学習通信050311
◎「一人もこない芝居」……。
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序章 「ニッポン、大好き」
日本は、わたし≠フ国」「誇り高い国」「美しい精神の国」「伝統文化がすばらしい国」「ほっとできる国」「ニッポン、最高」。
だって日本は、自分が生まれた国、母国、豊かで安全で落ち着ける国。そして私は、ニッポン人なんだもの。
これは、筆者が二〇〇二年の前期、講義を行った専修大学文学部の学生たちから出た意見だ。
二十歳、二十一歳を中心にした彼らは、どこにでもいるいまどきのふつうの若者#ッを茶色に染めている男子もいれば、講義中に平気で化粧をする女子もいる。
そういう彼らに「あなたにとって日本とはどんな国ですか?」といった日本に対する思いや印象を間う記名式のアンケートを行ってみたところ、返ってきた記述には「日本はいい国」「好きな国」などの肯定的な内容が目立った。
数でいえば、一四〇名中、積極的な肯定派は五九。中立派は四三。「腐敗した国」「情けない国」といった否定的なイメージを書いた学生数は、三八にとどまった。
また否定派の中にも、「もっと誇りを待ってほしい」「アメリカにこびないで」「自国の力だけで成立できるようになるべき」といった、曰本の自立≠ヨの期待を記述した学生が目立っていた。
これは、筆者にとっては、半ば意外、半ば予想通りの結果だった。というのは、「大学生といえば、社会に対する問題意識や批判精神がいちばん高まる時期。ほかの世代に比べても、日本を無条件に肯定する人は少ないはずだ」という気持ちと、「最近、もしかすると手放しで日本を肯定し、賞賛する人が若い世代にも増えているのではないか」という気持ちとがあったからだ。
無邪気に「ニッポン、大好き」という若者が約半数近くを占めたというこのアンケート結果だけからなにかの結論を導くのは危険だが、さしあたっては、筆者の予想のうち後のほうが当たった、と仮定することができるのではないか。
日本が好き。
そう口にする人を前に、顔をしかめる日本人はまずいないはずだ。「和」のブーム、日本語をテーマにした本のヒットなどを見ても、「日木的なもの」をもう一度、見直したり生活に取り入れたりしよう、という動きが高まっているのがわかる。『AERA』二〇〇二年八月五日号にも、「筆文字でほっとしたい」というタイトルで、二十代、三十代の若いクリエーターが「筆文字屋さん」としてさまざまなシーンで活躍している現状のルポが掲載されていた。「ストリート書道」と称して、相手がリクエストした文字をTシャツに書くパフォーマンスで若者に大人気の若き書道家もいるそうだ。
それは、「日本という国が好き」というよりは、「日本文化が好き」という気持ちの現れと考えてよいだろう。
ただ、そのふたつの間に明瞭な線を引くことはむずかしい。強いて言うなら、私はこう考える。
「日本文化が好き」というのは、その一方に「日本文化は好きじゃない」「イギリス文化がもっと好き」などと発言する余地を残している。つまり、多くの文化の中からたまたま(たとえそれが選ばれる確率が他より有意に高くても)それを選んだ、という選択の一例にすぎないのだ。だからこそ、日本文化ブームはブームとして、人気が上がったり下がったりするわけだ。
ところが、「日本という国が好き」は少し違う。そう発言する人の前には、「日本という国は好きじゃない」「イギリス文化がもっと好き」といった対立概念は存在しないのではないか。あるいは、そういう人たちは排除されてしまうのではないか。極端な言い方をしてしまえば、「日本国が好き」と言う人たちには、生涯、ほかの選択は存在しないのである。中には、ほかの選択があることを知らされずに、あるいはかつては知っていたはずなのにいつの間にか忘れさせられて、「日本が大好き」とあたかも自分が自分の意志で選び取った考えであるかのように、それを口にしている人もいる。
そういう人たちはいまその数を増やしつつ、増やされつつあるのではないだろうか。そして、そのことは日本社会で不気味に広がりつつあるさまざまなひずみや病理と、深く関係しているのではないだろうか。
そんな彼ら──無邪気なプチナショナリストたち──と、彼らを生んだ社会背景について検討するのが、本書の目的である。
二〇〇二年の日本に広がるぷちなしょな風景≠サれは、あなたのすぐ隣にまでやって来ているのではないだろうか。
(香山リカ著「ぷちナショナリズム症候群 若者たちのニッポン主義」中公新書ラクレ P4-10)
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流行嫌い
三Cなどと言い、近ごろの家庭はカラーテレビ、カー(車)、クーラーをそなえることが常識化しつつあるらしい。現に私の家の両隣はクーラーをそなえつけているし、前の家二軒は車を使っている。カラーテレビをつけていない家などない。
