学習通信050330
◎「炭鉱のカナリヤ」……。
■━━━━━
「ピーター・パン現象」
永遠の少年?
「ピーター・パン人間」についての取り沙汰が、しばらく前からマスコミでブームになっている。「ピーター・パン現象」と呼ばれる。
ピーター・パンとは、J・M・バリーの作品に出てくる永遠の少年──いつまでも大人にならずなれず、なりたがらない少年。しかし、現実の少年はやがて少年ではなくなる。だからこそ生きた少年なのだ。いつまでたっても少年でありつづける少年──それは正常な少年ではない。事実、ピーター・パンは、「ボクは窓はいつも開いているものだと思って外へ飛びだし、何ヵ月も家を離れていた。それなのに、ある日もどってみたら、窓はしっかり横木まで渡されてるし、ボクのべッドには別の男の子が寝ていた。ママはボクのことなんか、きれいに忘れちやったのさ」という心の傷をもつ少年であった。
作品のなかのピーター・パンは、いつまでたっても齢をとらない。しかし、現実世界の人間は、そうはいかない。否応なしに肉体の齢だけはとる。だから、文字どおり少年のピーター・パンとならんで、二十代のピーター・パン、三十代、四十代、五十代のピーター・パンもいることになる。「ピーター・パン人間」とは、いつまでも大人として自立できない人間、大人として自立することを拒否する人間の代名詞である。
「ピーター・パン・シンドローム」
そういう「ピーター・パン人間」がアメリカ人、とくにその男性の間にふえている、と指摘したのが、ダン・カイリーの『ピーター・パン・シンドローム』であった。
カイリーはこの本で、ピーター・パン人間の出現を一種の病理現象としてとらえている。そして、恋人が、夫が、息子が、この症候群にかかっていないかどうか、かかっていたらどうすればいいか、という、その発見と治療のためのノウハウを女性にむかって示そうとしている。
その限りにおいて、これは一種の実用書である。ただし、日本でもひろく実用に耐えうるかどうかは疑わしい。次は、ある青年から私がもらった手紙の一節だが──
「僕らはピーター・パンだといわれるかもしれない。でも『ピーター・パン・シンドローム』を読んで思ったのですが、こんな人間は日本人にはあまりいないだろうなということです。つまり、ピーター・パン症にかかっている若者はそんなにはいない。シンドロームと呼べるほどはいない。そう感じたんです。
理由は、まず第一に、ピーター・パン症の根元はヒーロー主義だということです。つまり、世の中の主役が自分だと思いこんでいる。マイケル=ジャクソンをピーター・パン症だという見方があるけれど、僕は違うと思う。そもそもピーター・パン症は、出来るはずのない成功を望むのであり、自分の実力をけっしてリアルに見ない病気なのだから。気狂いじみたムダな努力はその最たるものだと思う。
それから次に、ピーター・パンにとても大時代なものを感じる。僕は彼らがきっと、いまでもアメリカン・ドリームを追いかけているんだなと考えるんだけど、いうなればとてつもなく資本主義的なんです。一攫千金を考えているように思う。それもけっして貧困の反動ではなく、一種のゲーム的なものとして。日本人でそんな余裕のある人なんて、そんなにいないと思う。日本人は中流意識が強いけれど、自分の子どもまで中流でいさせることができるような裕福な中流なんてそうないから。ピーター・パン・シンドロームを読むと、そんな家庭がアメリカにはあるんだなと思う」
なかなか鋭い、と私は思う。
「ピーター・パン現象」の特異性
にもかかわらずカイリーのこの本が、わが国での「ピー・ター・パン現象」のひき金となった。小此木啓吾氏によるその訳本が、いま売れに売れているらしい。出版社は『微笑』の発売元の祥伝社、訳出のイニシアチブをとったのも同社の方であったというが、訳書出版の以前から、マスコミでしきりに話題にされていた。
小此木氏自身も指摘していることだが、わが国での「ピーター・パン現象」は、カイリーの本の先に述べたような趣旨とはかなりずれたところでひろがっているように思われる。すなわちそれは、ピーター・パン人間を新しい人間としてむしろ積極的におしだそうとするもののようである。
