学習通信050316
◎異文化交流=c…。

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九条の会と若者たちが手をつなぐために
 評論家 大塚英志

 去年の話だが、イラクで拘束された邦人たちに日本の世論やジャーナリズムが「自己責任」を求めていた最中、自衛隊の派兵に反対するデモに行ったことがあった。友人の文芸誌編集者が寄稿者たちにメールで呼びかけたのだが集合場所へ集まったのは作家とそのガールフレンドを入れて七人。日本の文壇では9・11からこちら側、アフガニスタンもイラクも無かったことになっているから、(だからこそ「文学」はやれライトノベルズだ、十代の女性作家だと別の話題を必死で提供している)それは当然といえば当然だが、仕方がないので当日、行われている別のデモをのぞきに行こうという話になった。

 その時、興味深かったのは多分、労働組合の人々によるある意味で古典的なデモと、恐らくはデモは初めて、といった印象の若者たちの集団のデモの間にあった五十メートルほどの距離だ。あるいは単に届け出が別々だったのかもしれないが、ぼくにはそこに若いグループの古典的な「デモ」に対する距離感が表明されていたようにも見えた。

 確かに日比谷公園の集合場所から組合単位で整然と移動する様子や、会場で披露された反戦歌にしてもメッセージはわかるけど音楽的にどうよ、という違和がぼくたちにもあった。どういうグループが催したのかわからないが、ぼくの友人の文芸誌よりはるかに参加者を集めた若者グループのデモはといえばもっと混沌としていて、踊るようにデモをしていく。なるほど五十メートルの距離による棲み分けは現実的には必要だ、という気がした。

 さて、問題なのは、この「距離」である。大江健三郎氏らが呼びかけた「九条の会」の集会に参加した人の話を聞くと若い子たちの姿がそう多くはない、という。9・11以降、自分たちなりに反戦や憲法について具体的に行動を起こした若い人たちの様子を見ていても、善意で参加してくれた、六〇年代、七〇年代スタイル、あるいは組合スタイルとでもいうのか、古典的な市民運動の流儀の人々との間に距離が生じることが少なくない。すると若い子はすっと身を引いてしまうところが実はある。

 一部では九条の会に名を連ねた人々がもう過去の人だから若者の関心を呼ばない、という声も聞くがそれは正しくない。ぼくの同居人は去年まで社会人人学で小さな大学の文学部で学生をしていたが、「授業中にこっそり熱心に本を読んでいる子がいて、それが大江氏の『空の怪物アグイー』なんだよ」と驚いて報告してきたことがあった。

宮台真司氏の「師」である奥平康弘氏や、若い子たちとの会話でしばしば名前が出てくる鶴見俊輔氏(「鶴見さんて、どういう人なんですか」という質問を何度されたことか)など、九条の会の人々は上の世代が考えるよりは若い人たちに新鮮な名だ。けれどもそれが具体的に 「九条の会」となったとき、微妙な距離感が生じる。ぼくが去年、目撃したデモにおける五十メートルの「距離」はそういう「距離」のようにも思うのだ。

 もしそれが若い子たちの政治意識の低さ、と理解してしまったら、彼らとの断絶は決定的になる。古典的な市民運動の流儀と若い子たちの流儀には開きがあって当然なのであって、どちらかが他方の流儀にあわせるべきだ、というのも間違っている。ただ、その上で、その「五十メートルの距離」をつなぐ手だてはないのだろうか、と考えてみる必要がある。

 その時、対話の糸口をどちらが切るか、という問題が実は重要で「九条の会」の人々にせよ、やはり若い人たちの方から、と思うかもしれないが、ぼくにはむしろ年長者の方から「五十メートルの距離」に一歩先に歩みよってはどうかとおもう。「五十メートルの距離」は何もしなければディスコミュニケーションの象徴ともなるが、一歩、そこに踏み出せば互いが互いの流儀を尊重しつつコミュニケーションできる場となりうる可能性がある。だから「九条の会」の人々が、彼らがそれまで全くその存在を知らなかったサブカルチアー系のメディアに、「出るよ」と意志表示するだけでも、確実に変化は訪れるだろう。

 若者に届かない、と悲観するより、思い切って若い人たちの側に足を踏み込んでみることが必要で、例えばアニメ誌で真摯に九条について説く大江氏の姿がもし見られたら、それはそれでけっこう「届く」気もするのだけれど。
(「しんぶん赤旗」2005315)

