学習通信050321
◎「二十世紀初頭の運動はこういう考えだった」……。

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こちら経済部
経済効率より人間優先へ

 まとめて働き、後でまめて体めばいい>氛氓アんな企業の論理が幅を利かせ、労働時間規制は緩和されてきました。二十五日閣議決定する政府の規制改革三ヵ年計画には、労働時間規制を外す制度の導人・検討が盛り込まれると、商業紙が報じています。

 労働時間が長くなれば、睡眠時間は削られます。睡眠衛生学という分野で労働時間規制のあり方を考える研究者によると、過労死など健康障害を防ぐには一日七時間以上の睡眠が必要だそうです。そのうえ、長時間働いて帰宅後くつろぐ時間がないと質のよい睡眠はとれず、夜勘者が昼間寝ても二時間程度しか熟睡できない。労働特性にあった規制も必要といいます。

 人間が一日単位のリズムをもつ生命体であるゆえんです。生体リズムを無視した経済効率優先社会が、長時間労働による過労死や精神疾患を増大させています。人間効率@D先の社会をつくることこそ、政府のやるべきこと。小泉さん、きこえてますか。(畠山)
(しんぶん赤旗 050319)

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拘束八時間を提唱する意義について

 まず最初に拘束八時間という問題です。
 この点で、私が最近興味をもって読んだのは、日本ILO協会が去年の秋に、労働時間問題の調査のためにヨーロツパに派遣した大型調査団の報告書でした。そのなかに、オランダの組合代表と会ったときの話が出ているのです。時間短縮の運動について、まず「労働者が一日二十四時間を三つに分けて、八時間働いて、八時間寝て、八時間自分の時間」という話が出てくるので、オランダの組合がいまとっている方針の説明かと思って読んだら、「二十世紀初頭の運動はこういう考えだった」という過去の歴史の説明でした。第二次世界大戦後は、それでは間に合わなくなった、もっと短い労働時間が次々と目標になってきた、というのです。ヨーロツパと日本の運動の開きを痛感するとともに、八時間労働制という要求の基本をあらためて考えました。

 もともと八時間労働制の要求とは、八時間労働して、ハ時間寝て、八時間は自分の時間ということで、掲げられてきたものです。この点からいえば、やはり、資本に拘束されている時間を八時間に規制するということを、本来の意味として大いに主張すべきです。戦後日本の労働問題の出発点において、そのことが強調されたことは大事なことだと思います。

 しかも、最近の変化といいますと、通勤時間が非常に長くなって、片道一時間半の通勤も珍しくなくなっている。そうなると、拘束八時間でも、往復三時間の通勤をくわえれば十一時間です。実働八時間、拘束九時間となると、定時でも、仕事と通勤に十二時間はとられてしまいます。労働のために生活があるのではない、生活のために労働があるのだ、という見地を貫くなら、拘束八時間制を、いま声を大にしていうべき時だと、考えています。

残業規制の方法の問題について

 それから、残業規制の問題でお話がありました。残業規制の方法については、世界にいろいろなタイプがあると言われています。たとえば、アメリカやイギリスは、残業の賃金に割増をつける、これが資本にたいするペナルティー(罰則)となって、いわばコストの圧力で残業を制限するという方式を主にとっている。これにたいして、ドイツやフランスは、割増はもちろんつけるが、より直接的に、法律でこれ以上の残業をさせてはいけないと制限する、これを中心にしています。

 戦後の日本の労働基準法はアメリカ流のやり方を取り入れて、残業時間への直接の制限はやらず、もっぱら割増賃金によるコスト圧力だけで残業を押さえるという方式になったわけですが、それでは有効な制限にならないことが、長時間労働の現実によって、証明されています。

 私たちの今度の提案では、コスト圧力になるはずの割増率も、残業五〇%、休日一〇〇%と増やすと同時に、直接の時間制限の規定を新たにとり入れ、「残業の上限を一日二時間、月二十時間、年百二十時間と法定」することで、時間外労働の抜本的な規制をはかることにしました。

変形労働時間をめぐって

 国鉄労組や運輸関係から、、「変形労働時間」の問題がだされました。
 日本では「変形労働時間」の導入は、たいへん異常な経過をたどっています。八七年の基準法改正のときに、政府が国会でおこなった説明では、旅館など特別な、普通の労働時間の規定ではとりしきれない例をしきりにあげて、これは、そういう例外的な部門での弾力的な対応のための措置で、日本の産業の基幹には影響しない問題だといって、「変形労働時間制」の取り入れを、合理化しようとしました。こうして、「一日八時間」という規定をはずせるようにしてしまったのです。

