学習通信050408
◎「あなたまかせ」は民主主義ではありません。

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労働運動と民主主義・ヒューマニズム

 ところで、資本主義の下で労働者がおかれている「賃金奴隷」としての立場からは必然的に、人間らしく生きる権利を求めるたたかいが生じてきます。それが労働運動です。それは、資本主義社会がかかげる「自由と平等」の建前、「民主主義」の建前を建前に終わらせることなく、それを実質あるものとしていく運動、ということができます。その意味で、労働運動は現代のヒューマニズムを代表する、ともいえるでしょう。

 たたかわないかぎり、労働者は、人間らしく生きる諸権利を獲得できないということ──それは、労働者を「労働力商品」としてあつかう資本主義のしくみに根ざすものです。

 しかし、たたかうならば、それらの諸権利を一つひとつ獲得していけるということ──これもまた、民主主義の建前をかかげる資本主義の歴史的特徴に根ざしています。

 その意味で、労働運動は資本主義の必然的な産物です。こうした労働者のたたかいをつうじて、人間らしく生きる諸権利を労働者に保障するさまざまな法律がつくりだされてきました。これからもつくりだされていくでしょうし、つくりだしていかなければなりません。

 しかし、ここで注意しなければならないことが、二つあります。
 その一つは、ひとたび法律として確認された諸権利も、それを行使するための不断のたたかいなしには、いつのまにか棚上げされ、骨ぬきにされ、実質を奪われてしまう、ということです。そうさせる力が資本主義社会にははたらいているのですから。

 第二には、そのような諸権利が次つぎと法的に確立されていっても、資本主義が資本主義であるかぎり、労働者が労働力商品としてのあつかいをうけることにかわりはない、ということです。そのあつかい方にはいろいろと制限がつけられていき、あまり無茶なことはしにくくなるとしても、労働者は依然として労働力商品でありつづける、ということです。いいかえれば、民主主義を真に実質的なものとするには、労働者が労働力商品としてあつかわれるしくみそのもの、すなわち資本主義の枠そのものを乗りこえなければならない、ということです。

 労働者のたたかい、すなわち労働運動はそこまで──資本主義の枠そのものの乗りこえをめざすところにまで──すすまざるをえません。
 労働運動とは、労働組合運動だけをいうのではありません。労働組合は、資本主義の下での労働者の生活と権利をまもることを直接の目的としてつくられた組織であり、資本主義の枠を乗りこえることを直接の目標としてかかげるものではありませんが、労働運動はその範囲内にとどまることができないのです。資本主義の枠そのものを乗りこえて、働く人びとが真に主人公であるような社会、いいかえれば、民主主義が真に実質的なものとなるような社会の実現をめざすところにまで、それは必然的にすすんでいくのであって──「労働運動は現代のヒューマニズムを代表する」というのはそこまでをふくめていうのです。

 資本主義の枠を乗りこえることによってはじめて、科学・技術がもっぱら資本の利潤追求のために利用されるような──その結果、人類の生存そのものさえもがおびやかされるにいたるような──社会のあり方を終わらせ、科学・技術が社会の全員の幸せのために活用されるような社会のあり方を実現する道もひらかれるのですから。
(高田求著「君のヒューマニズム宣言」学習の友社 p81-83)

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自分の手で幸福をつかむという考え方………*

 この書物では、憲法の条文の解説ということではなく、憲法を支えている根本の精神、民主主義、人権、平和をどのように理解すべきか、そして日本の現実はどうなっているかという根本問題について、みなさんとともに考えることにしたいと思います。

 はじめに、民主主義という立場から法の問題を考えることにします。民主主義とは何かということは、いろいろに定義できますが、ここでは、「ものごとを自分たちの手で主体的につくっていく」という思想が民主主義思想の原点だというふうにとらえておきます。逆に言えば、「他人まかせ」、「あなたまかせ」は民主主義ではありません。

 たとえば、学校でいえば、教師と生徒、学生が協力し合って、よりよい学校を自分たちの手でつくっていくという思想が原点になければなりません。学生諸君のなかには、大学に入ってみたけれども、授業がおもしろくないということで文句を言う人がいます。しかし、学校をよくすることは学生・生徒の責任でもあり教師の責任でもあるのです。ただぶつぶつ言っているだけではよくなりません。関係ないとか、めんどうだという他人まかせではだめで、自分たちの手でよりよい高校をつくり、大学をつくる、そういう主体的姿勢がなければ決して学校もよくならないでしょう。

 この民主主義の思想を、最も根本的な点についてのべている憲法の規定が、幸福追求権です。憲法第一三条には、国民の権利として、生命、自由とならんで、「幸福追求に対する国民の権利」がうたわれています。幸福になりたいと、人はだれでも考えます。しかし、幸福は外からやってくるものではなく、自分がつかみとらなければならないものなのです。あくまで主体的に、幸福を追求する精神、これが民主主義の精神であって、「果報は寝て持て」というのではだめです。

 また憲法は、「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(第九七条)であるとうたい、この自由と権利は「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」(第一二条)とも規定しています。これらの規定は、いずれも人間がみずからの主体的努力によって幸福、自由、権利をかちとることの重要性を教えています。

