学習通信050322
◎矛盾は「自己運動の原理であり」……。

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 現在に比較的に近い時代のこのドイツ哲学は、ヘーゲルの体系において完結した。

そして、この体系においてはじめて、〈自然的・歴史的・精神的世界の全体は、一つの過程であり、すなわち、絶えず運動し変化し転形し発展しているものである〉、ということが示され、この運動と発展との内的連関を立証しようとする努力が行なわれたのであって、これが、この体系の偉大な功績である。

そして、この見地からすれば、人類の歴史は、もはや、無意味な暴カ行為──いまでは成熟した〈哲学者の理性〉の法廷ですべて同じように非難される筋のもので、できるだけ早く忘れてしまうのがいちばんよい、そういう暴カ行為──の乱雑なもつれあいとは見えなくなって、人類そのものの発展過程として現われるようになった。

この発展過程がすべての間違った道を通りながらしだいに段階を追って進んできた跡をたどり、この過程の内的な合法則性をすべての見かけ上の偶然性を通して立証する、ということ、これが、いま、思考の課題になった。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p38-39)

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ヘーゲルの哲学

 @でも触れたように,エンゲルスは,過去の哲学的遺産のなかでギリシア哲学とともにドイツ古典哲学を,そのなかでも「弁証法の総括的な摘要」が与えられているヘーゲノレの哲学を,弁証法的思惟の展開のためにくわしく研究する価値があると,指摘している.われわれも,この瞥見的(べっ‐けん【瞥見】ちらっと見ること。ざっと目を通すこと。一見。一瞥。)な展望のなかでは,すぐにヘーゲル哲学の問題に移ることとしよう.

 ヘーゲルは哲学的思惟つまり弁証法的思惟には3つの契機があると考えている.第一は悟性的な契機,第ニは否定的─理性的な契機(弁証法的な契機),第三は肯定的─理性的な契機(思弁的な契機)である.第一の契機は,対象を他のものから一応切り離し固定させてみることである.ヘーゲルは「悟性の威力」ということも言っており,哲学にはまず第一に,あらゆる個々の規定を明確に把握し,曖昧のうちに捨てておかないことが必要だというのが,かれの考えである.

それゆえ,この側面が学的認識において果たす役割を,ヘーゲルが少しも軽視していないことに注意したい.この側面を絶対化するところに形而上学(反弁証法の意味)が生じるのである.第二の否定的・理性的な契機は,悟性的に分離され固定化されているものをそれだけでは成り立たないとし,相互に否定的なものとしてとらえることである.

この契機が「弁証法的」と言われるのは,カントの『純粋理性批判』における仮象の論理としての弁証法の用例をひきついでいるからである.しかし,理性はたんなる否定におわるのではなく,肯定的なものを把握するのでなければならない.そこで,第三の契機は,悟性的に固定的にとらえられている諸側面の相互否定のなかに肯定的なものを把握することにほかならない.いいかえれば,対象を,その側面への区別の統一されているものとして再現することである.

そこで,以上の思惟の3契機が統一されることによってはじめて,対象を運動・発展においてとらえることができる.ヘーゲルは「弁証法」という用語にこの思想をこめて使っている場合があり,今日,唯物弁証法によって理解されているのは,ヘーゲルのこの考えかたを継承しながら発展させたものである.

 ヘーゲルはかれの哲学体系を論理学,自然哲学,精神哲学の3つの部門に分けている.周知のように,かれにとって根本実在つまり絶対者は「絶対精神」であり,それはまさに絶対的な精神存在として自己を思惟するのであり(つまり「思惟の思惟」アリストテレスの「神」!),この自己思惟の展開の過程がかれの哲学の体系的叙述にほかならない.

さてかれの哲学体系の第1部門としての論理学は「純粋思惟の国」であり,「自然および有限精神の創造以前の永遠なる本質中にあるところの神の叙述」とされており,ここにわれわれは,プラトンが弁証論として着想を述べるにとどまったもろもろのイデアの体系的な相互連関と,新ブラトン主義の思惟的世界における諸イデアの考察から始まり,神学的な哲学における天地の創造をも超越する神の国についての思弁的展開におよぶ観念論の歴史が,ヘーゲル哲学の上にまで投射している遙かな射程を,見ないわけにはいかない.

だからして,論理学から第2部門としての自然哲学への移行,つまり論理学的理念(Idee =イデア)の自然への外化という学的展開は,神の無からの天地創造という宗数的な表象をそのなかに含んでいる.そして,自然哲学の部門から第3の精神哲学の部門へと展開し,有限精神の段階を経て全体系の最後において絶対精神は自己に還帰し,「思惟の思惟」の円現的な完成態のなかにそれまでの全展開が包含されることになる.むろん以上概略的に述べたヘーゲルの哲学体系は,かれ自身も「絶対的観念論」と名付けているところの,われわれからみればまったく転倒した見地によるものである.