その触媒役をつとめたもののーつとしては、皮肉なことだが、小此木氏自身の「モラトリアム人間」論をあげないわけにいかない。そこへさらに「浅田現象」が重なってきたのだった。
どこにアイデンティティを求めるか
「モラトリアム人間」とは「アイデンティティ人間」に対するものである。「アイデンティティ人問」とは、自分のよりどころや目標、自分を託するものをもっている人間をいう。「私は**主義者として生きる」「私は**を生涯の仕事とする」「私は**を一生の伴侶としてえらぶ」というぐあいに。これに対して「モラトリアム人間」とは、どこに自分の足をつけ、何に自分を託するか、その決定を先へ先へとひきのばしている人間のこと。「モラトリアム人間」と「ピーター・パン人間」とは、非常によく重なりあうだろう。
小此木氏の「モラトリアム人間」論も、そもそもは氏が精神分析医としての仕事にたずさわるなかからえられてきたものであった。すなわち、そのように類型化するにふさわしい心理構造が人びとのなかにひろくいきわたっているらしいことを氏は見出したのであり、現代社会そのものがそのような心理構造を否応なしに生みだしつつある、という認識を表明したのであった。
それはあくまでも現象の客観的な分析で、何らの価値判断をもともなうものではなかった、と氏は述べている。しかし、そうした自分の意図をこえて「モラトリアム人間」論はマスコミによりひとり歩みさせられていったむきがある、と。(「浅田彰現象≠ニ私」−ブレジデント社『浅田彰』所収)が、このような「ひとり歩み」は、氏自身の活動をもとらえていなかったろうか。「モラトリアム人間というのが、つまり僕たちのアイデンティティなんですね」といって納得する青年たちに出あうようになったことを氏は書いているが、この青年たちを氏の誤解者ということはむずかしいだろう。
氏は「アイデンティティ人間」の生き方を「アレカ・コレカ型」と特徴づけ、これに対する「モラトリアム人間」のそれを「アレモ・コレモ型」と特徴づけながら、これからの社会では後者の方が生きやすいだろうとも述べている。(『人間の読み方、つかみ方』PHP研究所)──同じことを浅田氏は浅田氏流に「パラノ型」から「スキゾ型」へ、と表現したのであった。
だが、「アイデンティティをもたないことがアイデンティティだ」というようなアイデンティティとは何であろうか。それは無思想という思想、自己を喪失した自己のたぐいであろう。小此木氏は「モラトリアム人間」の心理構造の特徴を、社会化されないエゴイズム的な自己愛に見いだし、その典型が「ミーイズム」であるとする。そうした生き方がいちばん適合的な社会とは、解体しつつある人間の社会にほかなるまい。それがこれからの社会であるのだろうか。
私たちは私たちのアイデンティティをこれとは異なる方向に求めねばならないだろう──もし私たちが自己の解体、人間の解体、人間社会の解体を欲しないならば。(1985)
(高田求著「新・人生論ノート PARTU」 新日本出版社 p42-47)
■━━━━━
楽しむ
楽しむことに関して、今の若者はとても貪欲だ。レジャーやデートのときに楽しみたい、と思うのは当然だが、学校や職場でも堂々とそう口にする若者がいることに驚く大人は多いだろう。少子化で受験生が減っている大学ではいち早くその傾向を察知し、講義に芸能人を招いたり海外研修をカリキュラムに組み入れたりし、「大学のレジャーランド化」と心ある大人たちから批判されている。
しかし、これはふつうの気楽な若者だけに限った話ではない。あるスポーツキャスターが教えてくれたのだが、最近のオリンピック選手は「がんばって、と言われたくない。楽しんできて、と言ってほしい」とよく言うそうだ。そういえば、二十代で当選した若手議員は「国会を楽しんできます」とも発言していた。オリンピック選手、国会議員というまさに国の代表≠フ立場にある若者までが「楽しみたい」と思っているのだとしたら、ふつうの若者がそう思うのはむしろ当然と言えるだろう。
