学習通信050313
◎「若い女性たちの中から亡霊のように復活」……。

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チョイチョイ人生

 台所で、家政婦さんが誰かと話しているらしい。「……ガス……」という声がきこえるので急いで行ってみると、ガス会社のマークをつけた若い男が、
 「あ、お邪魔してます。ガス器具の具合の悪いのはありませんか?」
 と、ニッコリした。感じのいい青年である。
 「ちょうどよかったわ、ちょっと上がって頂戴」
 私も、お返しにニッコリしながら、
「ほら、このガス釜のコードが長すぎて困っていたのよ。長すぎるのは危険なんですってね。短くなりませんか?」
 炊飯器の置き場所とガスロの関係で、わが家ではニメーターのガス管が欲しいのに、先日、家政婦さんが買ってきたのは四メーターである。それしかない、と言われたという。ビニールできれいに包まれたガス管の両端には、ガス洩れをふせぐ工夫のされた黒いゴムのさしこみがちゃんとついていて、素人では短くしようがない。
 青年は、これも、少々長すぎる髪を右手でカッコよくかきあげながら、私のさし出すガス管をちらりとみると、こともなげに、
 「ああ、これね、チョイチョイですよ」
 と言い、またニッコリした。つまり、簡単なことさ、という自信が溢れている。
 「さすが餅──は餅屋ね、じゃお願いよ」
 「ニメートルですね、わかりました、明日持ってきます」
「明日? 今日は、道具を持ってきていないの?」
「ええ、ガス管持ってきてないんです」
「ガス管って……これを直してもらいたいんだけど……直らないかしら?」
 「さあ、どうですかね、でも直すなんて面倒くさいことする必要ないでしょう、買いかえれば、チョイチョイじゃありませんか」
 私は家政婦さんと顔見合わせた。
 「……なるほど……チョイチョイだわね」
 ともかく、ガス管は当分このまま使うことにして、この青年を帰したあと、改めて大笑いしたけれども、ふっと、どうしても笑い切れないなにかが、私の心の中に残った。

 もしかしたら、このガス管は絶対に切りつめられないものかもしれない。だったら、彼の言うとおり、買いかえるより仕方がない。だが、私が引っかかるのは、直るものかどうか、たしかめる気が、彼に、まるでなかったことである──ガス屋さんのくせに……。彼にとって今日の相手はガス管だから、まあそれでもいい。もし、もっと大切なもの、生命のあるもの、あるいは、心の中の大事な問題に対してさえも(うまくゆかなきや捨てちゃうだけさ、考えたり努力したりなんて、面倒くさい)そういう習慣がついているとしたら──私はなんだかこわい。(チョイチョイですよ)と自信ありげに言い切った、あの愛想のいい青年の言葉が、どうも気にかかる。

 たぶん、これは、年寄りの思いすごしかもしれない。どうぞそうでありますように。「チョイチョイ人生」なんて、私は反対です。
(沢村貞子著「わたしの茶の間」光文社 p23-24)

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化粧

 一時期、「素顔の美しさ」や「ナチュラルメイク」がさかんに推奨されていたことがあった。この背景にはフェミニズム運動の高まりや女性の社会進出などもあったのだろうが、とにかく八十年代には、「仕事のできるオンナは、化粧などにこだわらず自然体で生きるべし」というメッセージが巷にあふれていた。

 ところが、今はどうだろう。デパートの化粧品売り場にはおびただしい数のメーカーが並び、競い合うように新商品を売り出している。キラキラ輝くラメ入りのアイシャドー、ぬらぬらと濡れたようなツヤを出す口紅など、ナチュラルとはかけ離れた人工的なメイクアップ用品がとくに売れているという。インターネットなどでは、コスメ・フリークと呼ばれる化粧マニアたちがホームページを開き、日夜、熱く基礎化粧品やメイクアップ用品の談義に花を咲かせている。その職業も、主婦やOL、学校の先生に学者、と実にさまざま。

 さらには化粧の低年齢化も進み、小学生を対象にした雑誌にもメイクアップ技術の記事が載っている。彼女たちが言うには、「中学になると校則でお化粧も茶髪も禁止だから、小学生のうちに思い切っておしやれするんだ」。

