学習通信050319
◎「会社のもうけはどうしてつくられるか」……。

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資本の利得

「資本の利潤あるいは利得はまったく労賃とは違ったものである。この違いは二重のあらわれ方をする。すなわち一つには監督や指導の仕事はいろいろな資本の場合でも同じでありうるにもかかわらず、資本の利得はどこまでも、投じられた資本の価値に準じるということであり、そのうえさらに、大きな工場においてはそのような指導監督の仕事はことごとく一人の支配人にまかされ、支配人はその資本のはたらかせ方を監督しながらも、彼の俸給はその資本とは少しも釣合わないということである。さてこの場合、持主の仕事はほとんど何もなくなるとしても、彼はそれでも彼の資本に釣合った利潤を要求する。」

 なにゆえに資本家は利得と資本のこうした釣合いを要求するのか?

「資本家はもしも労賃として前払いされた資金を償うのに必要な以上のものを労働者たちの製品の売却から期持することがなかったとすれば、労働者たちを使う気など全然ないであろうし、もしも彼の利潤が投じられた資金の額に釣合っていなかったとすれば、少額の資金よりもむしろ多額のそれを投じる気など全然ないであろう。」

 このようにして資本家はまず第一に給料で、第二に前払いされた原料で利得を上げるのである。
 ところで利得は資本とどのような比率にあるのか?

「ある一定の所と〔一定の〕時における労賃の通常の平均的査定額をきめることがすでにむずかしいとすれば、それよりももっとむずかしいのは諸資本の利得である。資本が商うところの商品の価格の変動、その競争相手たちや取引先の運不運、輸送中や倉庫内で商品が見舞われるかもしれないその他の無数の偶然、これらの事情は日々に、いやほとんど刻々に利潤に変動をもたらす。」

「ところで、諸資本の利得を精確にきめることは不可能なことだとしても、それでもそれらの利得を金利に準じて考えてみることはできる。金で多くの利得が上げられうるならば、金を使用する能力にたいしては多くがあたえられ、それを用いて僅かしか利得が土げられなければ、僅かしかあたえられない。」

「通常の利子額が純利得の額にたいして保つべき比率は必然的に利得の増減につれて変動する。大ブリテンでは商人たちのまともで、穏当で、合理的な利潤>氛氓ツまり通常の慣習的な利潤のことを言おうとしているだけのことだが、──は利子の倍と見積もられている。」

 利得の最低の順はどれはどか? その最高はどれほどか?

「諸資本の通常の利得の最低額は、資本のどのような使用にもその恐れがつきものの偶然的損失を償うのに必要であるよりも常に少し多い程度でなければならない。この超過額が本来、利得あるいは純益≠ネのである。利潤の最低額の場合も同様である。」

「通常の利得が達しうる最高額は、大多数の商品の場合、地代の全部を引き去り、かつ納められた商品の労賃を最低の価格、換言すれば労働期間中の労働者がたんに生きていけるだけのところへ切り下げるような額である。労働者は日々、仕事に就かせられる期間中は、いつでも何らかの仕方で食を当てがわれねばならない。地代はまったく脱け落ちることができる。例、ベンガルにおけるインド商社の使用人たち。」

 さしたる競争もない場合、資本家がこれをよいことにして手に入れうるあらゆる有利さのほかに、彼はまともなやり方で市場価格を自然的価格以上に保つことができる。

「一つには、市場がそこで買う人々から遠くかけ離れている場合には、取引上の秘密によってである。すなわち価格の変動、自然的水準以上への価格の騰貴を秘密にしておくことによってである。つまりこの秘密保持には、他の資本家たちもまた彼らの資本をこの部門へ投入してくることがないようにさせる効果があるのである。

 次には、資本家が彼の競争者たちよりも少ない生産費によって彼の商品を同じか、さらにはもっと低い価格で供給し、もっと多くの利潤を上げるような場合には、工場秘密によってである。──(秘密保持による欺瞞は不正ではないのか? 取引所での取引。)──さらには、生産がある特定の地方に特有のものであって、(たとえば商価な葡萄酒のように)、そして実需要が満たされうるときがないような場合。最後に、個人や会社の独占によって。独占価格は可能なかぎりでの商い価格なのである。」

 資本の利得を高めうるその他の偶然的諸原因。

「新しい地域あるいは新しい商業部門の獲得は富める国においてでさえ、しばしば諸資本の利得を殖やす。というのは、それらの新しい地域や部門は古い商業諸部門から諸資本の一部を引き上げさせ、競争を少なくさせ、
市場への商品の供給を減らさせるのであって、その場合、これらの商品の価格が騰貴するからである。これらの商品で取引をする人々は借りた金をいっそう商い利子つきで返済することができるのである。」

「商品への加工の手が増し、製造業の対象になってくればくるほど、価格のうちで労賃と利潤へ消える部分は、地代へ消える部分にくらべて大きくなる。この商品に加えられる手工労働が進歩していくなかで、たんに諸利得の数が増すのみならず、後続のどの利得も先行のそれよりは大きい。なぜならその利得を生む資本は必然的にいつでももっと大きいからである。

