学習通信050402
◎「拒否することができる、という思想」……。

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ゆとりをいけにえにした豊かさ

ゆとりを生み出すもの──社会保障と自由時間

 「豊かさ」という言葉は、しばしば、「ゆとりがある」という言葉で言いかえられることが多い。
 たとえば、同じ所得のある人でも、住宅や預金などのストックがある人はゆとりがあるし、それらのストックのない人はゆとりがない。
 あるいは同じ物質的条件の下にあっても、時間にゆとりがあれば、ゆったりと人生を味わいながら暮らすことができるが、時間に追われると、目を血走らせてあくせくと暮らさなければならない。

 生活は企業とはちがって、「胃袋の大きさには限界がある」から、本来の生活に必要な欲望は、充足していずれ落ちつき、「カネもうけや物をためこむ楽しみ」に代る自分らしい楽しみに生きがいをかんじるようになる。人間的で個性的な生き方を実現できれば、横ならびに他人と比較して、いつもキョロキョロしなければならない切迫感からも解放される。第三世界の資源を乱獲することをやめて、ゆとりある生活を自分の手で作り出す可能性も生まれるだろう。

 しかし、経済価値だけが突出して、より多くのカネとモノを持つことが最大の願望となっているような社会では、個人もまた社会の流れに押し流されてバランスをくずし、充足することのない人間になってしまう。いかに自分らしい、よき人生を生きるか、ということよりも、いかに多くの富を持つか、ということに関心が集中してしまう。

 そして、悲しいことに日本では、住宅や環境や老後保障が劣悪なので、生活における物的充足感がなかなか得られず、多くの人が財テクに走りやすい社会的背景を背負っている。つまり、個人生活が企業と同じようにただ富をためこもうとする利殖欲にひきずられやすくなるのである。

 しかし、競争社会で限りなく富を蓄積することを人生の目的にすれば、どんなに効率よく仕事を仕上げても、また次の仕事が際限なく待っていて、これで終りということがない。その結果、自由な自分の時間を、いつまでたっても持つことができない。

 カネをためることには限りがないが、人生の時間は有限である。そればかりではない。他人や世界にたいしても、ライバルか、損得の対象か、利用する手段と考えるようになり、万人は万人の敵となって、たよりになるのはカネだけ、という悪循環に陥る。

 西ドイツのシュミット元首相が、「経済大国日本は(軍事同盟国を持っていても)本当の友人となる国を持っていない」と言ったのも、経済至上主義日本の姿を言いあてている。

 それらのことを知りながらも、競争社会から落ちこぼれたら、住居も持てず、病気をした時みじめな扱いしか受けられず、老後は人間らしい余生も送れない──そんな不安にかられて、競争社会で疲れはててしまう矛盾と悪循環──そのような中からは、ゆとりも豊かさ感も生まれないのは当然である。

 このように考えると、社会保障と社会資本の充実こそは、豊かさにとって、不可欠のものであることが痛感される。それは人びとに安堵感を与え、平等に向かって道を拓き、限りない競争から人びとを解放する。追い立てられる活力でなく、ゆとりを持った創造的活力を発揮することが可能になる。

 個人にとってもある程度のストックがゆとりを生むように社会の中にもストックが必要なのである。

 人びとの生活が、さらに、よい自然環境に囲まれていれば、もともと自然の一部である人間の心に、やすらぎと情緒的な豊かさを与えることは疑いない。自然の中の多様な生命の共存こそは、豊穣の源泉だからである。

 しかし、それらの物理的条件が整ったとしても、人間の側に時間のゆとりがなければ、豊かさを実現することは難しい。

 いま各国から非難される日本の長労働時間は、国際的な競争条件の不公正からだけでなく、人間性を殺し、地球的な豊かさを考える余裕を与えず、個人と社会の方向性を失わせている元凶だからなのである。

 収入から、税や社会保険料を差し引いたあとの、自由に使えるおかねを「可処分所得」という。しかし、「可処分時間」という言葉はいまのところあまり使われない。自分の人生のための可処分時間こそ、ドイツ人の言う「自由時間」であり、自由とは自由時間のことだとすれば、労働時間の短縮こそ、人間を自由にし、ゆとりを生み出す動機になるだろう。現在の日本のように可処分所得をふやすために可処分時間をへらすとしたら、ゆとりも豊かさも生まれない。

