育所の若い園長さんからいただいたがり版刷りのパンフからの書き抜きをとりだした。
「きのう∞きょう≠した>氛汕鼾ホ半から三歳ぐらいの間に、こうした三つの言葉が、子どもの中に定着して正確に使われるようになります。では、どの言葉が、最初に、そして正確に使われると思いますか。
それはあした≠ネのです。
保育をしている者にとっては、あたりまえの事実ということですが、お母さん、お父さんにとってはいかがですか。
私流にいわしてもらうと、こうです。歩き始めた子は、後ろに倒れますか? 手を前に出して、ころびそうになりながら前へ前へと歩きますよね。斜面を登れるようになった子を見て下さい。隆りるとき必ず泣きますよ。後ろ向きに降りるのだって、大変です。それに、まだ歩かない赤ちゃんにいない、いない、ばあ≠ニやると笑うというのは、いない、いない≠フ次がばあ≠セとわかる──それがわからなければ決して笑いません──ということでしょう。くったくなく笑う子ども、すこやかに育つ子どもの求めているもの、それはあした≠ネのです。ですから、あした≠ニいう言葉は、最初に正確に使われてあたりまえだし、子どもの存在そのものがあした≠セと思うのです」
隠れているあしたを
もっとも、「いない、いない、ばあ」については、右と一見矛盾するような説明がやはり私のメモ帳のなかにある。
「いない、いない、ばあ」でよろこんで笑う五、六ヵ月の乳児にとっては、まだもっぱら現在があるだけ。だから「いない、いない」で母親の顔が隠されるということは、その乳児にとってみれば、それが消失するということ。その消失した母親の顔が「ばあ」で現われる、そのおどろき=よろこびに乳児は笑うのだ、と。
でも、この二つは同一の事柄をそれぞれ別の側面から指摘しているのだ、と思う。二、三ヵ月ではまだ「いない、いない、ばあ」で笑うことはない。年長兄になれば、もう「いない、いない、ばあ」でよろこびはしない。未来をとらえる力がめばえかける、まさにそこのところに「いない、いない、ばあ」のよろこびが成立するのだろう。
「六ヵ月=人見知りがはじまる時期。知っている人と知らない人とを区別する。きのう抱いてくれたお母さんと、いまここにいるお母さんとの同一性の認識=たんに現在に生きることをぬけだしはじめていること」と、つづけてメモにある。このメモは、確か高知で、滋賀大学の加藤直樹さんのお話をききながらとったものだった。
私のメモ帳には、先ほどふれたパンフからの次のような書き抜きものせられている──
「心身に障害をもつ子がいます。大人のなすべきことは、あ─、この子には《あした》が見えない≠ニいうことでは、絶対にありません。見えないあした=A隠れているあした≠、子どもの中に発見し、引き出してやることです」
「さざんかの宿」
「二十年後のボク(わたし)」という題で子どもたちに作文を書かせる。十年ほど前は、子どもたちの作文に示される未来像にマイホーム型がふえ、夢が小さくなったといわれていた。しかし最近では、そのマイホーム型の未来像すら描かれない。──こういう村越邦男さんの報告がある。
では、どんな作文が出てくるかといえば──
「毎日ローンに追われているだろう。そして結局はサラ金のため浮浪者になって殺されるだろう」「結婚し、そして離婚しているだろう」
こんなのが出てくるという。
「さざんかの宿」が昨年(1984)、カラオケでのヒット曲NO.2となったことが思いあわされる。「くもりガラスを手でふいて、あなた明日が見えますか」というのが、その歌い出しであった。人間はもう、滅びるのだろうか。
「目に力のない若者がふえた」という趣旨のことを、どこかで司馬遼太郎氏が書いていた。それは、死滅を間近にしたものの表情なのだろうか。
ある青年団の記録から
ある県の連合青年団でもらった文集の一部を私は思いだす。それは「顔」と題されていた。
「私は、いい顔でありたい、と今つくづく感じています。人間は、その人の顔を見るだけで、その人はどういう人かがだいたいわかるといいます。また、顔は、自分で作るものだと、ある人から聞かされたことがあります。そうだと思いました。人間の顔は、変わります。いろいろな経験をして、悩んだり、悲しんだり、喜んだりして、一歩一歩成長していく私たち、その中で顔は、微妙にいろんな風に変化していくものだと思います。私は今、成長しているど真中、だからもっといろんな経験をして、笑顔のきれいな、いい顔になりたいと思っています。いつも何かに挑戦している人、自分の目標にむかって前進している人は、いい顔をしています。私もそんな風に自信のもてるいい顔になりたいと思っています」