亜麻布職工を就業させる資本は紡績工を労働させるそれよりも必然的にいつでも大きい。というのは、それはたんにその最終の資本をその諸利得で埋め合わせるのみならず、あまつさえなお亜麻布職工の給料を賄うからでありヽ──そして利得がいつでも資本とある種の釣合いをもつことは必然的なのである。」

 このように自然生産物と加工された自然生産物に加えられる人間的労働の進歩は労賃を殖やすことをしないで、かえって一方では、収益を上げる諸資本の数を殖やしたり、他方では後続の各資本の、先行の諸資本にたいする割合を殖やしたりする。

 資本家が分業からあげる利得については後ほど述べることにしよう。

 資本家は二重に利益をうる。第一には分業から、第二には総じて、自然生産物に加えられる人間的労働の進歩からである。商品にたいする人間的関与が大きければ大きいほど、それだけ死せる資本の利得は大きい。

「一つの同じ社会において資本利得の平均率はさまざまな種類の労働の賃金よりもはるかに同じ水準に近い。」「資本のさまざまな使用の場合、通常の利得率は資本回収の確実性の大小に応じて変わる。利得の額はリスクとともに、──たとい完全に比例してではなくとも、──上がる。」

 資本利得がまた流通手段(たとえば紙幣)の軽易化または安上がりによっても殖すのは自明のことである。
(マルクス著「経済学・哲学手稿」マルクス・エンゲルス八巻選集第一巻 大月書店 p44-46)

※「」はアダムス・スミス著「国富論」からのマルクスの抜粋

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会社のもうけはどうしてつくられるか

 会社の目的はもうけること

 雨の日も風の日も、満員電車にゆられ、会社の門をくぐる。会社に運びこまれた労働力は機械や道具や原料などと結びついて動きはじめる。労働力の使用がすなわち労働だ。

 労働力商品の買い手である資本家は、その売り手である労働者を労働させることで労働力を消費するのだ。

 いつの時代でも、労働は、人間が労働手段を使って労働対象に目的意識的に働きかけることで成り立つのだが、資本主義社会での労働は資本家の管理のもとで行なわれる。労働が秩序正しく行なわれているか、原料がむだづかいされていないか、労働用具が大切にされているかなど、資本家は注意深く見守っている。

 労働力を買ったのは資本家だ。だからその使用によって新しく生産されたものも当然資本家の所有物だ。それは労働者のものではない。

 ところで資本家は、工場を建て、機械や原料を用意し、労働者を雇い、なんのためにものをつくるのか。

 「はいッ。わが社は電化製品をつくって国民の生活を近代化するために奉仕しています」と家電メーカはいう。鉄鋼メーカーも「鉄をつくり社会に貢献しています」と胸をはる。
 まるで商品生産の目的が、社会に役立つことにあるというように。

 ほんとうだろうか。
 会社は、たしかに社会に役立つものをつくる。しかしそれは社会が求めているものでないと売れないからだ。目的はただ一つ、もうけることにあるのだ。それが証拠にもうからなくなると、どんなに社会が必要とするものでもつくるのをやめる。もうかるとなれば、核兵器でも毒ガスでも平気でつくる。

 では、どういうしくみでもうけるのか考えてみよう。
 ふつうもうけは、安く買って高く売るから生まれるように考えられがちだがそうではない。商品経済の原則は等価交換だ。商品を安く買って高く売ったからもうかるのなら、安く売ったり高く買ったりして損をするものがいるはずだ。ところが商取引をしている全資本家がもうけているのはどういうわけだろう。

 商品を価値どおりに買い、価値どおりに売って、しかもなおもうける──そんなことが可能だろうか。

 もしこの世に、価値どおり買っても、消費する過程でその価値以上の価値を生みだすような特別な商品があればそれは可能だ。
 ある! それが労働力という商品なのだ。
 パンや靴下などふつうの商品は、消費されたらあとになにも残らない。しかし労働力商品は使用すると(労働すると)新しい価値にかたまるという特殊な商品だ。価値とは労働のかたまりだ。たとえば一時間の労働で五〇〇〇円の価値に結晶するとすれば、二時間で一万円、八時間働けば四万円になる。

 実際の数値をもとに経済学者が計算すると、今日の日本の労働者は一日一万円の賃金で働いたら、四万円の新しい価値をつくっている勘定になるそうだ。つまり四万円つくったのに一万円しか支払われず、三万円は資本家にタダドリされたことになる。労働力商品はそれ自身が一万円の価値でも、使用する過程で価値が増殖し四万円になるというまこと不思議な商品なのだ。

 この三万円の差があるからこそ資本家は労働力を買おうとするのだ。
 時計には時間がわかるという使用価値があり、紙には字が書けるという使用価値があるように、労働力という商品には価値が増殖するという独特の使用価値があるのだ。この使用価値を求めて資本家は労働力を買うのである。

 「会社は機械・原料を提供するのだから、もうけるのは当たり前」という人がいるが、機械・原料の価値はそのままの大きさで製品に移るだけだ。
(中田進著「働くこと生きること」学習の友社 p55-58)

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◎「機械・原料の価値はそのままの大きさで製品に移るだけだ」

◎「資本家は二重に利益をうる。第一には分業から、第二には総じて、自然生産物に加えられる人間的労働の進歩からである。商品にたいする人間的関与が大きければ大きいほど、それだけ死せる資本の利得は大きい。」