 そういう口実で導入された変形労働時間の制度ですが、現実には、この制度は、むしろ本来きちんとした労働時間の制限ができるはずの基幹産業、たとえば自動車産業などに入ってきて、トヨタや日産で、一勤務十時間ないし十一時間からなる二交代制が、基準内労働の範囲内で実施される、こういう驚くべき体制が、変形労働時間の適用として、いま制度化されつつあります。

 ですから、私たちは、ここで一日拘束八時間ということを、労働時間の基本としてあらためてうたい直し、八時間制の脱法的な取り崩しは許さないという原則を確認することが、重要だと考えます。

 ご発言にあったように、運輸とか鉄道とか、本来の作業条件からいって、状況その他の対応のためには、変形的な形態が不可避だというところがあります。こういう職場で、時間短縮、時間制限をいかにして実現するかという問題は、これまでの実績と経験の上にたちつつ、より緻密な研究がいるということを、お話をうかがいながら痛感しました。これは研究の上、必要な場合には、適切な補足も考えてゆきたいと思います。

有給休暇問題での日本の遅れ

 次に、有給休暇の問題です。
 私自身こういう経験をしたことがあります。十年あまり前になりますが、北ヨーロツパから政党代表を迎えました。その代表が、自分の国の労働組合のなかで、日本の労働組合運動についてこういわれている、という話をしたのですが、そこで、日本の労働組合運動の遅れとしてあげられた点の一つに、「日本では、有給休暇を病欠の代わりに使っているそうだ」という問題があったのです。

 日本では、今日も何回も話が出たように、有給休暇を病気のときの欠勤の予備にとっておくというのは、よくあることで、そういう形でさえ休暇をとれないというのが、むしろ最大の問題になっています。ところが、ヨーロッパにゆきますと、有給休暇にたいしてそういう扱いをしていることが、日本の労働組合運動の遅れの象徴の一つとして扱われている。私はその時、この面での国際的な格差の大きさを、非常に実態的に、なかなか大変なことだとうけとめました。

 実際、この問題は、ILO条約で、条文として明記されていることです。七〇年に採択された年次有給休暇にかんするILO条約の第六条には「疾病または障害に起因する労働不能の期間は、……最低年次有給休暇の一部として数えてはならない」と、はっきりとうたわれています。病気で休むときには欠勤の権利を行使することが労働者の義務でも権利でもあって、それに有給休暇を当ててはならないという禁止条項です。この点はそういう性質の問題だということを考える必要があります。

 また、有給休暇というのは、まとまってとるのが原則です。フランスでは、統計上も、最低四泊しないとバカンスにならない、三泊以内の旅行はバカンスに数えないということが決まっているそうです。有給休暇の連続取得というこの問題も、やはりILO条約で決まっていて(第八条)、休暇の分割は認めるが、「年次有給休暇の分割された部分の一は、少なくとも中断されない二労働週から成るものとする」とされています。

三週間以上を保障するが、そのうちの二週間は連続してとらなければならない、そうでないと休暇にならない、そこまで国際的には基準が明記されている問題ですから、それに日本が近づける努力をおおいにしなければなりません。
(不破哲三「人間らしい労働と生活の回復をめざして」──『人間らしい労働と生活を」日本共産党ブックレット p44-47)

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第八章 労働日

第一節 労働日の諸限界

 われわれは、労働力がその価値どおりに売買されるという前提から出発した。労働力の価値は、他のあらゆる商品の価値と同様に、その生産に必要な労働時間によって規定される。したがって、労働者の平均的な日々の生活諸手段の生産に六時間を必要とするならば、労働者は、彼の労働力を日々生産するためには、あるいは彼の労働力を販売して受け取った価値を再生産するためには、平均して一日あたり六時間労働しなければならない。この場合には、彼の労働日のうちの必要部分は六時間であり、それゆえ他の事情がまえと同じならば、一つの与えられた大きさである。しかし、そのことだけでは、労働日そのものの大きさはまだ与えられてはいない。

 われわれは、線分a─bが必要労働時間の継続または長さ、たとえば六時間を表わすものと仮定しよう。労働がabを超えて一時間、三時間、あるいは六時間などと延長されるのに応じて、われわれは三つの相異なる線分身得る──
労働日@ a---b-c
労働日A a---b--c
労働日B a---b---c

