学習通信050315
◎「その常識の働きが利く範囲」……。
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常識
学生時代、好んでエドガー・ポーのものを読んでいた頃、「メールツェルの将棋差し」という作品を翻訳して、探偵小説専門の雑誌に売った事がある。十八世紀の中頃、ハンガリーのケンプレンという男が、将棋を差す自働人形を発明し、西ヨーロッパの大都会を興行して歩き、大成功を収めた。其後、所有者は転々とし、今はメールツェルという人の所有に帰しているが、未だ誰も、この連戦連勝の人形の秘密を解いたものはない。ある時、人形の公開を見物したポーが、その秘密を看破するという話である。
ポーの推論は、簡単であって、凡そ機械である以上、それは、数学の計算と同様に、一定の既知事項の必然的な発展には、一定の結果が避けられぬ、そういう言わば、答は最初に与えられている、孤立したシステムでなければならぬが、将棋盤の駒の動きは、一手一手、対局者の新たな判断に基づくのだから、これを機械仕掛と考えるわけにはいかない。何処かに、人間が隠れているに決っている。
だが、人形が勝負を始める前、メールツェルは、人形の内部も、将棋盤を乗せた机の内部も、見物にのぞかせて、中には機械が充満し、機械のない処は、空っぽである事を証明してみせるから、半信半疑の見物も、すっかりごまかされ、立ち替り出て行く天狗どもが、負かされる毎に、大喝采という事になる。
ポーは、この機械の目的は、将棋を差す事にはなく、人間を隠す事にあるという最初の考えを飽くまでも捨てないから、内部のからくりを見せるメールツェルの手順を仔細に観察し、その一定の手順に応じて、内部の人間が、その姿勢と位置とを適当に変えれば、外部から決して見られないでいる事は可能だという結論を、遂に引出してみせる。
東大の原子核研究所が出来た時、所長の菊池正士博士が知人だったので、友達と見物に出掛けた事がある。私達素人が、核破壊装置なぞ見物しても、何の足しになるわけでもないのだが、連中の一人に、好奇心に燃えている男がいて、それが見物を熱心に主張したのである。
彼の言うところによると、研究所には、「電子頭脳」があって、将棋を差すそうだ、今のところの性能では、専門家には負けるそうだが、俺くらいなら、いい勝負らしい、一番やるのが楽しみだ、と言う。馬鹿を言え、と言ったものの、実は、みんな、半信半疑なのである。
彼は、研究所に着いて、早速、手合せを申し出たが、うちでは将棋の研究はやっておりませんと言われて、大笑いになった。大笑いにはなったが、併し、私達に、所長さんと一緒に笑う資格があったかどうか、と後になって考え込んだ事がある。ポーの昔話を一笑に附する事は、どうも出来そうもないようである。
常識で考えれば、将棋という遊戯は、人間の一種の無智を条件としている筈である。名人達の読みがどんなに深いと言っても、たかが知れているからこそ、勝負はつくのであろう。では、読みというものが徹底した将棋の神様が二人で将棋を差したら、どういう事になるだろうか。実は、今、この原稿を書きながら、ふとそんな事を考えてみたのである。ところが、解らなくなった。どう考えてみてもはっきりしないのが、不愉快になって来て、原稿が一向進まない。
丁度その時、銀座で、中谷宇吉郎に、久し振りでばったり出食わした。この種の愚問を持ち出すには、一番適当な人物だとかねがね思っていたから、早速、聞いてみた。以下は、宇吉郎先生の発言に始まるその時の一問一答である。
「仕切りが縦に三つしかない一番小さな盤で、君と僕とで歩一枚ずつ置いて勝負をしたらどういう事になる」と先ず中谷先生が言う。
「先手必敗さ」
「仕切りをもう一つ殖やして四つにしたら……」
「先手必勝だ」
「それ、見ろ、将棋の世界は人間同士の約東の世界に過ぎない」
「だけど、約束による必然性は動かせない」
「無論だ。だから、問題は約束の数になる。普通の将棋のように、約束の数を無闇に殖やせば、約束の筋が読み切れなくなるのは当り前だ」
「自業自得だな」
「自業自得だ。科学者は、そういう世界は御免こうむる事にしてるんだ」
「御免こうむらない事にしてくれよ」
「どうしろと言うのだ」
「将棋の神様同士で差してみたら、と言うんだよ」
「馬鹿言いなさんな」
「馬鹿なのは俺で、神様じゃない。神様なら読み切れる筈だ」
