学習通信050328
◎「このときはじめて……天皇の肉声を聞いた」

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 昭和一六年一二月八日の日米開戦から三年八ヵ月におよんだ戦乱は、日本のポツダム宣言受諾によって終結した。あとには、大都市を中心に、おびただしい瓦礫の山が残った。

 この年、日本にやってきたアメリカのジャーナリスト、マーク・ゲインは、『ニッポン日記』にこう記している。「横浜が近づくにつれて、日本の損害の重大さがはっきりしてきた。見渡す限り一面の廃墟だった。ボロボロの着物を着た人たちは取乱した様子だった。……ここはまさに人間がこしらえ上げた沙漠だった。何もかも、みにくく荒れ果て、崩壊した煉瓦と漆喰から立ちのぼるほこりの中にかすんでいた」と。

 敗戦後の焼け跡に立った人びとを、まずおそったものは、精神的な虚脱状態と不思議な解放感だった。こうした状況は、おそらく、われわれ日本人がはじめて経験したものでもあったのであろう。

 人びとは、きのうまでの秩序や価値観が、音たてて崩壊していくのを目の当たりにしたのである。「一億一心」は、まるでうそのように消え去り、それにかわって、国民に強いられたのは「ー億総懺悔」だった。

 しかし、未曾有の敗戦を喫した国民が、感慨にふける時間は、そう長くはつづかなかったた。はげしいインフレと食糧難が人びとをおそったからである。この当時、「生きる」ことは、即ち「食べる」ことを意味した。すべてのことが「食」につながる時代だったのである。乏しい配給にたよっていたのでは、とても飢えを満たすことができず、いきおい、ヤミの食糧を求めて、人びとは「買い出し」に走った。ヤミを拒否した人は、死を迎える以外になかった。

 こうした人びとの「食」の欲求を満たすためにヽ焼け跡にはヽいたるところに「青空市場」とも呼ばれた「自由市場」とも呼ばれた「ヤミ市」が、雨後の筍のように立ち並んだ。道端に新聞紙を敷いて品物をならべた簡単なものから、露店をきちんと整理した簡易マーケットまで、当時のヤミ屋、露天商は、東京だけでも、その数七万六〇〇〇人にたっしたという。

 そして、こうした食糧難が解消に向うのは、生産上昇によって少しずつモノが出回り、主要物資の統制が解除された昭和二四、五年頃からである。

 一方、瓦礫の山をかきわけて進駐を開始した占領軍は、つぎつぎと、戦後目本の民主化政策を実施した。「戦犯」の逮捕、軍国主義者の公職追放、財閥解体などとならんで行われた治安維持法など人権抑圧法規の廃止、婦人参政権の実施、労働組合結成の奨励、農地改革などがそれである。

 いわば占領軍によってあたえられたものとはいえ、こうした一連の民主化政策の結果、まずラジオ放送が、占領政策への批判は厳禁という条件つきながら、通常の番組編成に戻り、NHKラジオからは、『のど自慢素人音楽会』『街頭録音』『話の泉』『鐘の鳴る丘』『日曜娯楽版』『二十の扉』などの人気番組が登場した。

 また、戦後の新聞も、昭和二〇年秋には、発行の自由が認められ、さまざまな抑制が解かれたのを機に、全国に二五〇余の新聞社が出現した。しかし、こちらの方は、用紙事情が極端に悪く、用紙難、スペース難の時代がしばらくつづいた。新聞用紙の統制が全面的に解除され、新聞の価格も同時に自由化されたのは二六年五月になってからだった。実に一四年ぶりの統制解除である。

 めざましいまでの雑誌の創刊、復刊が見られたのもこの時期であった。 またこの時期については、二五年六月に勃発した朝鮮戦争についても触れておかなければならないだろう。

 二四年に来日したGHQ顧問ドッジ公使の実施したデフレ政策によって、さしもの悪性インフレも収束に向ったものの、日本経済は深刻な不況に悩まされていた。こうした状況に活をいれたのが、挑戦戦争によて発生した国連軍による特別軍需、つまり「特需」だったのである。とくに、この「特需」によって繊維製品、鉄・非鉄金属の関連業界が潤った。いわゆる「糸ヘん・金へん景気」である。

