学習通信050312
◎「いいことをすればすぐ……ほめてくれる、と思うのは甘ったれ」……

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小さな親切

 小さな親切運動というのがはやったことがある。はやったと言っても、その実態を私は見たわけではなく、新聞などでたびたび報じられたのを見ただけである。

 たとえば電車に乗っていて、自分が坐っている座席の前にお年よりが立ったら、席を譲ってやりましょうとか、迷子を見かけたら交番に連れて行ってやりましょうとかいうことが、小さな親切の中味である。
 派手な新聞沙汰になることは少なくなったが、その運動はいまもつづいているらしい。そういう無償の善意というものを心がけている人たちをえらいものだと思う。

 ただこうして書いたように、小さな親切というのは、人間として当然やるべきことが中味になっているので、それが、運動などという形で出てきたとき、私はちょっとした違和感を持った。運動などと言わなくとも、ちゃんとした人間は、人として当然やるべきことを現在もやっているだろうし、ちゃんとした人間でない人は、運動があろうとなかろうとやらないだろうと思う。かりに小さな親切運動に賛成して、その趣旨にそって小さな親切をやった人がいたとしても、そういうことがはたして長つづきするものだろうかとも思った。

 悪いことはたちまちはやり、はびこるが、いいことはなかなか長続きしないのである。ただ小さな親切運動などということが言われたとき、それが出てきた背景というものは、私にはよくわかった。

 他人のことは構うなという暮らし方を都会の人はしている。それは他人に干渉しない、プライバシーに立ちいらないという美徳の一種として受けとられることが多いのだが、実際にはそういうきれいごとばかりでないのだろうと思う。干渉しないということは、干渉されたくないというエゴの主張を含んでいるし、またどんな人間が住んでいるかわからない都会では、うっかり他人にかかわりあったりすると思いがけないひどいめにあうぞ、という自己防衛の気持も当然働いている。

 そういう気持の行きつくところは、流行歌の文句ではないが、東京砂漠といったような味気ない孤独感である。家では家族と話すだろうし、また勤め先では、会社や取引先の人と話すだろう。だが一たん血縁や、仕事から離れると、あたりを埋める人ごみの中で、人は、まったく孤独である。

 満員電車にもまれて気分が悪くなり、ホームに出たとたんにうずくまってしまった老人を見たことがある。人々はそのわきを黙々と勤め先にいそぐ。その朝、私も一秒を争うようないそがしい気持でいたので、その他大勢と一緒に同じようにそのそばを通りすぎた。ホームにいるのだから、そのうち駅員がくるだろうと思っていた。ほかのひとも同様の気持だったろうと思う。その他大勢と行動をともにすることで、老人をホームの事務室まで連れて行かないやましい気持から逃れたのである。都会の雑踏の中で倒れたりしたら、人は獣のように自分の傷を自分でなめていやす覚悟がいる。

 こうしたことはたびたび見もし、聞きもした。都会人の無関心というが、無関心ではないように思われる。人が倒れたりするのをみれば気の毒だぐらいは、人間である以上、よほどの冷血漢でないかぎり思うことである。ただそれにかかわりあって、面倒にまきこまれることを恐れるエゴと、人に目立つことをやることに対するてれくささ。そういったことがまじり合って、人々はさわらぬ神にたたりなしといった態度に傾きやすいのである。

 私も長い間、大方はそういう生き方で暮らしてきた。そうでないと生きて行けないような、苛酷な面が都会の暮らしの中にはある。

 ところで今年の六月ごろ、私は一人の迷子を家までとどけるという、小さな親切を体験することになった。むろん家で仕事をしているから、そういうことが出来たわけで、時間的にゆとりのない勤め暮らしでは、なかなか小さな親切も実行できなかったのである。

 ある夕方、タバコが切れたので、十分ほど先の場所にある団地まで、タバコを買いに行った。帰ってくると、坂の上に人だかりがして、男の子が一人ベソをかいている。自転車を押した小学校一年か、二年ぐらいの男の子だった。

 私が団地にいる間に、通り雨が降って、男の子は少し雨に濡れ、自転車のハンドルを握っている手が真赤だった。

 住所を聞かれて、男の子は小山二丁目だと答えていた。東久留米は北から南まで大変な距離があり、男の子がいう小山二丁目は、かなり遠い。私たちがいるところは、西武線の線路の北側二十分ぐらいのところ、小山二丁目は南側にやはり三十分ぐらいは行ったところである。そしてその位置を正確にわかっているのは、子供をとりまく弥次馬の中で私一人だということが、まもなくわかった。

