学習通信050331
◎「紙幣が別の価値を持ち始めるのだ」……

■━━━━━

金で買う「幸せ」

「創価学会の日」の一九九六年五月三日。東京・八王子市の創価大学記念講堂で、池田名誉会長をけじめ、秋谷会長らが出席して記念式典が華やかに行われた。

 その日、創他大学にあるカフェテラス「ニューロワール」で池田を囲んでの会食があった。
 部外者から見ればただの食事会だが、池田同席となると意味が全く違ってくる。学会員にとってこれほど名誉な場所はない。そこで出されたお土産はもちろん、食事で使ったナプキン、マッチ箱、箸入れも出席者にとって生涯忘れられぬ記念品となる。
「これは先生と一緒に食事をした時の箸入れだ」

 ある会員が「記念品」を手に取り見せる至福の顔。何げない日用品でも、池田との共通体験を通すと「功徳」を帯びてくる。名誉会長から褒美としてもらった真新しい紙幣を、額に入れて自宅に飾っている会員も少なくない。紙幣が別の価値を持ち始めるのだ。

 その記念すべきニューロワールでの会食の席に、全国の主要幹部、旧公明党幹部に交じって見慣れない一団があった。

 誇らしげにテーブルを囲むその人たちこそ、九五年の財務で、一千万円以上を学会に納めた高額寄付者である。その数、十数人。式典関係者によると、一千万円以上の寄付者は全国にもっといることから、この日の招待者は関東近辺に限られたのではないかという。

 創価学会用語の財務とは、会員の寄付のことで、現在は年一回、夏または十二月に集めている。ふつう、財務の一ヵ月前に、広布部員会といった名の決起大会が各本部合同やゾーン単位で開かれたりする。お金をたくさん集める盛り上げ大会のようなものだ。この場で、いかにお金をたくさん寄付すれば幸せになれるかをそれぞれ発表しあって、暗黙のプレッシャーをかける。内々ではかなり顰蹙(ひんしゅく)を買っているが、表立って言えない。

 「私は結婚資金の三百万円を寄付しました」
 「百万円出したら息子がいい企業に就職できた」
 「保険を解約して学会のために捧げたら幸せになりました」
 など、威勢のいい発言のたびに周りからワー。と拍手が起きる。金額が少ないと本当に肩身が狭くなる思いだ、と参加経験のある会員は語ってくれた。

 学会の説明ではこういった会合で、寄付した金額を言い合わないように徹底しているという。心から寄付してくれた人に嫌な思いをさせたくないからとの理由だ。
 それにしては、広布部員大会への批判が、頻繁に漏れ伝わるのはどういうわけか。今回の会食会への招待に見られる高額寄付者の厚遇も含め、財務に対する学会の厳格な姿勢がとっくの昔に消え去ったことの証明とは言えまいか。金集めのミソがいくつもある、と教えてくれたのは東海地方の中堅学会員だ。

 その一部を紹介する。「創価学会研修シリーズ」という小冊子がある。学会広報室の説明では、研修シリーズは現在、地区幹部以上のメンバーに配る限定版(七十万部)で、一ヶ月に一回、一冊六十円で発行しており、収益は聖教新聞社の収益事業会計に収めるという。ところが中堅学会員によると、シリーズ関連の小冊子が百円から百五十円ほどでだいたい二週間に一回、全国の活動家に配られ、活動家を約二百万人と見積もると一回あたりの小冊子の売り上げが二億円以上になるという。

 現役、元に限らず、学会員がさらに問題だと指摘したのは地区幹部の集金競争。集金額が自分の査定に響いてくるからだ。副会長などの幹部になればそれなりの優遇措置が施される。給料があがる。創価学会の宿舎に住むことができる。子弟は創価小・中学に入学しやすくなる。

 ある学会幹部は全国規模の会合の模様を次のようにもらした。
 九六年の創価学会の日を前にした会合で、それぞれの責任者に、あるデータが示された。B4判の大きさで、たてに百五十から二百ほどの地域が羅列してある。
 その地域の右横には、九五年の財務の、一世帯の平均財務金額も並べてある。この書類はその場で回収された。
 こういうデータが各地域幹部の勤務評定となる。ロ数を少なくして平均金額を多くする細工を施している地域幹部もいるという。信仰から程遠い実績主義を象徴するエピソードだ。

 学会広報室の説明では現場での過剰な集金競争をなくすために銀行振り込みに切り替え、実際そういった集金競争は減っているという。
 もともと、学会は寄付を必要としなかった。戸田城聖第二代会長の時代は、
 「わが宗は賽銭箱なんか置いていない。他の教団はおカネにまつわるトラブルが絶えない」として、他宗を批判していた。当時の学会には、寄付金の多寡ではなく信仰心の厚さを重んじる誇りさえ感じられる。