こういうことは、珍しくも何ともないわけで、鶴岡に行っても山形に行っても、事情は同じであろう。クーラーの普及率は知らないが、車の普及率は多分東京を上回るだろうし、いまどきカラーテレビがない家などあるまいと思われる。
ところで私の家には、この間まで何もなかった。私はそのことをひそかに自慢にしていたのだが、つい先だってカラーテレビを買った。これもカラーテレビが欲しかったわけではなく、使っていた白黒テレビにガタがきて、画面に出てくる人の顔が、みなクシャおじさんのようになったからである。
このテレビは、そろそろ寿命がきている品物である。それを修繕して、なおも白黒でがんばるというほど、私もヘソ曲りではないので、ガタを機会にカラーに切り換えたわけである。しかしこれまで、白黒でべつに不自由したという記憶はなかった。色わけしたパネルを説明するアナウンサーが「この赤い部分は……」などと言ったりする無礼を気にしなければ、それでこと足りるのである。
カラーテレビは買ったが、私はいまのところ車を買う気も、クーラーを入れる気もない。東京の人混みの中を車を乗り回しても仕方がないし、車に乗らなくとも、バスもあり電車もあって不自由しないのである。車は交通不便な地方にこそ最適で、便利な乗物である。
クーラーなども、人が大勢集まるオフィスや喫茶店といったところはともかく、四、五人しか人がいない一般の家庭で必要だとは思えない。
人間もある程度自然のもので、暑ければ裸になって風を入れればいいし、寒ければ厚着して炬燵にでも入っているのがいいのである。むかし読んだ先哲叢談のなかに、夏葛冬裏それが養生というものだといった言葉があったのを思い出す。夏は涼しいかたびらを着、寒くなれば皮ごろもを着る。自然にさからわないやり方が、身体に一番いいという意味である。
と、一応の屁理屈は持っているものの、正直なことを言うと、私は流行が嫌いなのである。だから次の三種の神器は三Cなどと言われると、聞いただけでそっぽをむきたくなる。
むかしフラ・フープという奇体なものがはやり、路上やビルの屋上で、いい大人があのプラスチック製の輪を、腰のまわりに浮かせることに熱中していた。私もやった一人だ。
ダッコちゃんという人形がはやって、子供ばかりでなく、街頭を行く若い女の子が、腕にとまらせて歩いたりした。ダッコちゃんは作っても作っても売れ、やがて品切れ状態になって、有名百貨店にも一日何個と決まった数しか入らなくなった。それをもとめる人が、早朝から西武百貨店の前に行列をつくっているのを目撃したことがある。
こういう正体不明の一過性の流行もある。いま、当時ダッコちゃんを腕にとまらせて歩いた女の人に、当時の気持を聞いても、なぜそうしたかはわからないだろうと思う。流行が終ってしまえば、なんだと思うようなものだが、人々が熱中したのは間違いないことであり、そこに流行というものの無気味な一面がある。あるいはそれを受け入れる人間の気味悪さがある。
これとは別に、メーカー主導型、マスコミ主導型、政府主導型といったように、割合正体がはっきりしている流行もある。車やカラーテレビがーペんに普及したり、女性のスカートがミニになったりロングになったり、あるいは万国博に何百万もの人が集まったりするのがそうした例である。国鉄主導のディスカバー・ジャパンとか、航空会社が開発した海外旅行ブームというのもある。
そして戦争にも、軍部主導型の一種の流行の要素があったかも知れないといえば、あるいは異論が出るかも知れない。しかし昭和十三年十月に漢口が陥落したとき、それで中国との和平の機会が遠のいたことを知っていた陸軍参謀本部は沈みきっていたが、参謀本部の建物の前を、昼は縦行列が、夜は提灯行列が続き、万歳の声は終日やまなかった。
その勢いは、火つけ役の軍部も、もはやとめ得ないものだったのである。国民は、実際は部分的、局地的なものに過ぎなかった勝利を、本物の勝利と受け取っていた。勝利に酔い、戦争による犠牲に対しては、いずれ中国がたっぷり代償を支払うだろうと思っていた。
昭和十六年十月、近衛首相は、まったく行きづまった日中戦争を収拾し、和平にみちびくために、中国大陸からの撤兵を考えたが、東条陸相は強く反対し、やがて近衛は辞職して、日本は太平洋戦争に突入して行く。そのとき近衛に反対した東条の意見の中には、前にのべたような国民感情を顧慮した言葉があったという。
また、外地にいた軍関係の民間人の中には、本職の軍人よりも軍人くさい人間がいたことは、山本七平氏が「私の中の日本軍」のなかで、繰りかえしのべていることである。悲しむべきことだが、戦争の過程にも流行の心理があらわれ、人を熱狂させるのである。
私には、流行というものが持つそういう一種の熱狂がこわいものに思える。人を押し流すその力の正体が不明だからである。それがダッコちゃんにも結びつくが、戦争にも結びつく性質を持っているからだろう。