 こうして、日本経済は、いくつもの紆余曲折をへながらも、まがりなりにも戦後復興、経済再建への道を歩き始める。


世界の聲を聴け──昭和20年

 昭和二〇年八月一五日正午、天皇は、ラジオ放送をつうじて、日本が「ポツダム宣言」を無条件で受諾したことを告げた。世にいう「玉音放送」である。人びとは、このときはじめて、電波を通してではあったが、日本の敗戦を伝える天皇の肉声を聞いたのである。

 当時、九州の片田舎に疎開していた筆者は、その日が、ぬけるような青空の暑い一日であったこと、粗末な集会場に集められた大人たちが、ことの重大さをはかりかね、虚脱した表情でなにごとかを囁きあっていたことなどを、いまでも鮮明に覚えている。

 それまで真実を知らされていなかった人びとにとって、この放送は、大きな衝撃であったにちがいない。人びとは、立場の相違をこえ、ふかい感慨をもって、「敗戦」の事実を受け止めたのであろう。

 作家の高見順は『敗戦日記』に書いている。「──遂に敗けたのだ。戦いに破れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。列日の下に敗戦を知らされた。輝かしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」と。

 敗戦を迎えるまで、日本は、完全な言論統制の下にあった。軍部の厳しい検閲を経た情報だけが、世の中に流されていた。特に、戦況についての報道は、すべてが「大本営」の発表か、その許可を得たものにかぎられていたのである。天気予報でさえ、戦時中は、軍の機密事項として、日米開戦と同時に新聞やラジオから消えていた。

 ラジオの天気予報が再開されたのは、敗戦の七日後の八月二二日、新聞は、翌二三日の紙面からだった。なんと、禁止されてから、三年八か月ぶりの復活である。これは、八月二〇日の「灯火管制」解除などとならんで、長かった戦争の終わりを象徴するもののひとつといっていいだろう。

 一方、戦後日本の占領政策の最高決定機関であった連合国軍総司令部(GHQ)は、東京進駐以来、矢つぎ早に、さまざまな面での民主化政策を実施した。その中のひとつに、ラジオ放送の充実があった。GHQは、民主化を徹底させる手段として、ラジオ放送の果たす役割を重視したのである。

 九月一日には、早くも放送電波管制が解除され、同八日には、オールウェーブ受信機の使用が認められた。NHKからは、ニュースのほかに、詩の朗読や歌番組、放送劇などが放送され始めた。

 戦時中「敵性音楽」として禁止されていたジャズやダンス音楽なども復活、九月二三日に放送された『日米放送音楽会』には、米軍第二三三吹奏隊が出演して話題を呼んだ。

 「世界の聲を聴け」が一一月二三日の読売新聞に登場したのは、そんな背景の中でであった。

 「世界の聲を聴け」という命令口調は、広告コピーとしては異例で、いかにもオーバーである。しかし、だからこそここには、世界の声から遮断され、天気予報さえ禁止されていた暗い時代からの解放の喜びと、ある種の気負いが溢れているといえるだろう。

 当時の人びとは、いったいどんな気持ちでこの広告を見たのだろう。つい数か月前までは、「挙(こぞ)って国防、揃ってラヂオ」、「鬼畜米英」、「見えざる敵を防げ」などといった標語にかこまれていた生活だったのである。これからは、「大本営発表」以外の「世界の聲」を自由に聞ける──、そんな思いをこの広告は、読むものにあたえてくれたに相違ない。

 そして、「トーア全波受信機」という、この「全波」という表示は、いかにも、先のオールウェーブ受信機解禁を意識しているようで、微笑ましい。
(深川英雄著「キャッチフレーズの戦後史」岩波新書 p2-7)

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悪い初夢  福田静夫(ふくだ しずお)

