学習通信050323
◎「この貧富の格差の増大ぶり」……。

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 労働者は富を生産すればするほど、彼の生産が力と広がりを増せば増すほど、それだけ貧しくなる。労働者は商品を作れば作るほど、それだけ安価な商品となる。物の世界の価値化に正比例して人間の世界の非価値化は進む。労働はただ商品を生産するだけではない。それはそれ自身と労働者を一つの商品として生産し、しかもそれは、労働が総じて商品を生産する、その割合に応じてそういうものとして生産するのである。

 この事実は何をあらわしているのか。それは、労働が生産するところの対象、労働の産物は労働にたいして一つの異物として、生産者からは独立な一つの力として対峙してくるということにほかならない。労働の産物はある対象のうちに定着し、物的となった労働であり、労働の対象化である。労働の現実化はそれの対象化である。労働のこの現実化は国民経済的状態においては労働者の現実性の喪失、対象化は対象の喪失および対象への隷属、そして獲得は疎外として、手放すこととしてあらわれる。

 労働の現実化は、労働者が餓死するほどにまで現実性を失わされるほどの現実性の喪失としてあらわれる。対象化は、労働者がたんに生活に最も必要不可欠な物のみならず、また労働対象をも奪われているほどの対象の喪失としてあらわれる。それどころか労働そのものは、労働者が精根を尽くして努力し、しかも不規則きわまる中断を伴ってでしか手に入れることができないような対象となる。

対象の獲得は、労働者が対象を生産すればするほど、所有しうるものはますます少なくなるし、彼の産物であるところの資本の支配下にますます落ちていくほどの疎外としてあらわれる。
(マルクス著「経済学・哲学手稿」マルクス・エンゲルス8巻選集@ 大月書店 p71-72)

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資本主義の矛盾──貧富の格差の増大

 社会主義的変革の中身に入る前に、社会主義に向かって前進する必然性がどこにあるのか、という問題を、ここで考えてみたい、と思います。これは、私たちが共産主義者だから自分の理想の実現を願っている≠ニいうだけの、主観的なものではけっしてありません。私は、二一世紀の世界と日本の現実そのもののなかに、人間社会のそういう前進を必然とする条件が成熟しつつあることを、確信しています。

 もともと、資本主義社会を徹底的に研究して、この社会の体制そのもののなかに、人びとを社会主義革命に向かわせる必然性が存在することを、「科学の目」で証明したのは、マルクスでした。マルクスは、『資本論』での研究をそのことの証明にあてたのですが、そのさい、彼が指摘したのは、大きくいって、次の二つの問題でした。

 一つは、資本主義社会の推進力をなす利潤第一主義が、一方では、社会的生産の担い手である労働者階級にたいする搾取と抑圧の増大、他方では、資本家階級、とくに巨大資本家の手中への富の集中、この二つの極への社会の分化を必然の傾向としており、貧富の社会的な格差の増大にもとづく社会的な矛盾の成熟が避けられないことです。

 もう一つは、資本主義社会では、生産力の不断の増大が経済の法則となりますが、その生産力の管理・運営は自らの利潤を追求する個々の資本の自分勝手な行動にゆだねられているために、恐慌・不況に周期的に襲われるという、体制の根本にかかわる致命的な病気からまぬかれえないことです。

 これらの矛盾は、一九世紀から二〇世紀へ、二〇世紀から二一世紀へと、世紀を新たにするごとに、いよいよ鋭い形態をとるようになってきました。そして、二一世紀を迎えて、いよいよ、資本主義制度の存続の是非が大規模に問われるような段階に入ってきたと、私たちは考えています。

 一九九〇年代のはじめに、ソ連・東欧の旧体制が崩壊したとき、一部に「資本主義万歳」論が盛んにとなえられたことがありましたが、世界の現実の状況は、資本主義体制にとって、大喜びできるほど、安易なものではありませんでした。間もなく、次に崩壊するのは、資本主義では
ないか≠ニいった危機感が、それ以上の強さをもって沸き上がってきたのです。