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4 コミュニケーションの土台にみる困難性

外見と内面

 お互い一緒にいられてつながりがもてる空間を確保するために、お互いが地雷を踏まないように注意しなければならない。たとえば、相手に話題を向けるときに、よく、「ふる」という言い方をします。ゼミで学生に質問を投げかけた時に、「そんなこと私にふられても困る」というように使われる。「報告しているのだからこっちが質問するのは当たり前だ」といいたくなるのですが、そうではない。コミュニケーション世界の中で、あなたと私の関係が、その土台が成り立っているのかどうかがわからないときに、突然その中身の問題で、「そんな不躾なことを言うな」というのが、「私にそんなことふられても困る」という感じ方になるわけです。

 お互いに、何を「ふれ」ばいいのかを了解しながら、手探りで共通の地盤のところをどのように成り立たせるか、ここに非常に大きな苦労なり、文化的な洗練が作り上げられているわけです。コミュニケーションの土台を成り立たせるために繊細に神経を働かせる。

 その際、「コミュニケーションは中身の問題、人間の人格は中身が問題なので、この人はどういう人かというのは、外見やファッションで判断するようなものじゃない」という考え方は通用しません。人間を外見で判断するのじゃない、内面が大事なのだという説得は、消費文化社会の論理上では、そもそも成り立たない。「あなたは内面が大事なのだ」というのは、この場合きわめて乱暴です。「あなたの内面を本当に表現できるのはこんな格好じゃないでしょ」といえるのならまだいいです。「こんな格好なのよ」といって、その人が納得できるような提案ができればいいのですが、そうでなければ、「あなたは内面だけが大切なのよ」というのは、「俺に裸で出て行けというのか」と同じです。

中学生に「ジャージで学校に行け」ということ、休日なのに「ジャージでいいから駅までお使いに行け」と言いつけることは、もうほとんど大人の暴力といっていい世界に入ると思います。お互いにそんなところを配慮しながら関係を作っていく。授業中の教師の発言で最悪な例は、「ここがテストに出る」というものですが、「これはあなたにとって将来大切なのよ」と、要するにこれは中身のことをいっているわけです。中身を、しかも本人にとっては本当に大切かどうかわからないことを、「あなたにとって一番大切なのよ、だからちゃんと聞きなさい、ちゃんと覚えておくのよ」というのは、質感のガサガサした、粗暴きわまりない中身の提示の仕方です。

パフォーマンスとネタ文化

 このように、何かをつたえるということはつねにパフォーマンスとしての性格をもっていることになります。たとえば、子どもたちが書いた作文を、すべて内面の吐露である、ああ、とてもよく気持ちが書けていると評価していたものが、じつはネタかもしれない、と思った瞬間に全部こちらの見方が変わってしまう。ネタがいけないということではないのですが、ネタかもしれない、ネタだと思って見ていく、パフォーマンスとして見ていくのと、内容がつたえられていると思って見ていくのとでは違う。

 文化をつたえる行為がパフォーマンスとしての性格をもっている。自己表現がパフォーマンスの性格をもたざるを得ないというのは、現代日本の文化世界に特徴的な質ということができそうです。これは学校文化の世界にも確実に及んでいる。シャットアウトのしようがない。いや、ひょっとするとずっと前から子どもたちは作文とか絵とかさまざまな自己表現といわれるものの中で、こうしたネタを展開してきた可能性があると私は思います。それを、ネタの部分の読み取りを欠落させたままで、「とてもよく書けているじやない、もう少しどうにかしたら」と受けとってきたとすると、相当恐ろしい誤解が存在していたことになる。

 だからといって、大人もパフォーマンスでいけばいいとはいいたくないわけですね。相手のネタにはこちらもいいネタで勝負する。そうなるとパフォーマンス合戦になって、教室もなんだかよくわからない世界になってきます。

 浜崎あゆみの歌もそうですが、そういうパフォーマンスは、その演技的形式の中でなお届く自分の思いのリアリティーとか、思いの強さとかを問題にしています。少女小説などを見ますと、あきらかにそういう構造をもっていると思いますので、単純な演技ではない。面白ければいいとか、相手につたえるために面白おかしくやろうというのではなくて、そのパフォーマンスという世界をくぐり抜けて、なおかつ相手に届くもの、あるいは思いの強さというものをどういう仕方で、形づくっていったらよいのか、非常に苦労している。そこを認めておかなければ、と思います。

