学習通信050318
◎「本質的にその連関・その運動・その発生と消滅とにおいて」……

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科学の出発点

科学は自然の「観察」から始まった

 古代の土器や銅鐸に刻まれた紋様をよく見ると、さまざまな渦が描かれています。それもよくよく見ると、渦の巻き方が同じ方向ばかりのものと、互いに反対向きに巻く渦が対になっているものがあります。さらによく観察すると、その渦の対にも、右の渦が時計回りで左の渦が反時計回りのものと、右が反時計回りで左が時計回りのものの二種類があることに気がつくでしょう。いちど、図鑑や博物館で実際に確かめてください。

 ところで渦は、どんなところで見られるでしょうか。有名なのは鳴門のうず潮ですね。他にも、台風や竜巻の渦、曲がった土手に沿って発生する渦、橋桁の丸い柱の後ろに次々と生まれる渦、口から吐き出されたタバコの煙の渦、人工衛星で撮られた巨大な渦巻く雲など、さまざまな渦を知っています。でもたぶん、その渦の巻き方にまで注意して見たことはないと思います。ところが古代の人たちは、そこまでしっかりと観察し、紋様に使っていたのです。古代の人々の社会は、荒々しい自然に取り囲まれており、いたるところに渦が見られ、ときには渦に子供をさらわれたり、家が流されたりしたのでしょう。だから、渦をしっかりと見つめていたのです。

 このように、科学の出発点は、まず自然をくわしく観察することにあります。観察とは、「よく注意してくわしく見る」ことです。漠然と見ていれば同じように見える現象でも、よく注意してくわしく見れば、渦の巻き方が異なっていたり、毎日少しずつ変化していることに気づくようになります。それを根気よく続けると、そこに何らかの「規則性」があることがわかってきます。似た現象を集めてきて、共通する性質(渦を巻くということ)、異なった性質(渦が巻く方向)、変化してゆく性質(川の流れの速さと渦の数)で分類していくのです。

観察を通じて、自然の現象が気まぐれに起こっているのではなく、規則的であり、単純なパターンに分けられることを発見できるということが、科学が成立する最大の根拠なのです。このような、現象の性質を観察し規則性を記述することを、「定性的」研究といいます。博物学は、いわば定性的研究の集大成で、人々に自然の豊かさを実感させました。小学校の理科も、それを目的にして組まれており、理科が好きだった人も多かったはずです。

観察から「観測」ヘ

 観察を、より一歩進めたのが「観測」です。自然が引き起こす現象の性質をくわしく見るだけでなく、「測る」、つまり何らかの尺度を用いて性質を数値に置き換えるのです。渦の場合なら、渦の大きさ・回転する速さ・発生の頻度・消えてゆくまでの時間などです。そのためには、測る尺度が決まっていなければなりません。もっとも基本的な尺度(単位)は、大きさ(サイズ)、重さ、時間ですね。例えば時間は、星の動き、月の満ち欠け、地面にさした棒の影の長さや方向を観察し、指を使って規則的に変化する数を数え、一年、一月、一日と時間の尺度を確立しました。紀元前四〇〇〇年ころのことです。

 このように、自然現象の性質を、ある単位で測り、数値化することを「定量的」研究といいます。共通の単位で測っておけば、異なった人の異なった場所での観測結果も、客観的に比較したり、整理したりすることができるでしょう。また、変化や差の大きさが正確に決められ、系統だって現象が記録できるようになります。そして最終的には、数式を用いて表される法則との照合が可能になります。法則がまだわかっていなくても、それがどのような条件を満たさねばならないかを推測することが容易になります。中学・高校の理科では、この定量的な記述が始まります。なぜ、そのように表すのか、それによって何か明らかになったかが明確にされないと、理科はおもしろくありません。この時点で理科嫌いが増えているのかもしれませんね。

 天体のように、はるか彼方にあって手にとることができない現象は、ひたすら望遠鏡を用いて観測するしかありません。観測結果の定量化を精確にするために、望遠鏡を大きくし、観測装置の精度を上げ、さらに大気圏外に出るという努力がなされています。例えば、今、私たちの頭上五〇〇キロメートル上空に、口径二・五メートルの望遠鏡が飛んでいます。「ハッブル宇宙望遠鏡」と呼ばれているもので、宇宙の彼方の素晴らしい像を送ってきています。私たちの自然認識の大きさを決めるものは、情報の受け手側の技術の進歩なのです。

観測から「実験」ヘ

 一方、地上における現象については、さらに進んで「実験」を行います。調べるべき資料の作製、環境条件の設定、何らかの相互作用に対する反応の測定を行うのです。自然への能動的なはたらきかけといえるでしょう。実験を行うと、自然界に存在する物質にしろ、人間の手で合成された物質にしろ、その物理的性質(物質の組成や運動様式、熱的・電気的・磁気的性質など)や化学的性質(化合物の他の物質との反応性)を、総合的に調べることがでぎるようになります。これにより、物質の多様な性質を暴き出し、物質の根源にせまり、生活や生産に役立つ物質を合成し(例えば、薬品や半導体素子)、地球や生命の歴史をたどることができるようになるのです。