 コタッで本を読みながら、ついうつらうつらしていて、六〇年前、名古屋で夜間空襲を受けたときの夢を見た。焼夷弾を落とされて家から逃げ出すと、その行き先を照明弾が真昼のように照らし出し、避難する人波めがけて爆弾が落ちてくるのである。火焔の照り返しで真っ赤に機体を染めたB29の大編隊が爆撃を加える逃げ道なしの状況……そこで幸いに目が覚めた。悪い初夢だった。空襲警報のサイレンが鳴り響いていると思ったのは、消防署のサイレンだった。JRの駅近くのビルのボヤだが、間もなく鎮火した。

 やれやれ、孫の年齢だった頃の恐怖が六〇年後のいまになって夢によみがえるとは! 徒手空拳でむざむざと死の前にたたされた絶望感。こんな形で人間を殺すことが許されてたまるかという不条理感。うまく説明のつかない傷ついた感情が、ふと夢となったのだろう。

 今の私なら、この傷ついた感情は、アメリカの空爆の思想から説明できるようだ。まず、日本は総動員体制で戦争しているのだから、「日本に民間人はいない」という無差別攻撃の理屈だ。この理屈は、B29が都市空襲によって、東京・横浜などの都市市民すべてを「焼き殺そう」としてきた以上、「どうして原爆の方が悪いなどといえるのか」という殺戮(さつりく)の量化の論理に、やすやすと転化する(ロナルド・タカギ『アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか』草思社)。

すでに早く一九三六年以来、日本海軍機が南京をはじめとする中国の無防備都市を爆撃(夜間爆撃を含む)していた先例があり(笠原十九司『南京事件』岩波新書)、四〇年代にはドイツによるロンドン空襲とイギリスによる報復攻撃、とりわけ四五年二月の連合軍によるドレスデン攻撃がおこなわれたというのは、免罪の口実になる。それに人種的偏見が付け加わった。アメリカ軍は、南方作戦では、鬼畜米英という日本の敵イメージに対抗して、日本人=ネズミ・サルなどのシンボル操作を行い、日本軍は「火焔放射器」で消毒するべき悪疫とみなすようになった(ジョン・ダワー『容赦なき戦争』平凡社)。

日本も責任がないと言えないこうした理由の他に、トルーマン大統領は、日本の本土決戦にはアメリカ軍の死傷者数が五〇〜一〇〇万になると過大に見積もり、虚偽の大犠牲を回避するという口実で、原爆の投下を正当化した(M・ハーウイット『拒絶された原爆展』みすず書房)。戦争とウソの情報操作とは、ここでも結びついている。

 味方の犠牲を最小に、そして敵の犠牲を最大にという殺傷効果の論理は、とくにハイテク技術の進歩とむすびついたRMAによって、ベトナム戦争・湾岸戦争以降のアメリカの戦争思想の指導的な位置に着く。暗視装置や誘導装置のついた武器は、圧倒的な戦力で戦争をゲーム化し、兵士の軍事的・道徳的ストレスを軽減するが、戦争そのものの反文明性と道徳的な腐敗を最大化することになる。そのことを典型的に示しているのが、今日のいわゆるネオコンの思想である。

味方の死者数だけに関心を集中して、敵や一般市民の死傷数に無関心、法的正当性を顧慮せず、軍事的・経済的な優位を確保することに腐心し、危険と判断する対抗勢力には先制攻撃をも辞さない。この考え方は、国連の拘束を離れ、国際法に違反し、虚偽の脅威を日実にして先制攻撃に踏み切る、文化財と石油を略奪し、拘束したフセインをネズミに見立て、ファルージャを第二のゲルニカにするというイラク戦争の一連の戦争犯罪に具体化された。こうしてアメリカは、東京裁判で日本の戦争犯罪を裁いた立場から、戦争犯罪の被告の立場に移った。アメリカによって処刑されたA級戦犯を合祀した靖国参拝に小泉首相が固執しつつ、かつブッシュ大統領の忠犬ポチでもありうるわけである。

 それにしてもひどいアメリカ型グローバリゼーション下の格差化された世界と日本の生活破壊の現状だ。インド洋地震・津波や中越地震の被災者救援といった国際的・国内的な自然災害対策に加えて、例年三万人を超える自殺者の防止、若者の雇用の開拓、介護保険・年金など、国民生活の安全ネットワークの再建が急務となっている。憲法の改定より、その実現。平和なくして福祉なし。この「いのち」の条理に、改めて私の今年の本当の初夢をかけることにしよう。(哲学・日本福祉大学名誉教授)
(月刊経済 2005.3月号)

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アメリカの全面占領の時代をどうとらえるか

全面占領とは、どんな体制だったか?