それにしても、オリンピック選手にしても国会議員にしても、そうなるためには相当な努力が必要なはず。そこまでして目標を達成したのに、どうしてみんなと同じように「楽しみたい」などと思うのだろうか。本当にただ「楽しみたい」のなら、苦労などせずに最初からテーマパークに行ったりおいしいものを食べたりして楽しめばよかったはずなのに……。
おそらく、今の若者にとって「楽しむ」とは、単純に「楽をする」こととはかなり違うのだろう。「楽をする」とは、余計なストレスやプレッシャー、厳しさから解放されてダラダラするということだ。それは、若者たちにとっては少しも楽しめることではないのだ。
高度消費社会の若者の中心的な人格、と精神科医たちが考えているものにボーダーライン人格と呼ばれているものがある。彼らは対人関係にしても自己イメージにしても、とにかく価値がひとつに定まらず、極端から極端のあいだをいつも激しく行き来している。まわりから見れば、上きげんになったり落ち込んだり、やさしくなったり腹を立てたり、と落ち着かないことこの上ないのだが、そういう彼らが必ず口にすることばが、「ああ、退屈だな。何かいいことないかな」。
外から「そんなに激しく揺れ動いていては退屈するヒマもないだろう」と見える姿と、本人が「何もない」と思う気持ちとの間には、大きなギャップがあるわけだ。そしてそういう彼らにとっては、その彼らなりの退屈をまぎらわせるために、どうやって「楽しいこと」を見つけるかは、ほとんど命がけの問題なのである。当然、その「楽しいこと」とは、単純にダラダラすることでも激動の対人関係を経験することでもない。苦労や努力をしてでも自分が心から満足し、不安定な自己評価を一定のものに落ち着かせてくれること、それが最も「楽しい」のだと思う。
そう考えれば、必死の練習でオリンピック出場権を得た若者が「楽しんできたい」と言うのも、理解できるはずだ。それは競技を娯楽としていいかげんにやりたい、という意味とは正反対、「これこそが自分なのだ」との実感を十分に味わい、思う存分、力を発揮したいということなのだろう。
「今年の冬はスキーかな」「いや、思い切って南の島でダイビングのライセンスを取ろうか」と真剣にレジャーの相談をしている若者たちにしても、本当に望んでいるのは「楽をして解放されたい」ということではなく、「一生懸命、楽しんで、自分のまわりに漂う慢性的な退屈、空虚感を取り払いたい」ということだと思う。だから、そうやって「楽しみたい」といつも口にする彼らに対して、単純に楽で面白おかしいカリキュラムを提供するだけの大学というのは、やはり若者の心を読み違えている気もする。本当に若者が「楽しめること」を探して与えてあげるのは、そんなに楽なことではない、ということだ。(2002)
(香山リカ著「若者の法則」岩波新書 p18-21)
■━━━━━
大人へのなりかた
はしがき
若者が大人になれないと言われることがある。社会常識がないとか、未熟になってきたとか言われたりする。これが本当かどうかは検証しなければならないが、本当だとしても、若者を責めたところで問題は解決しないように思われる。第一、こうした若者を育ててきたのは大人である。それに当の若者自身も、どのようにして大人になるのか、見通しが立たずに戸感っているようにも思われるからである。
ここで「戸惑っている」と書いたが、正確ではないかもしれない。若者にとって「大人になる」というのは、必ずしも当然のことでも自明のことでもないからである。「大人になる」ことは、社会生活を営むうえで必要だと考えるが、他方で子ども心を失い、型にはまっていくことのようにも考えている。大人になることは単純なことではないのである。
かつては就職や結婚が大人になる基準だった。しかし、今では就職はともかく、結婚は選択肢の一つだと言われる。これは「ライフコースの多様化」と呼ばれる現象の一つである。さまざまな生きかたが許される時代となり、したがって大人のなりかたにも多様なすじみちが考えられる。社会の変動が激しくなり、ライフコースが多様化してくると、生きかたのモデルはなくなり、それが、若者が大人になるための見通しをもちにくくさせていると考えられる。
