学習通信050329
◎「日々を幸せに過ごすためには当然の処世述」……。

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「激励」を「非難」と受け取る若者たち

 私の世代までは、職場や学校といった場で、「思ってもみなかったひどいこと」を言われる、という経験は滅多にないことだった。つまり、仕事等の場面で遭遇するたいていの「ひどいこと」とは、その仕事等に携わるのならば当然に予想されていたという意味で、「思っていた通りのひどいこと」もしくは「思っていたほどではないひどいこと」だった、というわけである。

ゆえに、仕事の場面で、それまで信頼していた人から、「一見、ひどいこと」=「要するに、厳しいこと」を言葉や態度でつきつけられたとしても、その人に対して、「あんなひどいことを言う人だったなんて……裏切られた!」といった思いを抱くこともなかった。「正真正銘のひどいことを言う人」=「根っから性悪な人」なのであり、そういった人の言動については、それはそれで事前に予想がついたからだ。

 だが、「近ごろの若いもん」は違う。「根っから性悪な人」が言うことも、「つらくて苦しい、だけど幸せ」といった思いが味わえるであろう経験をさせてやろうとしている人が言うことも、すべて等しく「ひどいこと」として扱ってしまうのが常である。

 「ひどいこと」(=実は単に「厳しいこと」)の受け取られ方にも通じるのだが、より上の世代から見た場合の「近ごろの若いもん」を特徴づける事実として、「もっとがんばってほしい!」という支援の声を、「なんでもっとがんばらないの?」という非難の声としか受け取れない、という点がある。

 いやまあ確かに、多少の非難は入っている。(私たちの頃と違って、今の子たちはこんなに恵まれてるくせに……!)という、ひがみもあることは認める。しかし、私の場合、「どうでもいい」と思ってる相手に向かって、「今のままじやぁダメだ!」という説得をする、なんていう「余計なエネルギー」を必要とする行為など、絶対にするわけがないのである(「だったら、さっさとやめれば?」、とかは言うだろうけどさ)。

 にもかかわらず、「近ごろの若いもん」は、「ここはこうしなさい、絶対にそうしたほうが、今よりもいい結果につながるよ」、という言葉を、「今のあなたは全然ダメ!」という非難にしか受け取ってくれないのである。

 つまり、「近ごろの若いもん」の価値観について整理してみると、次のようになる。

「自分を非難しない人」=「いいことしか言わない人」=「自分に好意を持っている人」=「味方」=「関わり合いになりたい人」

「自分を叱咤する人」=「自分を非難する人」=「自分に敵意を持っている人」=「敵」=「関わり合いになりたくない人」
というわけである。

 「女のくせに」つっぱって働いてきた世代の一人としては、「近ごろの若いもん」を見ていると、(この程度のことで……)と思うことはままある。とりわけ「女の子」に対しては、自身やその周囲にいた「元女の子」と比べてしまうため、「男の子」に対して以上に点数のつけ方が辛くなってしまう。だが、そのことを心に留めつつ、より冷静に見ていくうちに、「これらの特徴は、何も女の子だけに限らない、男女問わずにあてはまることである」、ということに気付いてしまう。

 結果、ちょっと叱咤されるとめちやくちやへこんでしまう「近ごろの若いもん」に手を焼き、「データがあろうがなかろうが、団塊の世代が邪魔をしていようがいまいが、おまえらに働き口がないのはおまえら自身のせいじやあっ!」といった感情的な意見を述べる側にこそ、肩入れしたくなってしまうのである。

「がんばる」とはどういうことか

 実際、自分よりも若い人たちの悪口を言うことは楽しい。いつまでもこうしていたい気分ではある。が、事態はもはや、そういった次元の話をしているだけではすまないことになってしまっているらしい。なぜなら、「がんばること」=「事前に想像することができた類のしんどさだけを味わうこと」、こんなふうに思い込んでしまっている世代が社会人となったことで、「事前に想像することができた類のしんどさだけを味わうこと」以外のことができない人間が、世の中のマジョリティと化してしまっているからである。

 くどいようだが、「がんばる」「努力をする」ということは、「事前に想像することができた類のしんどさを味わうこと」だけではなく、「事前に想像することができなかった類のしんどさをも味わうこと」である。
 が、「近ごろの若いもん」には、このことがわかっていない。ということは、すなわち、「近ごろの若いもん」に欠けているものとは、「いずれ体験するであろうしんどさについて想像する力」だけではなく、「世の中には、事前に想像することができなかった類のしんどさが存在し得る」ということへの認識そのものである、と言えるのである。

 もう一度、蘭寿とむのコメントを振り返ってみよう。
「幸せ」=「嬉しかったり感動した時に感じるもの」
 これこそ、「『くるたのしい』を知る以前の蘭寿とむ」=「近ごろの若いもんのボリュームゾーン」が、普通に感じていることである。
 このことを、よりわかりやすく図式化していくとこうなる。

 すなわち、

「うれしい、楽しい、気持ちいい」=「幸せ」=「快」
  ↓↓
「悲しい、苦しい、つらい」=「不幸せ」=「不快」
  ↓↓
この世の中にはこれ以外の図式はありえない。

 これこそ、「近ごろの若いもん」が絶対的に信じている、人間の感情なのである。
 より上の世代にとって、人間の感情とは、「複雑怪奇」であって当たり前、のものだった。少なくとも、前記の図式を見せられれば、「えーっ、そんな単純には割り切れないんじゃないのー?」といった反応を見せるのが当たり前だったはずである。

 が、「近ごろの若いもん」は、人間の感情によってもたらされる「快・不快」について、実にシンプルな捉え方をしているように思う。パターン化されている、とも言えよう。

 そんな彼らにとって、「怒る」ということは、「負」の感情を抱くということであり、それはすなわち、「不快感を味わう」ということなのである。そんな事態は招きたくない、そう考える彼らが導き出す結論は何か。
 「決まっちゃったことに怒ってもしようがない」
 彼らは毎日をできるだけ快適に、幸せに過ごしたいと願っている。そんな彼らにとっては、「(たとえ怒るべき時であっても)怒らない」という生き方は、日々を幸せに過ごすためには当然の処世述なのである。
(荷宮和子著「若者はなぜ怒らなくなったのか」中央新書ラクレ p55-62)

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 実行できることを提案せよ、と人はたえずわたしにくりかえす。それは、みんながしていることをするようにと提案せよ、あるいは、とにかく現在ある悪いことと両立するなんらかのよいことを提案せよ、と言ってるようなものだ。

しかし、そういう計画は、ある種の問題においては、わたしの計画よりもはるかに空想的だ。そういう混ぜ合わせの計画では、よいものはそこなわれ、悪いものは改められないからだ。

よい方法を中途半端に採用するよりは、いままでの方法にそのまま従っていたほうがいい。人間にはそれだけ矛盾が少なくなる。人間は同時に反対の目標にむかって進むことはできないのだ。父親たち、そして母親たちよ、実行できることとはあなたがたが実行したいと思うことだ。わたしはあなたがたの意志にまで責任をもたなければならないのだろうか。
(ルソー著「エミール -上-」岩波新書 p20)

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◎「よい方法を中途半端に採用するよりは、いままでの方法にそのまま従っていたほうがいい。人間にはそれだけ矛盾が少なくなる。人間は同時に反対の目標にむかって進むことはできないのだ」と。