内面の変化と自己表現

 これと関連して、内面の問題、先ほど人格の問題といいましたが、自分の行動、自分の内面の吐露がパフォーマンスであるとすれば、内面自身も変化せざるを得ないですね。最近の言葉では、内面はキャラ、キャラクターといわれています。「キャラを立てる」という言葉はなかなか面白い言葉です。自分の表現とはつねにキャラクターの表現なのですから、キャラクター表現と自己形成は切り離せない。だから、自己形成という課題をこちらがもう一度つかみなおさなくてはなりません。

 言いかえると、成長というよりも変身≠ニいう形に近い成長の姿が、こういう世界の中では考えられている。ですから、たとえばしっかりと成長したかどうかを、教師は内面を測ると言いますが、でも私が今朝髪を切ってきたことには何もいってくれないじやないか。内面が大切だとか、成長が大事だとかいっても、私が髪を切って来だのに何もいってくれない、それではまずいというわけです。髪を切ることが内面とは全然関係ない世界で育ってきて、そういう文化で育ってきた大人は、内面と外観の関係がそのように変化してしまった世界をなかなか想像できない。それはあくまでも成長がどういう形で行われているかという違いです。

したがって、新しい文化環境の下で育ってきた人と、たとえば私のような人間が、お互いに一緒にいられるためには、お互いの文化を接触させる、異文化を接触させる新しい枠組みが必要になるでしょう。教育というのはそういう意味でいうと、大人の世代の文化を下の世代につたえるという図式で基本的にはつかまえられてきましたけれど、成長のトライアングル構造を前提にしますと、異なる文化がどういうふうに接触することによって一緒にいられる世界が作られるか、こういう間題だと言いかえてもいいと思います。

異文化接触としての文化継承−「いる」という土台−

 かりに、文化の継承を異文化接触と考えた場合、一番肝心な土台のところは何なのか。異文化を抱えた人間が一緒にいられること≠ナすね。そうすると、一緒にいられるためにはどうするか考えなければなりません。黙って一緒に座っていられるかという問題です。一緒にいられるための文化をどう作るかという課題を考えざるを得ないと思います。一緒にいることを土台にしながら、私たちがつたえたい、つたえなければならないと考えることがらを、介入し触発することによってつたえる。こういう行為が必要になると思います。

 これは、学校での教科以前の、ごく基本的な聞くこと、話すこと、黙っていること。黙っている人を見て自分が何を話すか、あるいはお互い黙ってそこに一緒に座るか、そういう関係のあり方を考えるということです。話すこと、聞くことは、基礎的な教育といわれてきたリテラシーよりもっと基本にある、人間が人間として、ともにそこにいて生きるための条件だと思います。その条件を文化的にきちっと獲得するという新たな課題がいま出現しているのではないでしょうか。

 家庭科は、子どもたちの現にある生活ともちろん深くかかわっている教科でしょう。生活と考えると、「生活実感」とか「生活にもとづいて」と言いがちですが、現代では生活自体がパフォーマンスになっている。こういう中で、生活の内側からパフォーマンスをくぐり抜けて、お互いが一緒に生活する条件を作り出していく。

そして、それが魅力的なことだと思えるような文化を学校の中でどうやって作るか、それこそが課題だと思います。消費文化の世界は、そういうことまで配慮してくれません。内側から一緒にいられる文化をどうやって作るのか、教科を超えて学校文化の新しい課題として考えていく時代がやってきたと思うのです。
(中西新太郎著「若者たちに何が起こっているのか」花伝社 p31-36)

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四、党の総力をあげて青年学生の「広大な空白」の克服を

 青年学生分野における「広大な空白」を克服するとりくみの強化は、党と革命運動の現在と未来にとっての全党的急務である。この間、党は、十二年ぶりに大規模な青年学生間題全国活前者会議を開催するなど、青年学生対策の強化をはかってきたが、その成果を生かして、この分野の活動を文字どおり全党の英知と力を結集したとりくみに発展させなければならない。もちろん、民青同盟や学生党組織自身の活動は重要だが、この事業は、青年や学生の組織だけにまかせるのではなく、全党の総力をあげてのとりくみによって確実な成功をかちとるという姿勢を確立することがなによりも大切である。
 この分野でのこの間の活動の教訓は、「柔軟で新鮮」な接近──「紋切り型」や「おしつけ」をやめ、広範な青年の気分や要求と共通のところから出発して、ともに考え、生きがいを語りあい前進していこうという態度をつらぬくこと──が、現代青年を結集するうえできわめて重要だということである。また、民青同盟や青年学生後援会の経験でも、活動を上から画一的な枠にはめるのではなく、青年自身の気分や感情にあったやり方、いわば自分たちの「やりたいこと」から出発し、多彩な活動にのびのびととりくむこと、活動そのものが魅力もあれば役にもたつということが、多くの青年を革新の事業に結集する力となったことが、多く報告されている。
(第19回党大会決議〈1990.7〉)