これらの線分は、七時間、九時間、および一二時間という三つの異なる労働日を表わす。延長線bcは剰余労働の長さを表わす。労働日はab十bc、すなわちacであるから、それは可変量であるbcとともに変化する。abは定量であるから、bcのabとの比はつねにはかることができる。それは、労働日@ではabの1/6、労働日Aでは3/6、労働日Bでは6/6になる。さらに剰余労働時間/必要労働時間という比率は剰余価値率を規定するから、剰余価値率は、右の比によって与えられている。それは、三つの異なる労働日において、それぞれ一六%、五〇%、および1〇〇%になる。逆に、剰余価値率だけでは、労働日の大きさはわからないであろう。

たとえばそれが100%であるとしても、労働日は八時間、一〇時間、一二時間などでありうる。それは、労働日の二つの構成部分、すなわち必要労働と剰余労働とが等しい大きさであることを示すであろうが、この部分のそれぞれがどのような大きさであるかを示しはしないであろう。

 したがって、労働日は不変量ではなく可変量である。その二つの部分のうちの一方は、確かに労働者そのものの持続的な再生産のために必要な労働時間によって規定されているが、しかし、その全体の大きさは、剰余労働の長さまたは継続とともに変動する。それゆえ、労働日は規定されうるものではあるが、それ自体として規定されているものではない。

 ところで、労働日は固定的な大きさではなく流動的な大きさであるとはいえ、他方、それは一定の制限内でのみ変化しうる。しかし、その最小限度の制限は規定しえない。確かに、延長線bc、すなわち剰余労働をゼロとすれば、一つの最小限度の制限、すなわち労働者が自己を維持するために一日のうちどうしても労働しなければならない部分が残る。しかし、資本主義的生産様式の基礎上においては、必要労働はつねに彼の労働日の一部分をなしうるのみであり、したがって労働日がこの最小限度の制限まで短縮されることは決してありえない。これに反して、労働日は一つの最大限度の制限をもっている。それは一定の限界を超えては延長されえない。この最大限度の制限は二重に規定されている。

第一に、労働力の肉体的な制限によって。人間は、二四時間からなる一自然日のあいだには、一定分量の生命力しか支出できない。それは、馬が日々八時間だけしか働けないのと同じである。一日のある部分のあいだにこの〔生命〕力は休息し、睡眠をとらなければならず、また他の部分のあいだに人間は食事をし、身体を洗い、衣服を着るなどの他の肉体的な諸欲求を満たさなければならない。これらの純粋に肉体的な制限のほかにも、労働日の延長は社会慣行的な諸制限に突きあたる。

労働者は、知的および社会的な諸欲求の充足のために時間を必要とするのであり、それら諸欲求の範囲と数は、一般的な文化水準によって規定されている。それゆえ、労働日の変化は、肉体的および社会的な諸制限の内部で行なわれる。しかし、この二つの制限はきわめて弾力性に富むものであって、変動の余地はきわめて大きい。こうして、八、一〇、一二、一四、一六、一八時間からなる労働日、したがってきわめて相異なる長さの労働日が存在するのである。

 資本家は、労働力をその日価値で買った。一労働日のあいだ中、労働力の使用価値は彼のものである。したがって、彼は労働者を一日のあいだ自分のために労働させる権利を手に入れた。しかし、一労働日とはなにか?
 いずれにせよ、自然の一生活日よりは短い。どれだけ短いのか? 資本家は、この極限=Aすなわち労働日のやむをえない制限については彼独自の見解をもっている。資本家としては、彼はただ人格化された資本にすぎない。彼の魂は資本の魂である。

ところが、資本は唯一の生活本能を、すなわち自己を増殖し、剰余価値を創造し、その不変部分である生産諸手段で、できる限り大きな量の剰余労働を吸収しようとする本能を、もっている。

資本とは、生きた労働を吸収することによってのみ吸血鬼のように活気づき、しかもそれをより多く吸収すればするほどますます活気づく、死んだ労働である。労働者が労働する時間は、資本家が、自分の買った労働力を消費する時間である。もし労働者が、自分の自由に処理しうる時間を自分自身のために消費するならば、彼は資本家のものを盗むことになる。
(マルクス著「資本論A」新日本新書 p392-395)

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◎「人間が一日単位のリズムをもつ生命体であるゆえんです。生体リズムを無視した経済効率優先社会が、長時間労働による過労死や精神疾患を増大させます」「労働のために生活があるのではない、生活のために労働があるのだ、という見地を貫くなら、拘束八時間制を、いま声を大にしていうべき時」と。

◎「資本とは、生きた労働を吸収することによってのみ吸血鬼のように活気づき、しかもそれをより多く吸収すればするほどますます活気づく、死んだ労働である」と。