 会費をとらない宗教団体。それが戦後、貧しい人々にも抵抗なく受け入れられ、燎原の火のごとく会員が増えていった要因でもある。
 戸田時代の五一年、財務制度が始まったが、金を出すのは財務部員に限られた。

 財務部員は、信心が厚いか、身元がしっかりしているか、経済的にゆとりがあるかなど厳しい審査を通して選ばれた。金を出すから幸せになるのでなく、信心をした結果、福運を得て家も豊かになったから財務部員になれるという図式だったのだ。

 だから、ステータスは高かった。当時、金バッジは学会幹部だけしかつけられなかったが、財務部員だけは金色に縁取られたバッジをつけることができた。一般会員からは羨望の眼差しで見られていた。

 そのころは一ロ千円で年四回(合計四千円)だった。ところが、その決まり事がなし崩しにされていく。六五年十月、正本堂建立のための供養が行われた。四日間の供養期間にもかかわらず、目標額五十億円に対し、三百五十五億円という莫大な金額が集まったと言われる。
 当時集金に奔走した学会関係者は語る。
 「六一年の大客殿供養の時には、目標額十億円に対して集まったのが約三倍の三十二億円。正本堂の時は百億円も集まればいいだろうと言われていたのが、目標の七倍集まった。いちばん驚いたのが池田さん。『皆さんからお金を集めるのはこれ一度きり』と約束して集めたがそうはいかなくなった。財務のうまみを知ったからだ」

 集まった金額の大きさもさることながら、この怒濤の財務に注目すべきことがある。
 先の集金関係者はこう指摘する。
 「池田さんが会員から集めた金を大石寺に寄進したが、その時すでに金の分配権、つまり予算権を手中にしていた。権力一極集中を達成した池田さんの中に、大石寺からの独立の気持ちがすでに芽生えていたのではないか」
 本山との対立は、この正本堂財務がひとつの引き金になっているという分析だ。
 正本堂供養募金によって学会にカネ余り現象が起きる。当時の支出は杜撰(ずさん)で幼稚だった。元顧問弁護士の山崎正友は、「日蓮正宗への寄付という名目を外れて、大学や会館建設、行事の運営に流用されかけていた」

 「共産党や反学会勢力対策の機密費総計三億円が私を経由した」
 と後に暴露する。
 しかし、正本堂が完成した二年後には、再び財政が逼迫したため、七四年に財務を再開。
 「各地に自前の施設を構える『創価学会万代路線』を目指し、七四年から数年間で千四百億円集める特別財務を始めた」
 と原島嵩元教学部長は言う。

 もっとも、七七年に民社党が学会施設にある豪華な池田専用設備などを追及する構えを見せたため、遂に蓄えを解体、撤去に費やす羽目に陥った。
 こうした支出の増大に対応して、財務の集金システムも次第に確立される。七七年には一ロ一万円に。さらに、銀行振込用紙まで作成された。
 この年、今まで財務部員に限っていた財務を特別財務の名目で会員全員に広げる実験が静かに行われ始めた。その舞台になったのが九州だった。
「先駆の九州」

 全国に先駆けて何でも実践するのが九州創価学会の伝統だ。こんなスローガンのもと、まず大分県を皮切りに、全員財務の端緒がつくられる。
 九州の元財務担当者が語る。
 「池田さんは何をするにしてもぶっつけ本番ではなく、必ずリハーサルをする。じっくりと反応を見極めたうえで、いけると判断した時に大胆に実行する」
 学会幹部の、
 「広布の財源基盤を確立するには、従来の財務部員制度は限界がある」

 という発言が地方に飛び火する。そして九州の学会員から、
 「池田先生におんぶにおだっこじゃなく、私たちの手で会館を造り、全国に模範を示そう」という掛け声が発せられる。
 「先駆の九州」という糖衣にくるまれ、全員財務への移行は巧妙に行われていく。
 先の担当者が保管していた資料によると、大分県で十三億九千万円、次いで佐賀県で九億七千万円、熊本県で二十億二千九百万円の財務を次々と成功させている。

 七〇年の財務の総額が二十九億八千三百十一万円。七年後には三県の財務だけで七〇年の全国累計をはるかに凌いでおり、いかに集金活動が激しかったかを物語る。

 その熊本市に元学会員を訪ねた。
 熊本市には三つの会館があるが、その元学会員にはそれぞれの会館に対する思い出がある。戸田時代からあった改装前の創価学会熊本会館で青年時代を過ごした。当時の幹部からは、
 「お前は信心が弱いからまだ財務部員にはなれない」
 と言われた。正本堂供養では会館が集金の拠点となり、体を張って会館を守った。二階建ての小さな会館だったが、みんなが理想に燃えていた。

