学習通信050317
◎「適当に決めているのである」……。

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そもそも歳をとるとはどういうことか

機械の修理と人間の修理

 老化を理解していただくためには、そもそもわれわれの体がふだんどう維持されているか、それをまず理解していただく必要がある。
 生物の体とは妙なもので、どこが妙かというと、昨日と今日とで同じ姿に見えるが、じつは部品が入れ替わっている可能性があるということなのである。そこが機械と違うところである。

 機械の場合だと、部品が入れ替わるときには、修理という過程が必要である。生物の体でもそれは同じだが、ただし生物の場合には、機械が機能したまま、つまり動きながら修理が進んでしまう。車を修理するときやコンピュータを修理するとき、動かした状態で修理することはまずないであろう。車なら車庫に入れ、コンピュータなら電源を切る。生物の場合には、スイッチが入ったままなのである。

 どうして動かしたままの修理が可能か。それをお考えになったことがあるだろうか。生物の本で、そのことが書いてある本は、あまり見たことがない。そう私は思う。宣伝ではないが、私が最初に書いた『形を読む』という本に、私の見方は書いてある。

 機能したまま部品を入れ替える。それが可能になるのは、部品が一つではもちろんダメである。つまり同じ機能を果たす単位が並列して複数ないと、動かしたままでの修理はできない。仮に同じ単位が十個あったとすれば、そのうち九個が動いているあいだに、残りの一個を交換する。理論的には、そういうやり方をするしかない。

 われわれの体は、十兆を超える細胞の集まりである。その細胞は、一万種類に達するといわれるタンパクをはじめとして、多糖類、核酸などの高分子、水、無機塩類その他の低分子を含む、おびただしい種類の分子からできている。心臓は一つしかないから、それが停止すれば万事終わりだが、心筋細胞は多数あるから、一割が休むことは可能である。分子はもっとはるかに多いから、当然休みがたくさん取れる。そういうわけで、構造の階層が下るほど、「動かしたまま部品を交換する」ことが簡単になる。いい換えれば、しかし、生体は機械に比較して、とてつもなく複雑だということにもなる。

 細胞の交換は、細胞の増殖によって行なわれる。肝臓は一割ほどしか残さず切り取っても、じつは問題がない。残りの細胞が増えて、元の大きさまで回復するからである。心筋細胞や神経細胞では、そうはいかない。ほとんど増えてくれない。減る一方ということになる。だからそういう器官が「老化して」、最後に一生の終わりということにもなる。
 分子はどうかというなら、低分子は外から補給すればいい。高分子は細胞が自分で作る。

 ところが高分子は時間が経つと、その一部が壊れる。化学変化するのである。とくに酸化されやすい。大きな分子は大きな構造物だから、作るのにコストがかかる。高分子の一部が変化したとき、全部を捨てるのはムダである。だからそれを修理する機構も、細胞はちゃんと備えている。

 しかし修理する機構それ自体も、高分子でできている。だからそれも故障する。修理機構の故障を修理する機構が必要になる。それも故障するはずだから、と続けていくと、際限がない。

 ともあれ、ハエの寿命を遺伝子操作で延ばすことができるようになったのは、もう十年以上も前からである。なにをしたかというと、高分子の修理に関係する酵素の遺伝子を導入して、修理機構の「量」を増やしたのである。そうしたら、ハエの寿命が倍になった。もちろんおわかりだろうが、部品を修理すれば長持ちはするが、最終的にやはり壊れる、つまり死ぬことには変わりがない。
 老化の根本問題はここにある。修理機構をいじって長持ちさせることは可能だが、個体が死ぬことに変わりはない。

細胞は死なない

 それでは死ぬとは、どういうことか。
 細胞は死ぬだろうか。じつは死なない。私はそう思う。十九世紀のドイツ、ヴェルツブルク大学の病理学教授だったルドルフ・ウィルヒョウは「すべての細胞は細胞から」という有名なことばを述べた。これは二十世紀を通じてまったく訂正されなかった。細胞は細胞から生じ、その系列は途切れたことがない。さらにわれわれの知るかぎり、細胞が無機物から自然に生じた例もないし、人工的に細胞が作られたこともない。

 じゃあ、ヒトはなぜ死ぬか。個体は滅びるのである。だから生殖細胞を作り、それが子どもになって、それがまた子どもを産んで、というふうに連続する。つまり生殖細胞は続くが、個体は続かない。さらにいうなら、現代では細胞ではなく、遺伝子が連続して生き延びているという考えが強い。遺伝子は永続するが、個体は滅びる。だから個体とは遺伝子の運搬手段に過ぎない。それが『利己的な遺伝子』の著者リチャード・ドーキンスの考えである。

 ドーキンスが忘れていることがある。それは右に述べたことである。「すべての細胞は細胞から」。つまり細胞も連続していて、滅びたことがない。細胞という「生きたシステム」およびそれが利用する情報としての遺伝子、両者は滅びたことがないのである。

 ただしこの両者は、まったく違う性質のものである。遺伝子はDNAつまり化学物質だが、細胞はたいへんな数の分子からなるシステムである。私はシステムということばは、もともと細胞のような性質をもつものを指すと考えている。

 物質は単離して取り出すことができる。取り出した状態では、そのまま「動かない」。いうなれば、いつまでたっても、粉のままである。皆さんの体から遺伝子、つまりDNAを取り出して、ビンに入れておく。それはいつまでたっても、DNAという粉のままである。これはじつは情報の特徴である。情報とは動かず、固定したものなのである。

 細胞は違う。ひたすら動く。冷凍でもしないかぎり、動きっぱなしで止まらない。止まらないだけではない。じつはおそらく二度と同じ状態をとらない。物質なら同じ状態で留まる。