しかし、私はこれだけの考察では十分ではないと考えている。ライフコースの多様化にしても、それは必ずしも個人が自由に選べるという意味での多様化ではない。たとえば、結婚したり、子どもをもったりするにしても、自由に選ぶことができるというよりは、現実にさまざまな社会的制約があったり、個人的な事情から、結果として結婚しなかったり、子どもをもたなかったりする場合も少なくない。このことから私は「ライフコースの個別化」と呼んでいる。一人ひとりにそれぞれに個人的事情があって、そうした生きかたになってしまっているという面があると思うからである。個人の選択の結果だといえば、そのとおりであるが、それはきわめて狭い選択肢のなかから、結果として選ばざるをえなかったものでもある。
しかも、それは誰のせいでもなく、自分自身のせいだとされている。若者が大人になれないのも若者のせいにされてしまう。若者もそう思いこまされているかもしれない。本書で考えてみたいのは、このことが本当かどうかということである。本当でないとするなら、何が間題なのかを考えてみたい。
他方で、「今どきの若者は」という言いかたは古代からなされてきたと言われる。いつの時代でも、大人は若者に眉をひそめてきたという。だから、今の若者が取り立てて問題ではないという。しかし、私はその言いかたは本当に古代からあったのだろうかと疑っている。たとえ、そうした記録があったとしても、それは今とはかなり違う文脈に違いない。実際、今日のような青年期という時期が誕生して、まだ一世紀ちょっとしか経っていないからである。
「今どきの若者は」という言いかたの問題点は、現代青年はみんな同じだとするステレオタイプな見かたになってしまっていることである。大人にもいろいろなひとがいるように、若者にもいろいろなひとがいる。それが見えなくなってしまう。それと、どうしても「昔の若者はよかった」と思われてしまう。昔の若者、つまり今の大人を見ても、それほど自立しているとは思えない。若者への期待が一方的な「押しつけ」となってしまうのである。
だからといって、若者は今も昔も変わらないというのでは、若者を理解できたことにならない。現代青年のかかえる困難さや固有の要求を考慮に入れることなしに、若者への支援を考えるうえで有効な手だてを講じることはできない。
若者が変わったという以上に、社会が変わってきていることは注意すべきだろう。大人のなかには気がつかないかたもいるかもしれない。すでに社会のなかにいて、それなりに軌道に乗っているからである。これから社会に出ようとしている若者には、今のような社会は大きな壁となって立ちはだかっているように見えることもありうる。
アメリカの社会学者のマイケル・シャナハンは、青年はその社会の危険を知らせる「炭鉱のカナリヤ」だという。炭鉱では有毒ガスが充ちてくるのを探知するためカナリヤを飼っている。人間よりも敏感で弱いカナリヤが真っ先に死んでいくのである。青年がおかしいというとき、すでに社会がそうとうおかしくなっているかもしれないのである。しかし、青年は単なるカナリヤではない。大人にとって気になる行動のなかにも、新しい可能性が含まれているかもしれない。新しい可能性は、一見するだけではわからない。しかも、青年ー人ひとりで、その様相は違ってくる。それゆえ、青年の行動を読み解くことが求められる。
本書は、青年心理学の視点から、現代青年の心理を理解しようとした試みである。(2003)
(白井利明著「大人へのなりかた」新日本出版社 p3-7)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「青年は単なるカナリヤではない。大人にとって気になる行動のなかにも、新しい可能性が含まれているかもしれない。新しい可能性は、一見するだけではわからない。しかも、青年ー人ひとりで、その様相は違ってくる。それゆえ、青年の行動を読み解くことが求められる」と。