学習通信050314
◎「人間社会のなわばり」……。

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ガールズ・ビ・アンビシャツ!
桐島 洋子

 料理の本を書いたら、びっくりするほどよく売れた。それは嬉しいのだが、会う人会う人に「あなたのようなヒトが料理好きだとは意外でしたねえ」とアイサツされるのには、いい加減ゲンナリしてしまう。

 「あなたのようなヒト」とは、つまり一人前の職業人として自立し、男など当てにしないでバリバリ忙しく働いている女であり、ウーマン・リブの一味で、「ボク食べるヒト、ワタシ作るヒト」のコマーシャルを非難する側のヒトであるという意味なのだ。この分類に異存はないが、そういう人間が料理好きなのが意外だという、その偏見にイライラする。

 この人達には男と女のナワ張り意識が根強くからみついていて、作るヒトと食べるヒトを別々に囲わなければ気が済まないらしい。「一部の有能な女がナワ張りを越えて男の側に侵入するぐらいのことは、まあ大目に見よう」という程度のところまでは渡航自由化≠ェ進んだものの、「そのかわり、関所を越えたければ身ぐるみ脱いで置いていけ」と、女の側で身につけた資産を放棄させようとする。

郷に入れば郷に従い、男世界に属したら男のようにゴッツく武骨にフンゾリ返り、家庭などかえりみずに仕事に没頭するものだと、思いこんでいる。どうしてこう頭が硬いのだろう。

 そんな不自由な男の仲間入りするために、わざわざ関所を越えたって始まらない。それでは檻から檻への移住に過ぎないではないか。

 ウーマン・リブの本当の目的は檻を壊し縄張りをとっぱらい、勿論、関所をなくすことである。だから女の解放は同時に男の解放なのだ。

 しかし男達は解放されたがらない。女の対訳なしには衣食住の営みができないという不自由な生活にしがみつく。それを不自由とも感じないほど鈍感な男達!

 女の方もまだ多くは鈍感だが、それでもさすがに今や少なからぬ女が、その不自由に目覚めはじめた。いったん目覚めさえすれば、女の方がたくましい。越境に尻ごみする男達の陣中へ、こちらからはどんどん乗り込んでいく。関所の鬼に身ぐるみはがれて女≠諦めたような女だと、とかく卑屈に男軍に寝返って女に敵対したりするものだが、そんな小物がどっちにつこうと、私の知ったことじゃない。

 およそ気のきいた女なら、女の誇りと能力を堅持したまま関所を突破して、男の領域にもケロリと所を得た上で、女の世界と自由に行き来する外交特権を手に入れることができるはずである。こういう女が、今のところでは一番上等な人類だと私は思う。彼女達は人間としての総合的成熟度に於ては、たやすく男を超える、いわば両性具有人なのだ。

 そんなたのもしい女を私は大勢識っている。そして彼女達はほとんど例外なく優れた料理人である。私の本の題名通り『聡明な女は料理がうまい』のだ。

 最近出会った聡明な女達の中から、とりわけ私を喜ばせた素敵な三人について今日は書きたい。

 まず大先輩の沢村貞子さん。この間まで大当りしていたNHKの帯ドラ『となりの芝生』のお姑さんである。役柄と本人をごちやまぜにして、彼女を保守反動の旗手みたいに応援する向きも多かったらしいが、これはとんでもない見当ちがい。彼女こそウーマン・リブの草分けとして、女の自立の茨の道を血みどろに切りひらいて来た人ですよ。

 下町の没落した商家に生まれ、普通なら芸者にでもされるところを、どうしても学問がしたいと頑張って女学校に通い、少女のうちから家庭教師として学資を稼ぎ、遂に女子大にも進学し、さらに新劇の女優になって左翼運動にのめりこんでいく。たちまち逮捕されて拷問まで受けたが、断乎として節をまげないので二年間も牢獄暮らし。しかしそんなレジスタンスの歴史を勲章にする気は毛頭なく、以後は厳格な職業意識に徹して、地味な脇役女優の道を、物静かにしたたかに歩み続けてきた。