 つまり、今や年齢や立場を問わず、女性であれば(いや、最近は男性がちょっとした化粧をして街に出てもだれも驚かなくなった)だれもが過剰なまでの化粧を楽しむようになった、というわけだ。

 これは主に女性たちにとって、「よいこと」だと言えるのだろうか。冒頭に述べたように、八十年代までの「女たちよ、化粧をやめて社会に出よう!」というメッセージには、長い間、男社会の中で「女はきれいにして家にいればいいんだ」と抑圧されてきた女性たちの反発、という意味があった。あるいは、女性たちの間でも化粧に熱中する女性に対して、「結局、男性の目を引きたいのではないか」と冷たい視線が送られたのも事実だろう。

 ところが、八十年代の半ば頃から社会での男女平等がだんだん実現するに従って、「女性の化粧」から「男たちのために美しくなること」という意味が急速に消えて行ったのだ。そこで、「男の目」から解放され、「自分が美しくなりたいからするのだ」と、女性たちが自由に化粧を楽しめる空気が次第に広まった。また、そうやって自分のために化粧をする女性に、「何か目的があるんでしょう」と疑惑の目を向ける女性たちもいなくなった。それは、とてもよい傾向だ。

 しかし、一方で少し気になることもある。「女たちもおしゃれや化粧にこだわらずに、実力で勝負しよう!」とフェミニズム論者に励まされながらがんばってきた女性たちの中には、九十年代になって不況が訪れると同時に、リストラされたり起業に失敗したりと憂き目に会っている人も少なくない。そういう中で、「女はやっぱり外見なのよ」「美しい女が結局、勝つってこと」という声が、若い女性たちの中から亡霊のように復活してきているのだ。

 そういう若い女性たちは、化粧やファッションだけではなく、プチ整形≠ニ呼ばれる手軽な美容整形手術にも迷わず手を出し、自分の容姿をできるだけ磨いてチャンスをつかもうとする。そのチャンスとは、淑人の高い男性と結婚することから会社の中で一目置かれること、モデルやタレントになることまでさまざまだが、とにかく「中身で勝負してもしかたない、最後はルックスだ」という身も蓋もない価値観が、不気味に若者の間に広まりつつあるわけだ。実力で勝負した男女雇用機会均等法第一世代の先輩たちは、あまり幸せになっていないじゃない、というのが若い女性たちの偽らざる実感だ。

 商品の情報を集め、あれこれと工夫して自分を少しでも魅力的に見せようと化粧に夢中になる今の若い人たちに、「人間、見た目じゃないよ」などと言っても、「きれいごと言わないで」と軽蔑されるだけだろう。ただ、「外見もすてきだが、あなたの良さはそれだけじゃない。あなた自身であるということが最大の魅力だし、それをわかってくれている人はたくさんいるはずだ」と言ってほしい、と思っている若者は意外に多いということは、つけ加えておこう。
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 p68-71)

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ポーズの関係

 競争社会の下で

 一頃前からしきりにこんな気がしている──若い世代のなかに、次のような意識の状態がひろがっているのではないか、と。
 小さい頃から──小学校の頃から、あるいはそれ以前から、今の世の中は競争社会だ、と実感として思っている。だから、頼りにできるのは自分しかない、と思っている。しかしそれでは、その自分が自分でほんとうに頼りにできるのかといえば、たいして頼りにできないらしいと、これまた早いうちからおおくのものが実感させられてきている。

 だから、自分を見つめたがらない。自分を見つめるのがこわい。そこで、ポーズをとる。──それもはじめのうちは、下手にホンネを出すと損をする、バカを見る、という経験をするなかで、ホンネをかくしてポーズをとるわけだが、そのうちに、ホンネが何であるのかもあいまいになっていき、ポーズが自分の代用をつとめる。──こういうことがひろがっているのではないか。

 しかもさらに、自分だけがそうなのではなく、仲間もみんな同じだ、と思っている。だから、人間関係なんていうものは、友達関係にせよ、恋人関係にせよ、ましていわんやサークルその他における人間関係にせよ、みんなしょせんはポーズとポーズとの関係以外ではありえない、と思っている。──こういうことがひろがっているのではないか。