私は、人間はまだまだ絶対に滅びないと思う。
(高田求著「新・人生論ノート PART.U」新日本出版社 p32-36)
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歴史に対する責任
まず第一に、戦争責任の問題です。あなた方が生まれたときにはもちろん、あなた方の親が生まれたときでさえ、第二次世界大戦はもう終わっていたでしょう。だから自分たちには戦争の責任はない、と考える人がいるかもしれませんね。しかし、それはちょっと甘いと思うのです。
なぜ甘いか。歴史的な観点から見てみましょう。過去に起こった出来事の結果が現在です。現在の状況は、あるとき突然天から降って湧いてきたものではありません。さきほど述べたように、有事法制案の前には、「なし崩し」の積み重ねがあったわけですね。そういう積み重ねの結果として、現在、有事法制案が議論になっているのです。だから、有事法制案を十分に理解するためには、過去に関する知識が必要なことはいうまでもないですね。過去と現在は結びついている、現在は過去の結果以外のなにものでもないからです。これが最初に言いたいことです。
次に、こんどは未来に目を向けてみましょう。これからあなた方がどうしていこうかというときに、すべての行動には目的があります。どこへ行きたいという目的があるはずです。その目的を達成するための手段は限られています。だから、与えられた手段のなかから、そのとき使える手段を選んで、目的を達成しようと努力するわけです。
もっと細かい理屈が好きな方には、行動原理、行動理論の本がありますから読んでみてください。戦後、アメリカの社会学者のパーソンズが詳しく書いていますが、要するに、目標があって手段があり、その二つがあらゆる行動の条件であるということです。
「思うこと」から、自分でこうしたいという目的が出てきます。たとえば、週末にディズニーランドヘ行きたいという目標があるとしましょう。次にそこへどうやって行くのか、ということで、いろいろな手段を考えますね。ここからディズニーランドヘ行く手段はたくさんあるでしょう。遠すぎて歩いては行けません。自動車では道が込む可能性があります。いちばん便利なのはおそらくヘリコプターでしょうが、それはお金がかかるから使うことができないとしましょう。たとえ道が込む可能性はあっても自動車を運転して行くか、時間がかかっても電車を乗り継いでいくかでしょう。普通、私たちは、そういうふうに手段を選んでいきます。
すべての行為が成立するための条件のうち、半分は目的の選択です。そしてもう半分の条件は手段の選択、ということになります。手段はいま与えられている手段のなかから選ぶわけですが、現在使えるすべての手段はつねに過去の歴史がつくりだしたものなんですね。そのなかから選択するほかないのです。
ですから、未来に目を向けたときにも、手段は過去の結果としての現在から選択される、つまり、現在において過去と未来は出会っているわけなのです。現在は過去の結果であると同時に、現在のすべての行動は未来へ向かっているのですから、過去は未来へ向かっての行動の条件であるということができます。戦争などの大がかりな問題だけではなくて、週末にどこへ行くかというような話のときでも、私の言っていることは妥当します。すこし抽象的ですが、すべての行為を含んでいるのです。
だから、戦争が終わったときに生まれていたか生まれていなかったか、などということはあまり重要な問題ではありません。いまあるもののなかから未来へ向けての手段を選択することは、過去の結果の中から選ぶということであり、同時に、現在は未来へ向かってのあらゆる行動の条件であるわけですから、現在に生きていることは、過去とは切り離せないということなのです。
未来へ向かってどういう手段を選択するか、というときには、過去の歴史を振り返ったうえで、批判的に選択していくことが必要になります。あなた方が過去から譲られた結果のひとつである核兵器の可能性を、ひとつの手段として受け入れるのか受け入れないのか。その選択の責任は、過去にあるのではなくて、現在にあるのです。核兵器を手段として使うのは、現在生きている人ですから、これは当然のことです。
(加藤周一著「学ぶこと 思うこと」岩波ブックレット p42-45)
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◎「未来へ向けての手段を選択することは、過去の結果の中から選ぶということであり、同時に、現在は未来へ向かってのあらゆる行動の条件である」と。