しかし,この転倒した見地による展開の具体的な過程のなかには,ヘーゲルが,われわれの考える真の意味での現実的世界から強靭な思索によって抽き出してきた弁証法的な内実が,その合理的核心として,生きいきと表現されている.マルクスは『資本論』第2版後記のなかで次のように書いている,「私の弁証法的方法は,根本的にヘーゲルのものとは違っているだけではなく,それとは正反対なものである.」「ヘーゲルにとっては,かれが理念という名のもとに一つの独立な主体に転化している思考過程が,現実的なものの創造者なのであって,現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである.

私にあっては,これとは反対に,観念的なものは,人間の頭の中で置きかえられ翻訳された物質的なものにほかならない.」しかし,「弁証法がヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は,かれが弁証法の一般的な運動諸形態をはじめて包括的で意識的なしかたで述べたということを,けっして妨げるものではない.弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている.

ひとは,神秘的な外彼のなかに合理的な核心を発見するためには,それをひっくりかえさなければならない.」レーニンも,「ヘーゲルの論理学はその与えられたままの形で適用することはできない.与えられたものとして取りあげることはできない.理念の神秘をとりさって,ヘーゲルの論理学から論理的な(認識論的な)意味をおびたものを選び出さねばならない」と書いている.

 とはいえ,たとえヘーゲルの哲学体系のなかの論理学だけに焦点をしばったにしても,そのなかにみられる弁証法的な思惟内容ははなはだ豊富であって,それについてくわしく立ち入る余裕は,いまわれわれにはない.それゆえ,ヘーゲル的思惟の合理的な核心とみられる媒介旨および矛盾と自己運動の問題について,以下,若干の論及をおこなうことにしたい.まず,媒介性について述べよう.

ヘーゲルは言う,「自然のなかであれ,精神のなかであれ,あるいはどこであれ,直接性とともに媒介を含まないようなものはなに一つ存在しない,したがって,これらの両規定は分離されるものでも分離されうるものでもなく,両規定の対立はいわれのないものである.」客観的世界にあるもの(物,現象,過程等)は,どんなものも,そのようなものとして存立するかぎりにおいて,直接的なもの(自立的なもの)である.しかしまた,どんなものも,他のものによって措定(産出・惹起・形成等)されており,措定されることなしにそれ自身として存立するものはない.どんなものも,それゆえ,媒介されたものである.

したがって,どんなものも,直接的なものであるとともに媒介されたものであり,媒介されたものであるとともに直接的なものである.ところで,このようなものは他のものによって媒介されるものとして,他の直接的なものを前提するが,この前提となる他のものもまた同様に措定され,媒介されたものでなければならない.このようにして,客観的世界は,抽象的にいえば,直接性と媒介性との統一,あるいは直接性と相互媒介性との統一である.

別のしかたでいえば,直接的ということはさきに言ったように自立的ということであり,媒介的ということは,自立的なものが自立的でないということ,つまり,否定性である.それゆえ,直接性と媒介性との統一は,自立性と否定性との統一であり,逆にいえば,否定性であるとともに揚棄された否定性」ということである,なぜなら,揚棄された否定性とは,否定性によって媒介されながらその側面を棄却している自立性を意味するからである.

以上述べたことは,抽象的に語られているけれども,客観的世界の相互連関の深い内容にかかわっている.弁証法的な相互連関(多の一における統一的連関)は,諸項が外的に相互関係していること,あるいは相互に依存しあっていること,いわんやたんに量的に依存しあっている(関数関係によって表現される)ことではない.相互媒介・相互否定としての相互連関は相対的に自立しているもののあいだの相互作用であり,相互作用による内的な相互浸透をその本質的内容として含んでいる.

この内的な相互浸透についていえば,たとえばルピンシュテインは,物質の一般的性質としての反映を次のように説明している,「第一に,外的作用は物と現象の内面的性質そのものを制約しつつ,いわばそのなかにあずけられたようになり,おのおのの現象のなかでは,その現象と作用しあうすべてのものは,その現象にたいする作用の結果として,いわば『表示され』,反映される.」そして「第二には,ある現象が他の現象に与えるあらゆる作用は,その作用を受ける現象の内的特性を介して屈折される.」

 次に,矛盾と自己運動について.相互媒介・相互否定はしかし,多なるものの存立とその内的な連関を説明しても,それら自身の運動──すなわち,多なるもののおのおのが,媒介されたものでありながら揚棄された媒介性として,それ自身として展開する運動,すなわち自己運動──を説明していない.