 「私が連れて行きますよ」
 と、私は言った。お願いしますよ、と人びとは口ぐちに言った。そのとき私たちは小さな親切のかたまりだった。
 私は全権大使といった形で、自転車を押す子供をうながし、坂の途中にある自分の家に寄った。服を着がえるためである。家内にわけを話すと、「交番に連れて行くんですか」という。交番は線路のこちら側である。私が、そうではなく家まで送って行くのだというと、家内は笑い出し「普通は、そこまでしませんよ」と言ったが、私は意に介さなかった。何しろ、久しぶりに見知らぬ他人のためにひと肌脱ごうとしているのである。おまわりさんに引き渡すなどと、常識的な扱いをする気は全然なかった。

 私は子供に、自転車に乗っていいと言った。子供は後になり先になり、私についてくる。そして線路を越えて、しばらく行くと、男の子の態度に少しずつ変化が現われた。少しずつだが、場所の記憶がよみがえるようだった。あの歯医者さんにきたことがある、などと遠い看板を指さしたりした。

 そして、間もなく男の子が道に迷った理由がわかった。坂の傾斜といい、左右の家の並びと言い、私の家のところとそっくりな坂が現われ、そこの上が小山二丁目だった。

 男の子の家まで行くべきかどうか、私は少し迷った。先方の親にお礼を言われたりするのがわずらわしい、と言う気持があった。しかし、男の子の家庭が、時間のしつけがきびしい家であれば、親に会って迷子になって遅くなった旨を説明した方がよかろう、という考えもあって、結局最後まで送りとどけた。案じることはなく、家の人は留守で、私は男の子とその子の家の前で別れた。有難うとも言えない子だったが、しばらく歩いてふり返ると、男の子はまだ家の前に立ってこちらをみていた。あの子が大人になったとき、小さいころ迷子になり、誰かに送られて家まで戻ったことを思い出すだろうか、などと私は考えながら帰った。

 それからしばらく、小さな親切とは無縁になったが、先日また、こういうことがあった。
 私は電車の中で眠るくせがある。ハッと眼をさますと、そこは終点の池袋で、車内は人が降りてしまってガランとしている。あわてて降りようとしたら、前の座席におばあさんが一人、眼をつぶって坐っている。もし、もし終点ですよ、と私は言った。するとおばあさんが顔を上げてにこにこしながら言った。

 「はい、私は、いま乗ったんですよ」
 池袋は始発駅でもあるのだった。こうなると小さなおせっかいというものだろう。
(藤沢周平著「周平独言」中公文庫 p259-265)

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「いいこと」のむずかしさ

 「私って、ほんとに駄目なんです、勇気がなくて──自分でいやになっちゃいます」
 私の頼みものを届けに来た友人の嬢さんが玄関へはいるなり、泣き出しそうな声を出した。たしか中学二年生。小さいときから優しくおとなしい子だった。何があったのかしら? きれいな頬が赤く上気している。

 座敷でお茶を飲ませてから、話をきいた。
 「私、いまそこで、障害者が困っているのに、知らん顔して、手をかさなかったの……」
 商店街を歩いていたら、向こうから杖にすがったおじいさんが来た。半身不随らしく、たどたどしい歩き方だったが急に立ち止まった。二十メートルほど離れたところだが、悪いほうの足に紐でしばりつけていた草履がぬげてしまったらしいことがわかった。

 「すぐ、飛んでいってなおしてあげたかったんだけど、まわりにいる人たちにきまりが悪くって……いいことすることをみせびらかすようで、なんだか恥ずかしくって……」

 彼女が立ちすくんでいるうちに、近くの八百屋のおかみさんが気づいたらしく、草履を履き直させてあげたのでホッとしたけれど──人眼を気にしてぐずぐずしていた自分が急に情けなくなった、という。
 「障害者年はもうすぐおしまいになってしまうのに──私、勇気がなくてなんにも……」しょげている少女の肩を、私はたたいた。「そんなに気にしないで……いいことをするのは、なかなかむずかしいのよ」

 いつか、テレビ局のスタジオに、チャリティーショーのための色紙、短冊のサインを求めてきた大学生の一人が、突然怒り出した。「なぜ、スターたちは気持ちよく協力してくれないのですか? うるさそうな顔をして……ボクたちはいいことをしようとしているのに……無礼じゃないですか……」

 ちょうどテレビの本番直前で、俳優たちは台詞をおぼえるのに夢中だということがその人たちはわからなかったらしい。いいことをすればすぐ皆が協力し、ほめてくれる、と思うのは甘ったれである。ときにはいやな思いもするし、かっこ悪いこともある。

 「はたの眼なんか気にしないで、ごく自然に、困った人に手を貸すようになりたいわね。あなたもそのうちにきっとそう出来るわ。障害者年は今年で終わりじゃないはずよ」

 「そうね、今年で終わりじゃいけないわ」
 やっと笑った少女の顔は、美しかった。
(沢村貞子著「わたしの茶の間」光文社 p85-87)

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◎「そうね、今年で終わりじゃいけないわ」と。