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「柔軟で新鮮」な接近の努力を党活動のより広い分野に

 大会決議案が、特別に一節をもうけて強調しているように、青年学生のなかでの「広大な空白」の実態は、党の未来のみならず現在にとっても、一刻もゆるがせにできない深刻な間題となっています。しかし、最近の社会主義問題の講演会には、青年層の参加者も多く、入党者も生まれています。

 ここでとくに力説したいのは、全党が、決議案がのべている「柔軟で新鮮」な接近という方針を具体化して、青年にたいする働きかけを思いきって改善するならば、前進をかちとる大きな可能性があること、その展望は、この間の各地でのとりくみでもあきらかにされているということであります。最近、若者によく読まれるある週刊誌が、「一生懸命に働いている諸君──過労死は死に損だ」という大見出しで、過労死が人手不足を背景としていまやヤング層にまで波及していることを、特集していました。これは、自民党の悪政のもと、日本資本主義が青年の多数を満足させる力も、ましてや青年のまともな未来を保障する力ももっていないことへの、するどい告発であります。

最近、学生のなかでの社会科学系サークルの活動が大きなひろがりをしめしていますが、日本資本主義の現状への不満と東欧・ソ連の激動とが結びついて、社会に正面から目をむけようという傾向、「社会科学を学びたい」という知的な関心がひろがっていることを、ここにもみることができます。

 日本の青年がおかれている現状には、「社会進歩の道にむかう客観的な必然性」が大きくはらまれています。社会的な関心のたかまりと、「どう生きるか」の模索にこたえて、青年の気分と現状から出発する多彩なとりくみをすすめ、学生のあいだでも、労働青年、農村青年のあいだでも、新しい前進への道をきりひらくために、「党の総力をあげて」のとりくみが、いまつよくもとめられていることを、かさねて強調したいのであります。(拍手)

 「柔軟で新鮮」な接近という方針は、青年・学生の分野だけでなく、党の大衆活動の全体にとって、重要な意義をもつことが、さまざまな分野から指摘されています。経営党組織の会議でも、独占資本の「使い捨て」政策がこれまで会社の支柱となってきた熟練労働者や管理者、技術者の層にまでおよんできたという新しい情勢のもとで、「柔軟で新鮮」な接近の方針を真剣に検討しているという報告が、少なからずありました。

実際、今日の情勢のもとでは、日本国民の圧倒的多数が、安保条約下の自民党政治の被害者であり、わが党のめざす「新しい日本」の方向が国民多数者の利益と客観的に合致していることは、明白であります。この根底的な事実を確信をもってふまえ、わが党とはいまほとんどつながりをもたない層をふくめて、国民の圧倒的多数に接近する努力を、各分野で積極的におこなうことが重要であります。そのためにも、青年・学生の分野で有効性がためされた「柔軟で新鮮」な接近の方針をよく研究し、それぞれの条件に応じて具体化してゆく創意性をおおいに期待したいのであります。
(第19回党大会への中央委員会の報告〈1990.7.9〉)

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「なるほど五十メートルの距離による棲み分けは現実的には必要」

「「コミュニケーションは中身の問題、人間の人格は中身が問題なので、この人はどういう人かというのは、外見やファッションで判断するようなものじゃない」という考え方は通用しません。」

「「柔軟で新鮮」な接近──「紋切り型」や「おしつけ」をやめ、広範な青年の気分や要求と共通のところから出発して、ともに考え、生きがいを語りあい前進していこうという態度をつらぬくこと──」

「異文化を抱えた人間が一緒にいられること≠ナすね。そうすると、一緒にいられるためにはどうするか考えなければなりません。黙って一緒に座っていられるかという問題です。一緒にいられるための文化をどう作るかという課題を考えざるを得ないと思います。一緒にいることを土台にしながら、私たちがつたえたい、つたえなければならないと考えることがらを、介入し触発することによってつたえる。こういう行為が必要になると思います。」

◎京都中央労働学校の運営活動で日常的に私たちは遭遇しています。