インテリを煙たがる映画界で、沢村さんは独り泰然と自分の知的世界を守る大読書家であり、また自分の生活を自らの手でこまやかに総ぐ優しく堅実な主婦でもある。撮影所に通うとき、彼女は朝早くから台所に立って豪華なお弁当を作り、他の俳優さん達が食事場所を求めて右往左往するのを尻目に、悠々と楽屋に寛(くつろ)ぎ、手づくりの味をチマチマと愉しみながら読書にふける。

 もっともっとヒマに恵まれながら、味気ないインスタントやレディーメードで下らないテレビを見ながら、そそくさと食事をすます主婦が少なくないけれど、そんな人達はなんと自分を、自分の人生を粗末に扱っていることだろうかと思う。

 彼女達に沢村さんの献立日誌を見せてあげたい。彼女は毎日毎日の献立を必ず記録し、そのノートを綺麗に表装して保存しておく。さあ今日の晩御飯はなんにしようかな……というときに、日誌を繰り、昨年や一昨年やあるいはもっと昔の同じ月日のあたりを見ると、「ああ、鰹のたたきと、根芋のおみおつけと、山うどの酢昧噌だったのか。そういえばそろそろ初鰹を食べてもいいな」と、めらめら季節感が湧き立ち、献立のイメージがひろがるのである。

 沢村さんより二まわり若く、私よりはちょっと先輩の松田妙子さんは、日本一の女傑として私が尊敬おくあたわざる大親分である。彼女は現在は住宅研修財団の理事長として、そのサロンヘ入れかわりたちかわり伺候する官庁や企業のエライ男たちの相談役をつとめながら、いつか住宅庁ができたときにはその長官になって、日本の住宅行政に決死の大ナタをふるうのダというジャンヌ・ダルクのような野望に燃えている。

彼女はもともとは住宅にも建築にも全くの素人だったが、自分の家を建てようとしたときあまりにも後進的な住宅産業の実情に驚き、その怒りと焦りを放置できないままに遂に自ら「日本ホームズ」を設立し、その合理的で良心的な家作りでみるみる注目され、大成功をおさめた。しかしその社長の座を十年でパッと退き、今度は研究所を設立し、企業の立場を超えて住宅問題に取り組むことにした。およそ彼女ほど情熱的に天下国家を論じる人を私は他に知らない。住宅庁長官どころか、総理大臣になってもおかしくないスケールの豪快な実力者である彼女のそばにいると、男女同権だのウーマン・リブだのって言葉は前世紀の遺物ではないかと思われるほど、こちらまで気宇壮大になり、ショボくれた女の現実を忘れてしまう。

 これほど勇壮な人間なら鬼をもひしぐ面構えだろうかと恩ったら大間違い。年よりずっと若々しい小柄な美女で、三人の子供の素敵なお母さん。ひとをもてなすのが大好きで、どんなに大勢ドヤドヤと突然の客が雪崩込もうとビクともひるまず、チャッチャッチャッと包丁を揮い、嵐のような勢いでたちまち盛大にごちそうを並べてしまう。子供が好きで好きで、ヨソの子でも黒でも白でもなんでもいいわよオイデオイデと、ワサワサまとめて面倒を見てしまうスーパー母性の待ち主である。

 「あなたのとこの子供達もうちに寄越しなさいよ。三人ぐらい私が責任もって育ててあげるからサ、あんたは独りで心おきなく仕事にでも男にでも狂いなさいな」と、私は始終松田さんにハッパをかけられる。こんなにたのもしい男なんているものじやない。

 もう一人は、私より一まわり後輩の小林則子さん。太平洋ヨット独り旅で女をあげたリブ号のリブちやんである。あんな物凄いことをしでかしながら、英雄気取りなどまるでなく、相変わらずサワサワッと涼しい顔をしているだけの、ニクイほど沈着冷静な女の子だが、また彼女はとても頑固にその美意識を守る優雅な生活者でもある。

彼女の手記『リブ号の航海』を読んでごらんなさい。どんな荒くれ男だって蒼ざめる疾風怒濤の大航海のさなかにも、彼女はシチューのキャセロールに葡萄酒の香りを加えるのを忘れはしないし、サラダのドレッシングに凝り、スープの浮実にも工夫を怠らない。男達はいかに積荷を減らして遠く走らせるかということばかり考えているのに、彼女はそのひときわ小さい船倉におびただしい酒瓶と食糧と、二十種類もの香辛料まで積み込んで悠々と出帆したのだ。カセット・テープもいっぱい用意して、あるときはドビュッシーを聴きながら月をながめ、あるときは「知床旅情」などにうなずいて梅酒を砥め、あるときは志ん生に笑い転げて船酔いを吹き飛ばす。