 そこで、次に、日本人の労働時間と自由時間について、検討を加えてみたいと思う。

 なぜなら、労働のありかたこそは、生活のありかたを左右し、人間の生き方に大きな影響を与えるからである。そしてまた労働の場は、社会の縮図でもある。
(暉峻淑子著「豊かさとは何か」岩波新書 p106-109)

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 拒否しにくい残業

 ところで、日本の企業には、組合が労基法三六条協定を結んでしまえば個人は反対であっても残業を拒否することはむずかしい、という習償がある。

 たとえば、日立製作所武蔵工場で働いていた田中秀幸氏は、二十一年前に、たった一回の残業拒否で懲戒解雇され、現在裁判で係争中である。

 田中氏の場合、終了時間まぎわに残業を命じられ、その日、すでに動かせない予定を持っていたので、これを拒否した。

 会社側は、協定を結んでいるのだから、個人的事情で残業命令を拒否することはできない、また本人が「拒否することができる、という思想」を持ち続けているから解雇する、とのべている。田中氏は、当時、残業拒否にたいして、二週間の出勤停止処分を受けたが、残業命令に対して、個人的事情がある場合は拒否できる、という思想を持っているために解雇されたわけである。個人の生活権や思想や良心の自由は、企業にまったく認められていない。働いている時間だけでなく、全生活、人生の全目標を企業に捧げなければ、勤労者の生殺与奪の権は、会社に握られているのである(この裁判は一審で勝ったものの、二審では敗けており、最高裁で審理中)。

 その他、幼い三人の子どもを抱え、妻も働いているため、単身赴任を断り、解雇されそうになった父親が、泣く泣く単身赴任に応じた例など(帝国臓器製薬の川口晴男氏は「父親が子どもを育てる権利、夫婦が共同生活をする権利」を主張して裁判で係争中)、労働者の側に、はじめから全生活は会社に握られている、というあきらめがある。

 このような会社人間を当然とする社会の中では、それに過剰適応して、自から働き蜂中毒をじまんする人が出てくる。

 残業拒否の場合とは逆に、滅私奉公、働きすぎの人は、会社から喜ばれこそすれ咎められることはない。出世の道は、他人より早く出社し、他人より遅く退社し、有給休暇もとらないことだ、といまだに言われている。

 戦争中、忠君愛国がもてはやされた時代には、自分から特攻隊を志願する人びとがいて、本人も、まわりの人も、それを美談としたことを考えると、企業へのこのような滅私奉公もありうること、として理解できる。

 ウツ状態とか神経症とかになる人たちに働き蜂が多い、ということを、しばしばきくが、人間の本性に反した過剰適応は、どっちにしても長続きしない。その結果は、老後生活を見れば歴然とする。地域社会や家庭生活からの孤立、産業廃棄物同様に自分自身の中に人格を豊かにしてきたものがない空虚、自分の人生の目標は企業利潤に奉仕するだけで、社会そのもののために本当に役立ってきたかどうか、という悔恨、老年になって妻の方から申し立てられる離婚──。

 人間は弱い存在だから、自分自身を失わないように、しっかりとした価値観を持ち、さらに働く仲間と連帯していないと、抑制心を失い、自己を喪失した者の持つ「不安にせきたてられた能動的ニヒリズム」に陥る。人権を主張するよりも、会社人間になることの中に、自分の生きがいを見出すようになる。あるいは自分自身の人生の楽しみがないので、与えられた仕事をこなすことを生きがいだと信じようとする。

仕事の中に我を忘れれば他のことを考えなくてすむし、家族を養うため、といういいわけもできる。私自身をふり返っても、あらゆる側面から合理不合理が押しかけてくる生活全体の中で、それらを処理する難事業よりも、ひとつの限られた専門的仕事に没頭していることの方が、はるかにやさしかったと告白せざるをえない。