 日本が連合国のポツダム宣言を受諾して降伏したのは一九四五年八月一五日、その月のうちに、連合国を代表してアメリカ軍が日本に進駐し、この占領軍が日本の全権力をにぎる全面占領の時代が始まりました。この時代は、この時から、対日講和条約(一九五一年九月調印)が発効する一九五二年四月まで、約七年間続くことになります。

 この占領軍権力というのは、文字通りの絶対権力でした。日本の政府は存続しましたし、議会もありましたが、占領軍は、その上に立つ最高権力で、国民生活も全面的にその管理と支配のもとにおかれました。その支配権限の大きさは、戦前の天皇制以上のものがあり、国民にたいする威圧も、この権力が日本が経験した最初の異民族支配だったこととも結びついて、圧倒的なものがありました。全国に占領軍である米軍部隊が配置されており、占領軍の方針に反する行為があると、「占領政策違反」ということで、ただちに追捕され、軍法会議にかけられ、重い罪のものは収容所に送られたものです。

「占領政策違反」というこの言葉は、占領支配の強烈さを象徴する言葉として、国民のあいだで、もっとも広く知られた言葉の一つになりました。日常生活のなかでも、「エム・ピー(MP)」と呼ばれるアメリカの憲兵が、国民のあいだで活動して、恐れられたものでした。

 言論や通信にたいする検閲体制も、そのきびしさにおいて、戦時下の統制をはるかに超えたものでした。出版物は、すべて事前検閲です。しかも、検閲の痕跡をまったく残さないことが要求されたのです。どういうことかというと、戦前の検閲では、当局の気に入らない文章は、削除を指示されるか、あるいは出版側が不許可を予想してあらかじめ削除してから検閲に出したものです。

そして、出版された本や雑誌には、文章のなかの間題の単語が「××」で置き換えられたり、「何行削除」と記されたりという形で、検閲の傷痕が刻みつけられていたものでした。読者は、それで、検閲で削除されたことを知り、削除された単語や文章が何だったのか、想像する自由は認められていたのです。

 ところが、アメリカ占領軍の検閲は違っていました。雑誌でも新聞でも、検閲して、気に入らないところは削除することを命令するが、検閲の痕跡を残すことを許さないのです。削除が要求されたら、その部分を削ったあと、無難な文章でつなぎ、削除などなかったような体裁で発行しなければならなかったのです。わが党の新聞や雑誌でも、もちろん、その例外ではありませんでした。

 手紙などの通信にたいする検閲は、もっと大っぴらでした。友人から手紙が来ると、封筒の下側が切ってあって、そこを「占領軍の検閲済」と英語で印刷したセロテープで閉じ直してある、こういう手紙を、私たちは、いつももらっていました。個人の親書についても、「通信の秘密」などは、まったく存在しなかったのです。

 こういう体制が、占領体制でした。日本政府の機構はあって行政活動にあたっているが、その上に対応するアメリカ軍の占領機構がおかれて政府の全活動を監督する、必要な場合は、占領軍が直接乗り出して、日本国民にたいする統治活動をする。この状況を表現するのに、「間接統治」という言葉がよく使われますが、実態は、この言葉から想像されるような生易しいものではなかったのです。
(不破哲三著「新・日本共産党綱領を読む」新日本出版社 p93-95)

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◎「その支配権限の大きさは、戦前の天皇制以上のものがあり、国民にたいする威圧も、この権力が日本が経験した最初の異民族支配だったこととも結びついて、圧倒的なもの」と。

「占領政策違反」……