「そりゃ、駒のコンビネーションの数は一定だから、そういう筈だが、いくら神様だって、計算しようとなれば、何億年かかるかわからない」
「何億年かかろうが、一向構わぬ」
「そんなら、結果は出るさ。無意味な結果が出る筈だ」
「無意味な結果とは、勝負を無意味にする結果という意味だな」
「無論そうだ」
「ともかく、先手必勝であるか、後手必勝であるか、それとも千日手になるか、三つのうち、どれかになる事は判明する筈だな」
「そういう筈だ」
「仮りに、先手必勝の結果が出たら、神様は、お互いにどうぞお先きへ、という事になるな」
「当り前じゃないか。先手を決める振り駒だけが勝負になる」
「神様なら振り駒の偶然も見透しのわけだな」
「そう考えても何も悪くはない」
「すると神様を二人仮定したのが、そもそも不合理だったわけだ」
「理窟ほそうだ」
「それで安心した」
「何が安心したんだ」
「結論が常識に一致したからさ」
「一体、何の話なんだ」
「それは、来月の『文藝春秋』に書くから、読んでみてくれ」
「へえ、そりゃ読んでみてもいいがね。僕も、近々、文藝春秋画廊で、個展を開くから、見に来てくれ」
「そりゃ見に行ってもいいが、個展とはあきれたもんだ」
「失敬な事を言うな」
「いや、素人ほど恐ろしいものはないな」
さて、そういう次第で、原稿の先きを続けるわけであるが、常識を守ることは難かしいのである。文明が、やたらに専門家を要求しているからだ。私達常識人は、専門的知識に、おどかされ通しで、気が弱くなっている。私のように、常識の健全性を、専門家に確めてもらうというような面白くない事にもなる。
機械だってそうで、私達には、日に新たな機械の生活上の利用で手一杯で、その原理や構造に通ずる瑕なぞ誰にもありはしない。科学の成果を、ただ実生活の上で利用するに足るだけの生半可な科学的知識を、私達は持っているに過ぎない。これは致し方のない事だとしても、そんな生半可な知識でも、ともかく知識である事には変りはないという馬鹿な考えは捨てた方がよい。その点では、現代の知識人の多くが、どうにもならぬ科学軽信家になり下っているように思われる。
少し常識を働かせて反省すれば、私達の置かれている実状ははっきりするであろう。どうしてどんな具合に利くのかは知らずにペニシリンの注射をして貰う私達の精神の実情は、未開地の土人の頭脳状態と、さしたる変りはない筈だ。一方、常識人をあなどり、何かと言えば専門家風を吹かしたがる専門家達にしてみても、専門外の学問については、無智蒙昧であるより他はあるまい。この不思議な傾向は、日々深刻になるであろう。
ポーの常識は、機械には、物を判断する能力はない、だから機械には将棋は差せぬ、と考えた。しかし、そのような言葉だけでは、とても、この自働人形の魅惑から、諸君を解放する事は出来まいと思うから、以下、機械の実際の観察に基づく推論を述べる、と彼は断っている。
メールツェルの人形が発明されたのは、私は読んだ事はないが、有名なラ・メトリの「人間機械論」が書かれて間もなくの事である。人間も機械なら、人形の発明も現れよう。人形の興行の大成功は、十八世紀の唯物論の勝利と無関係だった筈はあるまい。
当時、人形の謎を解こうと、その純粋に機械的な構造を想像してみた無数のパンフレットや解説類が現れた事を、ポーも記している。十八世紀の科学で、現代の電子工学を論ずる事は出来まいが、ポーの常識が、今日ではもう古いとは、誰にも言えまい。ところが、「人工頭脳」と聞くと、うっかりしていれば、私達の常識は、直ぐ揺ぐのである。
先日も、漫然と教育テレビを眺めていたら、ある先生が、現代生活と電気について講義をしていたが、モートルが、筋肉の驚くべき延長をもたらしたが如く、エレクトロニクスは、神経の考えられぬ程の拡大をもたらした、と黒板に書いて説明していた。一般人に向っての講義では、そう比喩的に言ってみるのも仕方がないとしても、そういう言い方の影響するところは、大変大きいのではないかと思った。例えば、人間の頭脳に、何百億の細胞があろうが、驚くに当らない。「人工頭脳」の細胞の数は、理論上いくらでも殖やす事が出来る。
ただ、そう無闇に多くのデータを「人工頭脳」に記憶させるには、機構を無闇に大きくしなければならず、そんなに金のかかる機械では実用に向かないだけの話だ。こういう説明の仕方は、これを聞いている人々を、「人工頭脳」を考え出したのは人間頭脳だが、「人工頭脳」は何一つ考え出しはしない、という決定的な事実に対し、知らず識らず鈍感にして了う。