科学とニセ科学を分けるカギ

 重要なことは、実験は、どこでも誰でもが行え、同じ結果を再現できねばなりません。つまり、物質という実体にはたらきかけ、そこで発見された結果が、誰によっても実証できるという、科学の客観性を保証しているのが実験なのです。そのために、実験資料・実験条件・実験結果を正確に記述した論文が発表され、ときには実験手順のノートや資料そのものが公開され、誰もが追試することができるということが重要です。それが、科学とニセ科学を分けるキーポイントといえるでしょう。

──略──

 「なぜ」という問いかけ

 観察・観測・実験によって、定性的であれ定量的であれ、自然現象に規則性が発見されると、「なぜ」そんな規則性が成り立つのだろう、と考えたくなりますね。私の子供が三歳のころ、まわりのすべてのことが不思議に思え、「なぜ」「なぜ」を連発して私を困らせたことがありました(私の方も、意外に、「なぜ」そうなのかを知らないことが多いのを発見してびっくりしたのですが)。いろいろなことが不思議に思え、「なぜ」と問う心こそが、人間を特徴づける「好奇心」なのです(むろん、何でも匂いを嗅ぐ我が家の犬にも好奇心はあるようですが、順序立てて考えることができるのは人間だけでしょう)。

 世界中、ほとんどの民族が「神話」をもっています。神話には、この世界(宇宙)がどうして生まれたの? 人間は誰が作ったの? この祭りはいつ始まったの? という三つの主題があるといわれています。宇宙・人間・文化の起源が語られているのです。例えば、日本の神話である「古事記」には、「ナマコは、なぜあんな形をしているの?」というゆかいな問いかけがあります。神話は、「なぜ」と問いかけてくる子供たちに対しての、親の参考書だったのかもしれません。このように、「なぜ」という問いかけは、人間が客観世界を認識したときから(二本足で立ち上がったときから?)始まったのです。

 現在においても、科学する心の本質が「好奇心」であることは変わりません。そして、科学者たちはいつも謎や難問に「なぜ」と問いかけ、それを解き明かしたいと願って研究を続けているのです。このとき、「なぜ」に対して、「そういうものだから」(「本性論」、アリストテレスはそう答えました)とか、「そのように神が決めたのだから」(「神学」、トマス・アクイナスの答えです)と答えるのでは、本当の答えになっていませんね(親は、このように答えることが多いのですが)。

問題に答えるカギ──物質の役割を考える

 では、どのように答えるのが正しいのでしょうか。
 むろん、問題に応じて答えは変わってくるのですが、大事なのは、「そこでどのような物質が重要な役割を果たしているか」を考えることです。自然現象は、すべて物質が関与していますから、そこで主役を演ずる物質は何かを特定することがまず第一なのです。次に、考える現象が、その物質の性質によるものか、物質の運動や変化によるものかを考えるのです。ときには、その物質が何からつくられているかまで、考えなければならないかもしれません。研究とは、この段階で何が決定的に重要なのかを探りだし、その理由を明らかにし、実験や観測結果を再現すること、といえるでしょう。

 例えば、包丁で野菜や魚を切る場面を考えてみましょう。ここにもたくさんの「なぜ」があります。野菜・魚に応じて、包丁の重さや刃の形は異なっていますね。なぜでしょうか。肉や魚は包丁を引きながら切り、野菜は押して切っていますが、それはなぜなのでしょうか。切れにくい包丁で切ると味がまずくなるといわれるけれど、本当でしょうか。包丁が切れなくなったとき、砥石でとぐとよく切れるようになるのはなぜでしょう。

これだけの疑問に答えるには、包丁そのものが何でできているか(鉄かステンレスかによって、硬さや刃先の形・錆びやすいかどうかが異なる)、刃先がどのような角度になっているか(切る材料の硬さや摩擦と関係している)、切ったとき材料の細胞はどうなるか(細胞を壊さない方がきれいだし味もよい)、砥石でとぐと刃先はどうなるか(鋭くとがるとともに、鋸(のこぎり)のような小さなすじもつく)などを考えねばなりません。つまり、「切る」という現象には、包丁と材料という物質の性質、刃先の運動、細胞の化学反応などがからんでいるのです。「切る」という簡単なことなのに、これだけの「なぜ」がからんでいるのです(まだ摩擦にっいては、よくわかっているとはいえません。このような日常現象は、意外に難しく、わかっていないことが多いのです)。

 このように考えると、「なぜ」に答えるのはそう簡単ではないとわかるでしょう。でも、こんなふうに考えて「なぜ」に答えるのは、楽しいと思いませんか?