 経済システムやコンピュータでいうシステムも、「動く」ものを想定している。複数の要素からなり、それが上手に祖み合わさって特定の機能を果たす。そういうものをわれわれはシステムという。その元になっているのは、生物であろう。その生物の基本的性質を備えているもの、その最小単位が細胞である。だからシステムとは、要するに「細胞みたいなもの」を指すのである。

 細胞は滅びない。個体も細胞と似たシステムだから、滅びないようにすることができないか。できないとはいえない。しかし細胞という生きたシステムを、われわれはまだほとんど理解していない。すでに述べたことでおわかりであろうが、細胞はきわめて複雑なのである。昨日も今日も同じような姿だが、構成要素はいつも入れ替わっている。そんな機械をわれわれは作り出すことができるか。

 いまのところは無理である。ヒトをあるていど生き延びさせることはできる。しかし死なないようにすることは、とうていまだ無理なのである。

なぜ老化するか

 なぜ老化するかを調べると、じつにさまざまな意見があるとわかる。ということは、正解がないということであろう。こういう場合、科学の常識では「まだ解答がわかっていない」という。しかし、これもよくあることだが、「質問が悪い」という場合もある。

 自然のできごとはすべてそうだが、切断することができない。生まれてから死ぬまで、人生のどこかに切れ目があるわけではない。じつは生まれる十ヵ月前、受胎の瞬間から死ぬまで、人生は連続した一つの過程である。それを胎児とか乳幼児とか、若者とか年寄りというふうに「分ける」のは便宜上であって、それ以外の意味はない。だからとりたてて「老化」という現象が存在するわけではない。死も同じである。脳死の議論ではっきりしたことの一つは、ヒトはいつ死ぬか、それに論理的解答はないということだった。社会的解答しかないのである。

 死亡診断書には死亡時刻という欄がある。だから死亡時刻があるので、さもなければ十兆を超える細胞の全部が確実に死んだ時刻など、記録できるはずがない。適当に決めているのである。脳死は死の定義が問題になったから、たとえば「竹内基準」というように、うるさく吟味される。しかしふつうの心臓死を脳死の場合のようにていねいな基準で吟味したら、医者はうっかり「ご臨終です」などといえなくなるはずである。いわゆる心臓死は、慣習的な死であるから、平気で決められる。心臓死の場合、脳の細胞がすべて死んでいるなどという保証はまったくない。脳死のほうが心臓死の場合より脳の壊れが著しいことは、常識で考えても明白である。

 神経細胞を例にとろう。神経細胞は一日十万個死ぬという話がある。それなら百日の桁で千万単位、千日の桁で億単位である。人生百年として三万六千日、万日の桁なら十億単位である。ところが神経細胞の数は大脳皮質だけで千億といわれるから、一目十万個つまり十億死んでも、なくなるわけではない。

 それなら神経細胞はいつから死にはじめるか。胎児のときからである。感覚や運動に直接に関わる神経細胞は、非常に早期に分化する。こうした細胞では、胎生期にすでに細脳死が生じる。生まれるまでには、分化した神経細胞の何割かが死んでしまうのである。

 この細胞死は、遺伝的にプログラムされているらしい。いわゆるアポトーシスなのである。その機構もわかってきていて、遺伝子を操作してこうした死を防止することもいまでは可能である。防止したらどうなるか。なにか具合が悪いことが生じるはずである。細胞が死ぬのは、それなりの理由があるはずだからである。それを生かしておくことは、いまはわからないにしても、なにか不都合を生じるにちがいない。

 じつは個人の老化や死も、同じだと思われる。個体が長持ちすることが進化上有利であるなら、とうの昔に長持ちするようになっていたはずだともいえるからである。それを人為的にいじることは、長期的にはいわゆる公害問題あるいは環境問題を引き起こす。しかし人間は勝手なものだから、炭酸ガス問題のように、どうにもならなくなるまでは欲でしか動かないのである。──略── (二〇〇一年四月)
(養老孟司著「都市主義の限界」中央叢書 p92-102)


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──それは、これから先は胎児の殺害が〔刑法に言う〕殺人になるという、そういう合理的な境界を見つけ出そうとしてさんざんむだ骨折りをしてきた法律家たちが、非常によく知っているとおりである。また、同様に、死の瞬間を確定することも、不可能である。と言うのも、生理学が立証しているとおり、死が、一度にかたづく瞬間的な出来事ではなくて、非常に長びく過程だからである。

同様に、どの生物も、各瞬間に同一のものであって同一のものではない。各瞬間に、外部から供給された物質を消化して、他の物質を排泄する。各瞬間に、そのからだの細胞が死んでいき、新しい細胞がつくられる。

遅かれ早かれ或る時間ののちには、このからだの物質は完全に更新されて、他の物質原子に置き換えられてしまう。その結果、どの生物も、つねに同一のものでありながらしかも別のものなのである。

また、いっそう綿密に考察してみるとわかるように、或る対立の両極たとえば正と負とは、対立しているとまったく同様に切り離せないものであり、どれほど対立していようと互いに浸透しあっているのである。

同様に、原因と結果とも、個々のケースに適用されるときにだけそのままあてはまる観念であって、個々のケースを全世界との全般的連関のなかで考察すれば、すぐに両者は結びあい、普遍的な交互作用という見かたに解消してしまう。この交互作用では、原因と結果とが絶えずその位置を換え、いま・あるいはここで結果であるものが、あそこで・あるいはつぎに原因になり、また、その逆も行なわれるのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p36-37)

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「どの生物も、つねに同一のものでありながらしかも別のものなのである」と。

「原因と結果とが絶えずその位置を換え、いま・あるいはここで結果であるものが、あそこで・あるいはつぎに原因になり、また、その逆も行なわれるのである」と。

積極性と消極性(問題点)のとらえ方を深めよう。