学習通信050320
◎「目的のためのたんなる手段となってしまうならば」……。

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「ゆとり時間」と政治的・精神的支配

 ところで、勤労者通信大学基礎コースの教科書を見ると、「自由時間」について次のような注がほどこされています。

「物質的労働から解放されているというのが、ここでの自由≠フ意味です。したがって、精神労働一般、軍隊をふくむ国家の諸業務なども自由時間のなかで行われている、ということになります。」

「自由時間が支配階級による政治的支配、精神的支配のためにあてられる」、それが階級社会の特徴だ、とも記されています。
 二つのことに、ここで注意しましょう。

 その一。学問・芸術の本格的な展開は古代社会とともにはじまったということ、それは生産力の発展がうみだした自由時間を基礎にしていたということ、ただしその自由時間は古代においても中世においても、支配階級に独占されていたこと、をこれまでに述べてきましたが、これは、奴隷所有者階級や封建領主階級が、その独占した自由時間を学問や芸術のいとなみにもっぱらあてていたということではまったくない、ということです。「自由な時間、自由に利用できる時間は、富そのものである」とマルクスは書きました(『剰余価値学説史』第二十一章)が、くだらぬことに富を使いつぶすドラ息子もいることです。古代や中世の支配階級の一般的な生態は、まさにそのドラ息子を思わせるようなものでした。

 その典型は、古代ローマ帝国の皇帝をはじめとする貴族たちで、山海の珍味の飽食と性的乱行にあけくれる毎日であり、獣と獣、獣と人、人と人との本番殺しあいショーを主催して得意になる、というぐあいでした。それも、満腹するまでつめこむと、嘔吐薬をのみ羽先でのどをくすぐって食べたものを吐きだし、またあらためて食べはじめる──そしてその間、鉛のジョッキであびるようにワインをあおる、というような、また殺しあいショーも一対一の果たしあいなどというものではなく一回のショーで数百の奴隷の命が奪われる、というような、また延べ一万人の奴隷を出場させてぶっとおし八日間興行、というようなケタはずれのものだったのです。ついでにつけ加えておけば、歴代のローマ皇帝には精神異常の明らかな兆候を示したものがおおいのですが、それは、一つには、彼らが愛用した鉛のジョッキからくる鉛中毒によるものだ、ともいわれます。

 ストア派の哲学者としても知られるマルクス・アウレリウス皇帝のような例外もなかったわけではありませんが、それは文字どおりの例外でした。淫乱の暴君として知られるネロ皇帝は芸術家をもって自任してもいましたが、それは、今日風にいうならば、皇帝みずからがマイケル・ジャクソンを気取る、といった性質のものであったのです。中世の封建領主階級の一般的な生態も、このようなローマの皇帝・貴族のそれをもう少し泥くさくしたようなものにほかなりませんでした。

 ただし、古代や中世の支配階級が、そのすさまじいドラ息子ぶりにもかかわらず、ただのドラ息子と同じではなかった点が一つだけあります。それは、彼らが軍事をもふくむ政治の仕事──国家による人民統治の仕事にたずさわっていたということ、なによりもそれを彼らは本業としていた、ということです。これが、ここで注意しておきたい二番めのことです。

 自由時間を独占し、その独占を維持するためには、力の行使が必要であり、そのための機構・機関が必要です。政治とはこの力の行使のことにほかならず、国家とはそのような力の機構・機関にほかなりません。彼らはその独占した自由時間をまずなによりも、その力の行使、その力の機構・機関としての国家の運営にあててきたのです。

 なお、このような「政治的支配」と相対的に区別されるものとしての「精神的支配」とは、前章に出てきたいいまわしでいうと「文をもって化かす」というのに相当するもので、政治的支配を正当なものとして精神的にうけいれさせること、というふうに定義してみてもよかろうと思います。

 ちなみに、白川静さんの『字統』(平凡社)を見ると、「正」「征」「政」は意味も形も発音もたがいに深くつながりあった一系列の字で、「正はもと征服を意味し、その征服地から貢納を徴することを征といい、重圧を加えてその義務負担を強制することを政という。そしてそのような行為を正当とし、正義とするに至る」とあります。一世紀のおわりに成立した中国最古の漢字解説書である『説文解字』以来、ふつうには「正」は「一」に「止」で「一もって止まる」すなわち「止まるべきところに止まる」というのが原義とされるのですが、「それは正義という観念が成立したのちの解釈で、本来は征服支配こそ、強者の正義であった」というのが、そこでの白川さんのコメントです。『説文解字』ではさらに、「政は正なり」とも説明されていますが、これは「搾取を正当な権利とする支配者の思想である」と別の場所(東洋文庫『漢字の世界』1)でやはり白川さんが書いていらっしゃいます……。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p99-103)