私は、電子計算器の原理や構造について、はっきりしたところは、何も知らない。この間、宇吉郎先生に、ついでに聞いて置けばよかったが、しまった事をした。だが、私の好奇心の問題などとるに足りない。ポーの原理で間に合う話だ。
機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだろうが、その計算とは反覆運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械は為すところを知るまい。これは常識である。常識は、計算することと考えることとを混同してはいない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を現している。
テレビを享楽しようと、ミサイルを呪おうと、私達は、機械を利用する事を止めるわけにはいかない。機械の利用享楽がすっかり身についた御蔭で、機械をモデルにして物を考えるという詰らぬ習慣も、すっかり身についた。御蔭で、これは現代の堂々たる風潮となった。
なるほど、常識がなければ、私達は一日も生きられない。だから、みんな常識は働かせているわけだ。併し、その常識の働きが利く範囲なり世界なりが、現代ではどういう事になっているかを考えてみるがよい。常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、一とたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に酷似してくるのは、どうした事であろうか。
(文藝春秋 昭和三十四年六月)
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形而上学者にとっては、事物とその思想上の模写である概念とは、個々ばらばらで・一つずつ順番に他のものなしに考察されなければならない・固定した・動かない・いったん与えられたらそれっきり変わらない研究対象である。
彼は、まったく仲だちのない対立のなかでものを考える。すなわち、彼のことばは、〈然り、然り、否、否、それ以上のことは、悪から出るのである〉〔『新約聖書』「マタイによる福音書」、五の三七〕、である。
彼にとっては、一つの物は存在するかしないかのどちらかである。同様に、一つの物は、自分自身であると同時に他の物であることはできない。肯定と否定とは、互いに絶対に排除しあう。原因と結果とも、同様に、互いに動きのとれない対立のうちにある。
この考えかたは、一見したところ、いわゆる常識の考えかたであるゆえに、この上なくもっともであるように見える。が、この常識というやつは、自分の家のなかのありふれた領分ではひとかどの代物ではあっても、研究という広い世界に乗り出したとたんに、まったく不可思議な冒険を体験するのである。
そして、形而上学的な〈ものの見かた〉は、対象の性質に応じてそれぞれに広い領域で正当でありそれどころか必要でさえあるとしても、やはり毎回遅かれ早かれ或る限界に突きあたるのであって、この限界から先では、一面的で狭くて抽象的なものになり、もろもろの解けない矛盾に迷い込んでしまうのである。
それは、個々の物にとらわれてその連関を忘れ、それの存在にとらわれてその生成と消滅とを忘れ、それの静止にとらわれてその運動を忘れるためであり、木ばかりを見て森を見ないためである。日常の場合には、われわれは、たとえば或る動物が生きているかいないかを知っているし、これをはっきり言うことができる。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p35-36)
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◎「常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる」
◎「この常識というやつは、自分の家のなかのありふれた領分ではひとかどの代物ではあっても、研究という広い世界に乗り出したとたんに、まったく不可思議な冒険を体験するのである」と。