 日本の社会では、まわりによく思われたいための自己犠牲や自己顕示が、犠牲的精神として評価される。そのため、本当の自分の欲求に直面するのをさけて、働き蜂を誇りに思うナルシシズムの人はあとを断たない。そんな人に限って、本当に社会のために、地球市民として、報いを求めない行動をとらねばならぬときになると、冷淡になる。

 それだけでなく、生活を大切にする人を、怠け者呼ばわりにするのは、困った風潮である。生活から遊離した人間の判断力など、所詮、病的で貧しいものであるにすぎないのに。

 私は人間にとって、労働の持つ重要な意味をけして否定しようとは思わない。

 自然と人間との永遠の物質代謝、自分の能力の発達、新しい発見、仲間との協同と連帯──それらのことが労働にかかわっており、生活のありかたをきめている。

 しかし、現在の労働のように、人間が全体として生きていくことを否定し、人間と人間との連帯が、企業営利に奉仕するためだけの連帯になり、家族や地域社会から排除され、自然と対立する──このような労働は、商品を生産する、という意味での豊かさにはつながるかもしれないが、本当の豊かさとは、およそちがったものである。
(暉峻淑子著「豊かさとは何か」岩波新書 p134-137)

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「ゆとり」の現代史をどのように生きるか

私たちが生きている社会、資本主義の社会に目を移しましょう。
資本家階級についてマルクス、エンゲルスは次のように書いています。

「ブルジョアジーは、反動派がしきりに賛美する中世の野蛮な武勇伝が、怠惰きわまるのらくら生活と表裏一体のものであったことを明らかにした。人間の活動がどれほどのことをやれるかをはじめて証明してみせたのは、彼らであった。彼らは、エジプトのピラミッド、ローマの水道、ゴチック式の大寺院とは類を異にする驚異をなしとげ、民族大移動や十字軍とは類を異にする大遠征を遂行した」(『共産党宣言』)

そのとおり、ブルジョアジーの生態は、古代や中世の支配階級のドラ息子ぶりとはひどくちがうのです。彼ら特愛の格言「時は金なり」をそのままに、彼らは生来じつに勤勉であり、活動的なのです。なにしろ、少なく見つもっても人類の誕生から今日まで、二百万年、その二百万年の大部分をかけて中世末までに到達した工業力の千七百倍にものぼるものを、ブルジョアジーは三百年たらずの資本主義の歴史のなかでつくりあげたのですから。

 では、そのブルジョアジーの勤勉さはどこからくるのかといえば、それは、資本の論理が彼らを駆りたてることによるものです。この資本の論理は、労働者階級にたいしては、搾取につぐ搾取としてあらわれます。だから、嵐のようなテンポで発展する生産力がうみだしているはずのぼう大な自由時間など、労働者階級にとってはまったく別世界の話、十二時間労働はおろか、十六時間労働さえまれではなかった、というのが資本主義社会初期の実態でした。

 でも──それにもかかわらず、資本主義は、形式的には自由時間を万人にむかって開放しているのです。

 天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず、人間は本来みな平等──というのが資本主義社会のタテマエである以上、これは当然そうなることです。

 人間は本来みな平等、というのは、資本主義社会が身分制からの解放ということを前提としていることと結びついています。身分制からの解放ということは、資本主義社会が商品経済の全面的な普及を特徴としており、社会のすべての人が独立の商品生産者、商品販売者としてあつかわれることによるものです。労働者は、労働力商品の販売者として位置づけられます。

 ただし、その「平等」そして「自由」は、さしあたり、ただタテマエだけのもの、形式的なものであり、実質的、経済的な不平等、それにもとづく搾取の自由ということと一体のものでした。選挙権・被選挙権に、財産の有無多少による厳重な制限が加えられていたことを考えてみれば、これは明らかなことです。自由時間の万人への開放、ということに「形式的には」という但し書きをどうしてもつけ加えねばならないゆえん、とつけ加えておきましょう。