 このように、日本国憲法の理想とする民主主義的人間像とは、積極的主体性をもった人間のことであり、それとは逆に、主体性をもたず、ものごとを「他人まかせ」にするような消極的人間は、民主主義精神から遠くへだたっている、といえましょう。
(渡辺洋三著「憲法のはなし」新日本新書 p12-13)

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労働基本権と市民的自由
    星野安三郎

はしがき

 労働基本権と市民的自由という課題を考察するにあたって、もっとも重要なことは、その自由をもって、原子論的な個人的自由ととらえるか、それとも、労働者階級の集団的自由として認識するかという問題である。

 これは、いうまでもなく、古典的な問題であり、それ故、先輩諸学者によって多く論ぜられ、とりわけ、沼田教授によって、すでに、理論的に明確にされ、実践的にも、明確で迫力ある解答が示されている。したがって、労働法と労働法学を専攻しない筆者からすれば、教授の学問的成果を摂取して、自らのものとしながら、それを憲法学の領域に導入し、憲法学の共有財産を少しで豊かにすることが当面の課題と思われる。この小論も、その課題に答えようとするものだが、果して、それが可能かとなると自信がない。いうまでもなく、教授の著書や論文に示された精緻にして厖大な著作を読むこと自体が容易でなく、さらに、それらに示された沼田法学の真髄を把握することなどより困難と思うからである。

 さらに、そのような学問的認識に支えられた教授の幅広く精力的な社会的・政治的活動との関連でとらえようとするとなおさら困難となる。

 けれども、他面において、真理は、以外に単純明快である。そして、単純明快な真理こそが、人間の魂をとらえ、人類の無限の未来に向って、人間の理性的認識と、勇気ある実践を可能にする導きの星だと思うのである。筆者が盲蛇におじずのたとえどおり、この小論をお引け受けしたのも、実は、教授にそのような導の星を見るからである。

 教授は、その著『権利闘争講話』の中で、イエリングの「権利のための闘争」から、次の格言を引用する。「権利は、人格の精神的生存条件であり、権利の主張は、人格自身の精神的自己保存である」それ故「権利のための闘争は、権利者の自己自身にたいする義務」となり、さらに、「権利の全体的放棄は精神的自殺」となるのである。

そして、教授は「市民的自由といい、基本的人権というものは、市民の歴史的な闘争の成果であり、人格性つまり人間の根源的自由・平等の自覚を血肉」とするものであり、さらに「人格性・自由・権利のために闘わないようなものは、市民たるに値いしない」と宣言する。

そして、さらに戒能通孝教授の著書から「市民≠ヘそれ自体として闘争観念であり、かつ闘争のなかで自己をきたえあげた人々が市民≠ナあることに誇りをもち、それに栄誉を附与したものである」(『自由と権利の法構造』一七頁)を引用し、その著者を高く評価するのである。

 このような格調高い言葉は、実は沼田法学の真髄である。教授の学問的成果の全容を知らないのに、沼田法学などという不遜な表現を用いたのは、それこそが、教授の真髄と思うからである。さらに学問は、閑暇のある学者の単なる個人的趣味ではなく、真理や真実・科学的・客観的法則や普遍妥当性を探求する社会的責任をともなった社会的行為であり、それゆえ私有財産ではなく、人類の共有財産と考えて居られる教授からお叱りを受けそうである。

にもかかわらず、あえて、沼田法学という表現を使ったのは、客観的に存在する真理も、人間の主体的実践を通じて、はじめて現世のものとして現象し、人間の魂をとらえ動かすことが可能となると思うからである。

 「教えるとは、希望を語ること、学ぶとは誠(真)実を胸に刻むこと、古今の学に通じた教授たち、裁くものの眼をもった若者たち」、フランスの抵抗詩人、ルイ・アンゴラの「ストラスプール大学の歌」のー節である。筆者の好きな句の一つだが、それをかかげたのは、この詩の中に教授の真骨頂を見るからである。教えるときには希望を語り、学ぶときには真実を胸に刻みつけ、古今の学に通じながら、裁く者としての若者の眼を見開いて、これらを見事に統一して若々しい情熱で生きられる教授の姿に、教えられ励まされるからである。

 主題からはなれて、個人的感情をのべたのは、はからずも還暦記念論文集に執筆する光栄に浴したので、一言、お祝いとお礼の言葉を述べたく思ったために他ならない。けれども、長くなると、教授のお叱りを受けそうなので、早速本題に入ることにする。
(沼田稲次郎先生還暦記念「労働法の基本問題 下巻」総合労働研究所 p87-89)

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「ひとたび法律として確認された諸権利も、それを行使するための不断のたたかいなしには、いつのまにか棚上げされ、骨ぬきにされ、実質を奪われてしまう」

「日本国憲法の理想とする民主主義的人間像とは、積極的主体性をもった人間のことであり、それとは逆に、主体性をもたず、ものごとを「他人まかせ」にするような消極的人間は、民主主義精神から遠くへだたっている」

「客観的に存在する真理も、人間の主体的実践を通じて、はじめて現世のものとして現象し、人間の魂をとらえ動かすことが可能となる」

……私たちが求めるものとは。