物質とその運動──還元主義

 「なぜ」に答えるには、どのような物質が関与し、それがどのように運動・変化するかを考えるのが大事だと述べました。その理由は、「みかけはどんなに複雑であっても、基本の部分ではたらいている要素は単純である」と信じているからです。つまり、より基本の物質に立ち返って考えると、何が起こっているかがよくわかり、理解しやすいはずだ、と思っているのです。このような考え方を「還元主義」といいますが、近代科学はこの還元主義の方法で成功してきました。

 マクロな物質は分子の集合であり、分子は原子が結合しており、原子は原子核と電子から成り立っています。現象に応じて、分子のレベルで考えたり(細胞の化学反応)、原子にまでさかのぼったり(刃先の構造や硬さ)して、その性質を調べ、起こる現象の原因を探るのです。マクロな物質の現象も、原子や分子の運動や変化として理解できるだろうと考えるのです。より根源的な物質ほど、構造も運動も単純であり、解析しやすいと思われるからです。実際、このような還元主義の方法によって、エレクトロニクス革命が達成され、生命を遺伝子レベルで解明することに成功してきました。

還元主義は万能ではない

 しかし、還元主義は必ずしも万能ではありません。より基本の物質や運動にさかのぼっても、ちっとも単純にならず、わかりやすくもならない現象も多くあるからです。例えば、地震のような破壊現象、天気のような空気・水・日照の複雑な組み合わせ、水や空気の乱れた流れなどです。これらは一般に「非線形現象」と呼ばれ、集団系になってはじめて起こる現象なのです。そのような系では、「偶然」とか「ゆらぎ」と呼ばれる、私たちには予測も制御もできない事柄が、結果を大いに変えてしまうことがあります。このような現象は、還元主義では解決できないでしょう。根源の物質にさかのぼってしまうと、その現象も消えてしまうからです。

 これまでの近代科学は、実は、還元主義で解決できる問題のみを扱っており、還元主義では解けないこのような問題を避けてきた、という批判があります。第四章で述べるように、それも事実かもしれません。しかし、この一〇年くらいの間に、そのような問題も物理学の対象として精力的に研究されるようになりました。問題を攻める方法がまったく異なっているというわけではなく、あくまで物質の運動や変化を研究するのですから、そこにどのような法則性が貫徹しているかを調べる観点は同じなのです。
(池内了著「科学の考え方・学び方」岩波ジュニア文庫 p32-42)

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 すべてこうした事象と思考方法とは、形而上学的思考の枠に収まらない。これにたいして、物とその概念的模写とを本質的にその連関・その運動・その発生と消滅とにおいてとらえる弁証法にとっては、右に述べたような諸事象は、一つ一つそれ自身のやりかたの確証である。

自然は弁証法を証拠だてるものであって、われわれは、現代の自然科学がこの証拠だてのためにきわめて豊富で日々にますます積み重ねられていく材料を供給し、それによって、〈自然のなかでは、事は結局、形面上学的にではなく弁証法的に進行しているのだ〉、ということを証明してくれた、その功績を認めてやらなければならない。

しかし、弁証法的にものを考えることを覚えた自然研究者は、いままでのところ数えるほどしかいない。だから、発見された諸成果と伝来の考えかたとの衝突ということが生じているわけであって、いま理論的自然科学のなかで広まっていて教師をも生徒をも著者をも読者をも等しく絶望させている際限のない混乱も、この衝突をもとに説明できるのである。

 世界全体、それの発展および人類の発展、さらに人間の頭のなかでのこの発展の映像、以上を精密に叙述することは、したがって、ただ弁証法のやりかたで、生成と消滅との・前進的または後退的変化の・全般的な交互作用に絶えず注意をはらうことによってだけ、達成できるわけである。そして、こうした考えかたに立って、いまからそう遠くない時代のドイツ哲学がすぐさま現われてもきた。

カントは、ニユートンの安定した太陽系とその──〔造物主によるという〕あの有名な〈最初の一撃〉がいったん与えられたあとの──永遠の持続とを解消して一つの歴史上の出来事にしてしまうことで、すなわち、回転している星雲塊から太陽とすべての惑星とが発生したとすることで、その経歴を始めた。

そのさいすでに、〈太陽系がこのように発生したものである以上、それは将来また必ず滅亡もするに違いない〉、という結論を引き出した。

彼の見解は、半世紀のちにラプラスが数学的に基礎づけ、さらに半世紀のちには、そのような灼熱したガス塊がさまざまな凝縮度で宇宙空間に存在していることが、分光器を使って立証された。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p37-38)

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◎「世界全体、それの発展および人類の発展、さらに人間の頭のなかでのこの発展の映像、以上を精密に叙述することは、したがって、ただ弁証法のやりかたで、生成と消滅との・前進的または後退的変化の・全般的な交互作用に絶えず注意をはらうことによってだけ、達成できるわけである」と。