 自由時間の親戚筋としての学校についていえば、資本主義は学校の門戸を労働者階級にむかっても開きました。教育を全国民に義務づけることさえやりました。もちろんそれは、基本的には、読み書きそろばんのできない労働力では機械制大工業を特徴とする資本主義的生産の役に立たないからです。それにしても、それは労働者に知の力を与えることを意味するわけで、そこで、資本家階級とその国家は、教育の場を思想教育(=精神的支配)の場としても位置づけることになりました。──今日のわが国において、反動勢力の攻撃が教育問題に一つの的を定めているゆえんです。

 しかし、資本主義が人間の自由、平等ということを、また万人にむかっての自由時間の開放ということを、タテマエとしてかかげざるをえない必然をもつ以上、このタテマエに実質を与えよという要求、運動が発展せざるをえないこともまた、必然です。労働運動はこの運動を代表するものであり、そしてそれは、やがて資本主義の枠そのものを突破してすすまざるをえないという必然をもになっているのです。労働時間の短縮、それによる自由時間の確保・拡大の要求・運動は、その重要な一内容をなすものであり、そして着実に成果をつみ重ねてもきました。

 でも──まだまだです。とくにわが国の場合はそうです。ここで『学習の友』八八春闘別冊の一部をいっしょに読みましょう。

「西ドイツ、フランスとくらべて約五〇〇時間以上も長く働いている日本の労働者にとって、労働時間短縮は切実な要求です。日本の労働者はそれらの国にくらべ、一日八時間労働として年間七〇日近くも余計に働いていることになるわけですから、当然といえます。しかも、サミット参加国のなかで、年間二〇〇〇時間以上も働いている国は、日本以外にありません。
 日本の労働時間が長い原因は、法定週労働時間が四八時間と長いこと、週休二日制の普及が遅れていること、年次有給休暇の取得率が低いことにあります。さらにまた、上限規制のない残業が三六協定によっておしつけられるだけでなく、数字にあらわれないサービス残業≠熄態化しています。

 欧米では完全週休二日制は常識で、各国ともその普及率は九〇%をこえ、年休取得日数も二〇〜三〇日。日本のそれが企業数でわずか七%にすぎないことや、一〇日に満たないこととくらべると大違いです。しかも年休取得日数は年々低下しているのが現状です。

 ところが日本の政府・財界は、八七年九月、労基法を改悪し、いつになるかわからない週四〇時間労働制と引きかえに、労働時間の弾力化=&マ形労働時間制を大幅に導入しようとしています。これは一定の単位を決め、事業の繁忙にあわせて労働時間を伸縮させ、結果として残業代までカットするというもので、労働時間の短縮とはほど遠いものです。……」

 そこではさらに、(1)政府の調査でも、一九七一年から八五年にかけて「ゆとりがある」と答えている人が五九・三%から三六・三%へと激減。「ゆとりがない」と答えている人が三八・九%から六三・六%へと激増していること、A日本人の自由時間は、長時間労働と長い通勤時間のために、欧米よりも一日平均二、三時間も短くされていること、即日本の長時間労働は、同時に過密労働をつよめながら強制されるという特徴があり、有病者・有病率をおそろしいまでに高めていること、などが指摘されています。

 「これが二〇世紀の八〇年代末における日本の労働者階級の状態であった」と後世の歴史家は書くことでしょう。さて、そこで──そのあとをどうつづけるでしょうか?

 それは、みなさんたちのこれからの生き方によってきまることです。

 「彼らはそれにたたかいをいどんだ。たたかいは大きな政治闘争へとつなげられていった。このようなたたかいとその発展のなかでは、さまざまなレベル・形態での学習・教育が知は力≠フスローガンのもとに強調された。これらのことは、彼らの生活をいっそう忙しくした。忙しさからの解放を求めて、いっそう忙しくなる、というのは矛盾に見える。だが、それを矛盾というならば、それは発展の原動力をうちに秘めるものとしての矛盾であった」

──私の空想のなかにあらわれる後世の歴史家は、このように後をつづけるみたい、つづけたいみたいなのですが……。
(高田求著「学習のある生活」学習の友 p103-109)

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◎「生活を大切にする人を、怠け者呼ばわりにする」

◎「資本主義は、形式的には自由時間を万人にむかって開放しているの」だと。