 これはどの冒険のためだろうと、生活を粗末にはしないという心意気が嬉しいではないか。これこそ女のたくましさである。

 強い女はオトコオンナ、仕事ができれば家庭はダメ……という偏見をアッサリ打ち破る颯爽たる女達が、この三人に限らず、近頃いたる所で目につくようになった。そのたびに私もあらためてふるい立ち、ガールズ・ビ・アンビシャスと心の中で叫ぶのだ。
(近代ナリコ編「女性のエッセイ・アンソロジー」つくま文庫 p21-28)
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電線の雀たち

 街に緑がすくなくなったせいだろうが、松や紅葉、根などが雑然とならんでいるわが家の小さい庭を、いろんな小鳥が訪れる。

 新芽をついばむのか、露を吸うのか──雀も毎朝、何羽か連れだって下草の間をウロウロしたあげく、屏ごしに見える高い電線にとまって羽を休めたりしている。

 二羽のときも、五羽のときも、お互い同士キチンと一定の間隔をあけて並んでいる。
(どうしてあんなに……いつも計ったようにチャンと離れてとまるのかしら……)
 行儀のいいその姿を、縁側に立ってボンヤリ見上げることがあった。

 ある夜、ふと見たNHKテレビのウルトラ・アイがその疑問に答えてくれた。その日のテーマはなわばりだった。
(小鳥が電線に並んでとまるとき、適当に離れるのは混乱をさけるためで、つまり無意識にお互いのなわばりを尊重し合っている)
 そういう意味のことを話してくれた。

 なるほど──いつも仲よく一緒にとぶツバメや雀たちも、細い電線の上でピッタリ寄り添ってとまったら、いざとび立つときにパッと拡げた羽と羽がぶつかって、傷つけあうようなことになるかもしれない。鳥も獣も本能的にそういうことを知っている。だから、生きるために必要なだけのひろさ──場所を自分のなわばりとして大切にしているらしい。ライオンや熊なども、ねぐらを定めるとき、互いの領分を侵さないことで、無用の争いを避けている、という。

 私たちはどうかしら。そういう自然のルールを上手に守っているだろうか。

 人間社会のなわばりという言葉になんとなく抵抗を感じるのは、そのための争いが多すぎるせいだと思う。
 他人に迷惑をかけず、自分も自由に生きるためのなわばりは、暮らすのに必要なだけの、最小限度のものでいい。無理に自分の縄を拡げようとすると、その分だけ、誰かを傷つけることになる。わかっていてもやめられないのは、人間の欲の深さだろうか……溜息がでる。

 一軒の家に二本のシャモジはいらない、という諺は主婦権をめぐる嫁姑のなわばり争いをさしている。生まれも育ちも違う赤の他人同士が、息子の妻─夫の母という縁だけで、一緒に生活するのだから、たしかにむずかしい。まあお互いに知恵をしぼって考えて、それぞれの座る場所を決め、そのなわばりを尊重しあえばなんとか暮らせるのではないだろうか。愛という糸で固く結ばれたはずの夫婦でも、甘えと馴れでお互いの領分を犯すようになったりすると、案外もろく崩れてしまう。

 仕事場でのなわばりは、複雑な人脈の上に張りめぐらされているから、これはまたウンザリするほど、むずかしい。

 今朝もまた、庭先の電線に五羽の雀がキチソと間隔をあけて羽をやすめている。平和な姿である。うらやましい。
(沢村貞子著「わたしの茶の間」光文社 p9-10)

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◎「強い女はオトコオンナ、仕事ができれば家庭はダメ……という偏見をアッサリ打ち破る颯爽たる女達が、この三人に限らず、近頃いたる所で目につくようになった」と。

学習通信≠フバックナンバーでも類似のテーマをとりあげています。それと重ねて下さい。ルソーの女性論もありましたね。

○か×かという選択では捉えられないのかもしれません。境界線は常に変化するのですから。