そこで,ヘーゲルは言う,「悟性が主張するような抽象的な『あれか,これか』は実際どこにも,天にも地にも,精神界にも自然界にも存在しない.あるものはすべて具体的なもの,したがって自分自身のうちに区別および対立を含むものである.……一般に世界を動かすものは矛盾である.」「矛盾はあらゆる運動と生動性の根源であり,或るものはそれ自身のうちに矛盾をもつかぎりにおいてのみ,運動し,推進力と活動性をもっている.」

矛盾は「自己運動の原理であり」「否定性〔つまり矛盾……筆者〕こそ,いっさいの活動,すなわち生命的および精神的自己運動の最も内的な源泉であり,すべての真なものをそれ自身においてもち,すべての真なものがそれによってのみ真なものとなるところの弁証法の魂である.」だからして,マルクスは,さきに引用した『資本論』第2版後記のなかで,続けて次のように書いているのである,

「その合理的な姿では,弁証法は,ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとって腹だたしいものであり,恐ろしいものである.なぜならば,それは,現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定,その必然的没落の理解を含み,いっさいの生成した形態を運動の流れのなかでとらえ,したがってまたその過ぎ去る面からとらえ,なにものにも動かされることなく,その本質上批判的であり革命的であるからである.」

 しかし矛盾は客観的に解決されるものでなければならない,その解決のされかたは,矛盾の異なるに従って異なるけれども,やはり矛盾は客観的に解決されなければならない.「矛盾は最後のものではなく,自分自身によって自己を揚棄する」といっているのは,ただこのかぎりで,正しい.矛盾の揚棄はしかし新たな矛盾を生む.このようにして運動はどこまでも続くはずである.

ヘーゲルの欠陥は,しかし,矛盾の揚棄のうちに結局のところ宥和を見,この宥和こそが最後のものである(矛盾はそのさい「観念的な契機」となる)とするところにある.ヘーゲルは,矛盾の揚棄が新しい矛盾を生むことによっておこる運動の限りない進展のなかに悪無限を看取していたのであった.

 なお,自己運動との関係で,いわゆる主体について.ヘーゲルの有名な命題に,「いっさいを左右する要点は,真なるものをただ単に実体として把握し表現するだけではなく,まったく同様に主体としても把握し表現することである」というのがある.実体はなにものに依拠することによってでもなく,それ自身によって存在するところのものであり,自体性ということをその内容的規定としている.

全自然にわたる総体的なものとしては,スピノーザの実体(神すなわち自然)がそういうものであったし,個別的なものとしては,ライプェッツの実体(モナド)──モナド(小宇宙)による世界(大宇宙)の表出の思想のうちには,万物の相互作用による「反映」(物質の一般的性質としての)の見地が,観念論的で静的な把握のしかたでではあるが,現われている──がそういうものである.自己運動には,その過程における多様な展開,なんらかの差別から区別・対立に及ぶ多様な展開がなければならないか,しかもそれが「自己」運動であるからには,その展開をつうじて同一ななにかが,その展開とは別なものとしてではなく,まさにそのように展開するものでありながら同一であるところのなにかが,なければならない.この同一なものが実体と考えられる.

しかし,ヘーゲルは,真なものはたんなる実体ではないと言う,実体であるばかりではなく主体でもなければならないと言う.主体とは,かれによれば,生動的な(無活動・無展開ではない)実体,すなわち,「自己自身を定立する運動」,「自分の他者となりながら,そうなることを自己自身と媒介する運動」であるかぎりにおいて「真実に現実的であるところの存在」である.主体とはこのような,自己否定的に自己を展開するところの実体である.

ヘーゲルにおいて,絶対者は,それ自身としても,またその展開のどの段階においても,基本的には精神的活動をおこなう存在であり,主体という用語には精神的な活動をする主体という意味が合わせ含まれてはいる.しかし,いま規定したような内容のものとしては,今日,ふつう,認識主観とか実践主体とか言われたり,あるいはとくに主体性論で言われたりするさいのような,個々の主観のなかでのみ抽象的に自由な人間実存という意味を少しも含んでいない.

本来,実体も主体も,諸属性を受けいれ,諸属性の転化をつうじて存続する基体という意味のものとしては,ギジシア哲学における-----の訳語であり,これはどこまでも客観的なものである.それゆえ,用語の混乱が生じないかぎりにおいて,われわれは,自己否定的に自己を展開するところの実体としての,客観的な主体を,自己運動の過程のだかに把握することができよう.

 なお,これとの関連で,ヘーゲルはしばしば自己関係という用語を使う.自己関係とは自分を区別しながらその区別と統一している関係である.この意味では,たとえば,有機的な構成をもっているものや自己運動しているものは自己関係にある,といえよう.一般に系とその過程は,構造としても展開としても,自己関係であるといえよう.ヘーゲルによれば,自己関係は否定の否定である.なぜなら,そこには,区別の措定(否定)とそのことの揚棄(否定)とが含まれているからである.自己関係するものが統体と言われる.
(岩崎・宮原著「現代自然科学と唯物弁証法」大月書店 p33-39)

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◎「〈自然的・歴史的・精神的世界の全体は、一つの過程であり、すなわち、絶えず運動し変化し転形し発展しているものである〉、ということが示され、この運動と発展との内的連関を立証しようとする努力が」と。

ヘーゲルの哲学に出くわした時またこの学習通信≠読んでみてください。だんだん分かるかもしれません。

※「ギジシア哲学における----の訳語」の----はギリシャ語のスペルになっています。入力の方法が分かり次第補強します。