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三 文化の目的とはたすべき役割

 以上にのべたことによってみても、わが国における民主主義的な、また社会主義的な革命のなかで、思想と文化がはたす役割りがいかに大きいかということがわかると思います。

 といって、わたしは、けっして教育や科学や芸術などの理論と実践が革命の手段とならなければならないといっているのではもちろんありません。文化には文化の目的があり、教育や科学や芸術などは、それぞれ人類の発展、社会の進歩のなかで、追求しはたすべき独自の目的と任務をもっております。教育は人間のもつ肉体的、精神的な可能性をひき出し、それを育成して、社会的でしかも自主的な人格を形成するためのものであり、科学は現実の観察と検証と理論とによって自然と社会における真実を追求するものであり、芸術は人間と社会と自然における真と美を創造的に再現するものであります。

 しかし、文化は人類とその社会の発達のなかで形成され、そのなかで一定の役割りをはたしながら発展してきたものであって、それをはなれて存在しているものではありません。世のなかには科学のための科学、芸術のための芸術を主張するものがいます。いわゆる科学至上主義、芸術至上主義といわれているものであります。つまり科学や芸術はそれ自身の目的のためにのみ存在しているのであって、他のいかなる目的にも奉仕すべきものではないという主張であります。

こういう考えはかつて一部の人びとによってさかんに唱導されましたし、現在でもそういう考えをもっている人がいます。しかし人類の社会にはその自己目的だけで存在しているものはひとつもありません。教育も科学も芸術もまたその他の文化も、全体としてそれが人間に奉仕し、社会の進歩、人間の福祉に役立っているからこそ存在し、発達してきたものであることはいうまでもないことであります。

 しかし同時に、教育や科学や芸術などが、その本来の目的と役割り、その本来の使命をはなれて、それに反して、なんらかの目的のためのたんなる手段となってしまうならば、それはその正当な存在の理由を失うことになります。

 もちろん、たとえば教育に特殊な目的のための教育があり、科学に応用科学があり、芸術に実用的なあるいは宣伝的な芸術があります。それらは社会と生活にとって必要なもので、わたしはいささかもそれらの意義を否定したり軽視したりするものではありませんが、しかしそれらも教育や科学や芸術の本来の使命を離れたものであってはならないのであります。

 古い中国に曲学阿世ということばがあります。学問をまげて世におもねるということで、自分の学問上の信念と真実をゆがめて、ときの権力者に迎合する学者のことを称しているのであります。現在の日本にも真実をまげて独占資本とその政府の政策に迎合し、奉仕して、それを合理化している御用学者がいます。現在公害が問題になっていますが、これは科学の法則やその結論を無視し、もしくは軽視して、企業がいとなまれていることからくるもので、その直接の責任は企業と政府にありますが、それをゆるし、それに協力している学者や技術者にも責任があります。ましてその原因を知りながら、企業の擁護と自己の保身のためにその真実を隠蔽している学者などは、学者の風上にもおけないものです。

 また教育でも、たとえば技術教育が技術尊重の名のもとに、企業に必要なかたわな人間をつくり出すとするならば、それは教育の本来の使命に反するものです。人間を卑俗化し、退廃させる作品、不当な暴力を宣伝し、人権の抑圧を肯定するような作品が芸術の名のもとにつくられるばあいも同様です。

 現在の独占資本と帝国主義が必要としている文化のうちには、そのようなものがすくなくありません。文化は独占資本と帝国主義の利益とその目的遂行のために、人民の真の利益と幸福を犠牲にし、社会の発展を阻止する手段として利用され、そのことがまた文化をつくり出すもの、文化を受けいれるものに要求されています。しかしそのようなことは、文化そのものの正しいあり方を否定するものであって、このことはまた資本主義、帝国主義が真の文化の発展にとって除かなければならない障害になっていることをしめしています。

 人民の真の幸福と社会の進歩をねがうものの立場、とくにこの目的をもって現在の社会を変革しようとする共産主義の立場はそれとはまったく正反対です。わたしたちはたとえ革命のためであっても、学者、芸術家などの知識人や文化人が、自分の信念をまげ、真実をまげても革命に協力すべきだなどとは、もちろん要求するものではありません。それはわたしたちが真の文化の発展こそが、究極において革命に味方するものであるとかたく確信しているからであります。

 ここに、少数の支配階級の利己的な利益を代表している独占資本や帝国主義と、国民の大多数の真の利益を代表しているものとのあいだの、文化にたいする態度、文化にたいする政策の根本的な相違があると思うのであります。歴史によって審判されているもの、すでに歴史的な存在理由をうしない、社会の必然的な発展を阻害している階級は真実を恐れています。反対に社会を変革して、歴史をその発展の方向に推進しようとする革命的なまた革新的な階級の立場に立つものが、真実を追求するのは、真実こそ自分たちの味方であることを知っているからであります。
(蔵原惟人著「共産主義と文化」国民文庫 p105-109)

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「自由時間が支配階級による政治的支配、精神的支配のためにあてられる」、それが階級社会の特徴だ……と。