 全員財務の実験となった特別財務で建てられた創価学会熊本文化会館。学会の、そして学会員としての隆盛時代を象徴している。自らも新年勤行会では十万円の広布基金を払った。
 いちばん新しい熊本池田平和会館。不信感を抱きながらの学会生活だった。会館はその威容を誇るまでになったのに、元会員の心は離れていった。

 「池田さんと宗門のどっちが正しいのか、迷いながらの生活でした。財務が信心のバロメーターのようになってきて、日蓮正宗の供養とは性格が違うことがわかってきた。金額が少ないと『お前、退転したのか』と信仰者にとっていちばんつらい言葉をかけられる。宗教という隠れみのを着た集金組織に変わり果ててしまったんです」

 宗門との対立で法華講総講頭を退いていた池田が、再び総講頭に復帰した八四年、財務は百億円から一千億円の単位にはねあがる。高度成長の恩恵に浴した学会員は「日蓮正宗への二百ヵ寺寄進」を掲げた財務に応える経済力を身につけていた。

 九一年には宗門と決別。正本堂や数百ヵ寺の寄進が無駄になったが、気兼ねなく学会施設に潤沢な資金を使える条件が整った。正本堂建立で培った大手ゼネコンとの付き合いがフル回転し始める。

 学会の収入は、財務の他、新年勤行会や、創価学会の日などの大きな行事に集まる広布基金がある。各都道府県の会館には広布基金コーナーが設けられ、そこに寄付する。だから、年一回の定期的な財務だけでなく、断続的に歳入はあると見ていい。

 学会本部の会計は財務を主財源にして宗教活動をする一般会計に加えて、聖教新聞や池田らの出版物を製作、販売する収益事業会計、墓地を開発し、会員から使用料を得る墓苑公益事業会計、の三つに分かれる。

 一般会計は非課税、収益事業会計は軽減税率、墓苑公益事業会計は土地部分が非課税で墓石は軽減税率の対象になる。

 こうした膨大な資金の実態はどうなっているのか。
 今回の取材に際して、年間の総収入や総支出額、収益事業費、資産の運用など学会の財政について学会本部に対し質問書を出したが、「一般公開していないので資産に関する取材は受けられない」と、断られた。

 学会は、一億七千万円入り金庫投げ捨て事件(二二二ページ参照)、ルノワール絵画疑惑(二二三ページ参照)など宗教団体としては異例とも言えるほどの金銭がらみの事件に関係している。だが、金についての疑問は解消されていない。

 信仰という聖の世界と、カネやヒト、情報を操る俗の世界で絶大な力を持つ池田名誉会長。その池田を師と仰ぐ会員が、供養として拠出する何千億という寄付金。八百万の会員の心とカネを、池田はいったいどこに導こうとしているのか。
(朝日新聞アエラ編集部「創価学会解剖」朝日文庫 p211-220)

■━━━━━

 労働者の、彼の労働の産物にたいするあり方が何か他人のものにたいするごときあり方であるという規定のうちに、これらすべての帰結が含まれている。

けだしこの前提からして明らかなことは、労働者が身をすりへらして働けば働くほど、彼が自分に対抗したものとして作り出すところのよそものの対象的世界がますます強力なものになり、彼自身、彼の内面的世界がますます貧しくなり、彼自身に属するものはますます少なくなる。

宗教においても同様である。

人間が神のうちへ置き入れるものが多ければ多いほど、彼が自己自身のうちにとっておくものはますます少なくなる。労働者は彼の命を対象のなかへ置き入れるが、そうすると、それはもはや彼のものではなくて、対象のものである。したがってこの活動が大きければ大きいほど、それだけ労働者は対象をもたなくなる。

彼の労働の産物であるところのものは彼ではない。したがってこの産物が大きければ大きいほど、それだけ彼はますます彼自身ではない。

労働者は彼の産物のなかで自己を手放すが、このことの意義はただたんに彼の労働が一つの対象、一つの外的な存在になるところにあるだけでなく、彼の労働が彼の外に、彼とは独立に、よそものとして存在し、そして彼に対峙する一つの自立的な力となり、彼が対象に貸与した命が彼によそものとなって敵対してくるところにある。
(マルクス著「経済学・哲学手稿」マルクス・エンゲルス八巻選集 大月書店 p72)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「いかにお金をたくさん寄付すれば幸せになれるかをそれぞれ発表しあって、暗黙のプレッシャーをかける」と。

◎「宗教においても同様である。人間が神のうちへ置き入れるものが多ければ多いほど、彼が自己自身のうちにとっておくものはますます少なくなる」と。