あるデート風景

 ある看護婦さんの話。彼女がある時、同僚とお茶を飲んでいた。そこへ、もつれあうようにして一組のカップルが入ってきた。

 しばらくしてから彼女は同僚にいった──「ちょっと、ちょっと、あのカップル、へんだわよ」むかいあわせに席にすわったあと、ボソボソと「君、何にする? コーヒー?」そしてあとはそれぞれに、別べつのマンガ雑誌に読みふけって、ほとんど会話というものがない。そのまま、二時間近くもそうやっていたという。彼女の方も二時間近く、それをじっと観察していたわけだが。

 「あれは、おたがいの自由を束縛しないということなのよ」と同僚が彼女に説明してくれた。

 こうしたデートの時、彼からか彼女からか、前もって必ず電話してきくのだ、とも同僚は彼女に説明した──「君、今日、何を着ていく?」と。そして、服装をあわせてからおちあう。バラバラの服装してたのではダサイのだという。

 服装をあわせて出かけるのは、けっしてわるいことではない、と思った。でもそれが、もっぱら人に見せるため、人にみられるためだとするならば、それは淋しいことだ、とも思った。

新しいモラル?

 「新しいモラル」とでもいうべきものが、いま大学生のあいだに生まれてきているらしい、という話をきいた。

 私説にいえばポーズの関係、そのなかでじつはみな、そんな自分たちをみじめだと思っている。しかし人間なんてそんなもの、人間関係なんてそんなもの、他にありようはない、と思っているのだから、そういう自分のみじめさを、つとめて見つめずにすむようにしてくらす──それが自分についてのやさしさ。

そして仲間も同じにちがいないから、そのみじめさを感じさせないようにすること、それが仲間にたいしてのやさしさ。だから批判などしない。批判することは相手を傷つけることになるから。自分も傷つきたくないのだから、他人にたいしても、という、これが他人への思いやりのモラル、そうやって自分もまた、他人から傷つけられずにいたいという、これが自分への思いやりのモラル。──そういう「新しいモラル」が成立しているみたいだ、と。

 「おたがいに自分たちのみじめさみたいなものを他人に感じさせてはいけないということが、彼らの最高の道徳なんですね。沈んできたら、いつもごまかしてでもにぎやかにするのが彼らの道徳。いま、学生のコンパはすぐにシーンと静かになっちやうんですね。彼らはしやべってさわぐこともできなきや、歌ってさわぐこともできなくなってるんですね。で、学生のコンパは、何でさわいでるかといったらイッキ∞イッキ≠ナさわいでるんですね。そうして酒飲んで、死んでしまったりして。要するに酒を一気に飲むわけですね。それでしかさわげないんですね。だから私なんか行くと困るんです、飲めないものだから。ちょっと調子あわせて飲んじやうと、その晩、本当に七転八倒の苦しみで。実際、そういう形になってくるんです」(竹内常一「現代の学生について考える」大学生協84年度トップ研修セミナーでの講演)

青年が変わる時

 でもそれは、何という淋しいモラル、みじめなモラルだろう。人間は、人間関係は、はたしてそういうものなのか。

 そうではない、と私は思う。そうではない証拠に、それを淋しい、みじめだと感じているではないか。もし人間が実際にそういうものであるならば、そういう状態にあって、それをみじめだとか淋しいだとか意識することはありえないだろう。

 ポーズの関係ではない人間関係が現にありうる、ということを知った時、青年は変わる。急速に変わる。そのことを私は、幾多の実例に即して証言できる。

 ポーズの関係ではない人間関係を育てあげ、発展させ、ひろげること、それが私たちのモラルでなければならない。
(高田求著「新・人生論ノート PART U」新日本出版社 p37-41)

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◎──「外見もすてきだが、あなたの良さはそれだけじゃない。あなた自身であるということが最大の魅力だし、それをわかってくれている人はたくさんいるはずだ」と言ってほしい、と思っている若者は意外に多いということ……。

「ポーズの関係ではない人間関係が現にありうる、ということを知った時、青年は変わる。急速に変わる。」と。