 綱領は、第三章の世界論の第九節の最初の部分で、この角度から見た現代の世界の見方を、簡潔な文章ですが、次のようにまとめています。


「ソ連などの解体は、資本主義の優位性を示すものとはならなかった。巨大に発達した生産 力を制御できないという資本主義の矛盾は、現在、広範な人民諸階層の状態の悪化、貧富の格差の拡大、くりかえす不況と大量失業、国境を越えた金融投機の横行、環境条件の地球的規模での破壊、植民地支配の負の遺産の重大さ、アジア・中東・アフリカ・ラテンアメリカの多くの国ぐにでの貧困の増大(南北間題)など、かつてない大きな規模と鋭さをもって現われている」。

 まず、「貧富の格差の増大」の間題ですが、国際労働機関(ILO)の事務局長が二〇〇三年に発表した報告書でも、次のような事実が指摘されています。

「世界の人口のうち、富裕層を形成する二〇%と貧困層をつくる二〇%とを比較した場合、収入の格差は広がり続けている。このニグループの収入格差は一九六〇年で30対1≠セっ たのが、九九年には74対l≠ニ二倍以上に広がった」。

「世界の人口の約半分に相当する三〇億人は一日当たりニドル(約三三四円)以下での生活を強いられ、さらにそのうちの一〇億人は一日一ドル以下で生計を立てざるをえない状況にあ る」。

 前半の文章は、少し解説を要するでしょう。貧富の格差を数字的に示すためによくとられる方法に、調査の対象になる人びとを所得の高い順に、第1分位から第V分位まで、同じ人数ごとの五つの階層(分位)に分けて、それぞれの分位の平均所得を比較するという方式があります。第1分位がいちばん所得の高い層(富裕層)、第V分位がいちばん低い層(貧困層)になるわけで、第1分位の平均所得と第V分位の平均所得との割合が、社会的な貧富の格差の指標になるのです。このやり方だと、同じ対象について、違った年代での格差の比較もできるし、違った国の格差の比較もできます。

 いま紹介したILOの報告は、世界全体の所得格差を間題にしたものですが、一九六〇年には30対1だった富裕層(第1分位)と貧困層(第V分位)との所得格差が、約四十年後の一九九九年には74対1に、つまり二倍以上に広がったというのですから、現代の世界では、貧富の格差がものすごい勢いで拡大しつつある、という事実が、きわめてはっきりした数字で現われています。

 資本主義経済では、第二次世界大戦後の一時期、国家の介入を要求するケインズ経済学の後押しもあって、社会保障制度がかなり発達し、貧富の格差の拡大の傾向がある程度なだらかになる時期もありました。しかし、「新自由主義」の名で市場万能主義が横行しはじめるなかで、資本主義の害悪がふたたびむきだしの形で広がりはじめたのです。

 いま見たのは、世界全体を対象にした数字で、ここに示された格差のなかには、アメリカの大金持ちとアフリカの一番まずしい国の飢餓線上の人びとの格差も含まれていますが、同じやり方で、個々の資本主義国についても、その国の内部での社会的格差をはかることができます。

 まず、アメリカというもっとも富んだ資本主義国の社会的格差をとってみましょう。この国について、同じ方式で貧富の格差を調べた数字があります。富裕層(第1分位)と貧困層(第V分位)との格差は、一九八〇年の7・8倍から、一九九〇年の9・6倍、二〇〇一年の11・4倍へと、着実かつ急速な広がりを見せています。

 日本はどうか。厚生省(現厚生労働省)の『所得再分配調査』から計算してみますと、同じ格差が、一九八一年の5・6倍から、一九九〇年の8・2倍、一九九九年の9・2倍へと、広がっています。日本は、所得格差の少ない国だということが、さも常識のように言われることがよくあるのですが、実態は大違いです。一九八〇年には、アメリカの三分の二ぐらいの格差だったものが、急テンポでアメリカの状況に近づいている様子が、ここにはよく出ています。

 アメリカやイギリスの経済学者たちが、アメリカ中心の資本主義体制がかかえる危機的な要因としていちばん痛切に感じているのが、この貧富の格差の増大ぶりで、彼らは、そこに、マルクスの資本主義批判の的確さの生きた例証があると、その致命的な危険性をくりかえし警告しています。
(不破哲三著「新・日本共産党綱領を読む」新日本出版社 p354-358)

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◎「労働の現実化は、労働者が餓死するほどにまで現実性を失わされるほどの現実性の喪失としてあらわれる」と。