筋道をつければこういうことで、以上は流行というものについての私の基本的な考え方ということになるが、それでは私がいつもその筋道に照らして、流行を白い眼でみているのかというと、そうでもない。なんというか、ほかにもっと理屈抜きの流行嫌いの気持がある。
たとえば、いまでも幅の広いネクタイを嫌い、また子供を塾にやろうとしない。こういうことは、理屈より先にはやりだからいやだとの気持が先立つ。こういう気持の動きが、決して上等のものでないことが、自分でもわかっている。やはり一種のヘソ曲りで、偏屈でいやらしいところがある。これは何だと、自問自答することがあった。
話は変るが、秋に鶴岡に帰ったとき、私は同じ村の本間岩治さんに一冊の本を頂いた。工藤仮泊さんが書かれた「農民歌人上野甚作」という本である。四十頁ほどの薄い本だが、中味は、鋭い鑿(のみ)でしかも骨太に彫りあげた上野甚作論だった。私は工藤さんのお名前は存じ上げているが、書かれたものは初めて拝見したので、鶴岡にこういう文芸評論をなさる方がいるのかと、眼がさめる気がした。
この甚作論の中に、上野甚作にはカタムチョ(意固地)な一面があったと書かれているのをみて、私はハタと自分の性癖に思いあたった気がした。私の流行嫌いも、恐らくは荘内農民のカタムチョ(私の母はカタメチョと言っていたようだ)からきている。そして多分、慣れない都会に住んで、そこで流されず自分を見失わないためには、私はカタムチョであるしかなかったのである。ここまで書いて私は家のものにカタムチョを説明し、「俺にはそういうところがあるな」と言ったら、家内は即座に「ある、ある。片ムチョどころか、両ムチョですよ」と言った。
(藤沢周平著「周平独言」中央文庫 p253-259)
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新春対談 ざっくばらんに
観客が自分の中に多喜二を持つこんな不思議な芝居は初めて
俳優・演出家 米倉斉加年さん
不正に対してたたかう心情と愛情は表裏の関係なんですね
日本共産党書記局長 市田忠義
──略──
市田 新年おめでとうございます。米倉さんと初めてお会いしたのは創立八十周年の記念集会(二〇〇二年)のときでした。あのとき「本日、この場で日本共産党の八十周年を記念して語れることがどれだけ光栄であることか、一生忘れないでしょう」とおっしゃってくださった。ほんとうに胸にしみいりました。その後、舞台「小林多喜二 早春の賦」を拝見しまして幕が下りた後、舞台をつくった方々の前で何か一言といわれたのですが、胸がいっぱいで、涙でことばにならなかったことを思い出します。いま第三次公演で、どこもいっぱいとうかがっていますが。
☆★……☆ 多喜二の目で
米倉 ありがとうございます。ぼく自身こんな不思議な芝居やったのは初めてです。最近気がついた、ああこれは芝居じゃない、多喜二記念集会なんだと。お客さまは受け身で何か見にきたというのではない。自分の中にある多喜二、つまり、いざというときにきちんと発言する勇気と心はあるかとみずからに問いかける。
市田 つまり、舞台を見ながら、自分が現代をどう生きればいいかを重ね合わせながら考えるということでしょうか。
米倉 そうです。自分のなかの多喜二を見つめ、多喜二と対決するときに、客はみんな多喜二になる。多喜二の目を通して、自分の中の多喜二をみんなが発見し、自分の中に多喜二をもつんです。
でもね、公演は必ず当日まで人数がつかめてないんですよ。ほんとうにハラハラするんですけれど入るんですよ。ですからぼくはいつも言っているの。「これはね、多喜二がお客さんの手をひっぱりにいっているんだ」(笑い)
──略──
米倉 多喜二は小説を書いて、普通に生きようとして殺された。いま多喜二を上演して一人もこない芝居をやりたいと思ったんです。問いたかった、自分にもみんなにも。戦争する国にしてもいいのかと。一人もこないというのは、何で一人もこないのにやっているんだろうと考えさせることができるじゃないかと、見にくる人がいなくてもやるアホになりたかった。そしたらえらく人がきてくださってアホにしてくれなかった。(笑い)
市田 そういう米倉さんの気迫が伝わるんでしょうね。
米倉 いま役者として人生残り少なくなったときに、私がやることは本当のことを言うことだと考えたんです。
自民党が平和な社会をつくったんじゃないんです。殺されようが、何されようが戦争には反対、平和が大事と言い続けてきた共産党、そういう人たちがいて社会がつくられてきたんです。だから、きちんと言い続ける。「九条は守らなければ」と言い続ける政党があるかぎり、日本には希望があると思うんです。
──以下 略──
(2005年1月3日(月)「しんぶん赤旗」)
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◎「私には、流行というものが持つそういう一種の熱狂がこわいものに思える。人を押し流すその力の正体が不明だからである。それがダッコちゃんにも結びつくが、戦争にも結びつく性質を持っている」と。