学習通信050411
◎「ヘーゲルは奇妙なふうにわらいだした」……

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 ヘーゲルがこの課題を解決しなかったということは、ここではどうでもよい。彼の画期的な功績は、この課題を提出した、ということである。これはまさに、だれであろうと一人の個人の力ではけっして解決できない課題なのである。

ヘーゲルは──サン-シモンと並んで──その時代の最も広い学識の持ち主であったけれども、それでもやはり、第一に、彼自身の知識の範囲が限られていたのはやむをえなかった、という点で、また第二に、彼の時代の知識と見解とがやはり広さと深さとにおいて限られていた、という点で、制限を受けていた。ところが、それにもう一つ第三のものが加わった。ヘーゲルは観念論者であった。つまり、彼には、自分の頭のなかの思想が現実の事物と出来事との多かれ少かなれ抽象的な模写とは見なされないで、逆に、事物とその発展とが、すでに世界よりも前にどこかに存在していた「理念」の実現された模写にすぎない、と見なされたのである。

こうして、すべてのものが逆立ちさせられ、世界の現実の連関は、完全にあべこべにされてしまっていた。そういうわけで、個々の連関のうちヘーゲルがきわめて正しくまた天才的にとらえたものもいくつかあったとしても、右に述べた諸理由で、細部がつぎはぎされ作為されこしらえられ──要するに──ゆがめられる結果になるほかなかったものが、なんと言っても多い。

ヘーゲルの体系そのものは、一つの巨大な流産であった──しかしまたこの種の流産の最後のものでもあった。つまり、それはまだ内的矛盾という一つの不治の病にかかっていたのである。

すなわち、この体系は、一方では、〈人類の歴史とは一つの発展過程であり、これは、その本性上、一つのいわゆる絶対的真理が発見されればそれについての完結した知識が得られたことになる、と言えるものではない〉、という歴史観を本質的に重要な前提としていたが、他方では、〈自分はまさにこの絶対的真理の精華にほかならない〉、と主張しているのである。

自然と歴史との認識をいっさい包括する・これを最後に完結した体系というものは、弁証法的思考の基本諸法則と矛盾している。ただし、こうは言っても、外界全体についての体系的認識が世代から世代へ巨人の歩みを進めていくことができるということ、このことを否定するわけではけっしてなく、反対に、それを含んで言っているのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p39-40)

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第一節 ヘーゲルの弁証法哲学がとらえた現実の生きた姿について

1 ヘーゲル哲学の二つの顔

 「支配階級は共産主義革命のまえにふるえおののくがよい。プロレタリアートはこの革命において、鉄鎖のほかに失うべきなにものももたない。手に入れるものは全世界である。万国のプロレタリア、団結せよ!」(『共産党宣言』)

 この力強い呼びかけをもって、マルクス主義の革命的世界観が公衆のまえにその全貌をあらわしたのは、一八四八年、全ヨーロッパをおしつつんだ革命の前夜でした。ところで、ドイツにおいてこの革命を思想的に準備するきっかけとなったものはヘーゲルの哲学であり、マルクス主義の世界観は、ヘーゲルの哲学からおおくのものを吸収して成立しました。あとで述べますが、マルクスもエンゲルスも、「青年ヘーゲル派」とよばれるグループの一員として、その思想のスタートをきったのです。

 このヘーゲルの哲学は、カントにはじまる一九世紀のドイツ古典哲学の伝統をうけつぎ、それを完成させたものでした。

 このようにいうと、ヘーゲルをふくむ一九世紀のドイツの哲学者たちがいかにも革命的な思想家だったみたいです。ところがじつは、とてもそうはみえないような人びとでした。フランス大革命を思想的に準備した一八世紀フランスの啓蒙思想家たちとは、だいぶようすがちがうのです。

 フランスの啓蒙思想家たちのばあいには、まさしく革命的な思想家の名にあたいする人びとでした。かれらは当時公認されていた思想のすべてにたいしてまっこうからたたかいをいどんだのです。思想支配の中心である教会にたいしても、政治支配の中心である国家そのものにたいしてさえも、公然とぶつかっていきました。機知にとんだ率直なことばで書かれたかれらの著作のおおくは、フランス国内で出版することができず、ひそかに国外で印刷されて非合法でもちこまれましたし、活字にすることを断念せねばならないこともふつうでした。ところが、ドイツの古典哲学者たちのばあいはどうだったでしょうか。

そろいもそろって、国王の命により青年の教育を託された大学教授たちでした。かれらの著書が一様に、おもおもしい学者ぶった難解なことばをえんえんとならべたてていた点でもフラソス人たちとは対照的でしたし、そのうえ、それらの著書は国家公認の教科書にさえなっていました。ヘーゲルにいたってはその名もたかいベルリン大学総長で、かれの哲学はプロイセン王国──専制政治の支配する警察国家でした──の国定哲学ともいうべき地位をほしいままにしていたのです。

 そもそもヘーゲルがベルリン大学にまねかれたのには、当時プロイセン政府をなやませていた急進的な学生運動への対策というふくみがありました。ヘーゲルの哲学が学生の「思想善導」にやくだつだろうと期待されたのです。

 ヘーゲルはこの期待にじゅうぶんこたえたようにみえました。かれは当時、政治的急進派として登場していた自由主義者たちの主張を「浅薄でうわっつらのもの」ときめつけ、「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である」と宣言しました。これはベルリン大学での講義のためのテキストとして書かれた『法の哲学』の序文にあることばですが、いかにもそれは現存するすべてのものを神聖化し、プロイセン政府の反動的な政策すべてを哲学の名において祝福するもののようです。政府はおおいに感謝しましたし、反対に自由主義者たちはすっかり憤慨しました。

 こう述べてくると、ヘーゲルは反動的な御用学者以外のなにものでもないようにきこえます。マルクス主義の革命的な世界観がそこからおおくのものをくみとって成立したなど、とんでもないことのようにおもわれてくるかもしれません。

 ところで、みなさんはハインリヒ・ハイネという詩人の名をごぞんじでしょう。「ああ、あのロマンチックな恋愛詩人か」という人もおおいとおもいます。「なじかは知らねど心わびて、昔のつたえはそぞろ身にしむ」というローレライの歌をなつかしくおもいだす人もあるかもしれません。このハイネはベルリン大学でヘーゲルの講義をきいたことがあり、ヘーゲルの死後二年めの一八三三年には『ドイツにおける宗教と哲学の歴史によせて』という著書も書いているのですが、かれはヘーゲルの哲学をまったくちがったふうに評価しているのです。

 じつは、ハイネの本領は政治詩人、革命的な文明批評家というところにありました。マルクスとも親交があり、その革命的な詩のいくつかはマルクス夫妻のまえでよみあげて、その批評にしたがって手をくわえたこともあるといいます。革命詩人としてのハイネの姿については、わが国でもいちはやく明治二七年に、のちの社会主義者田岡嶺実によって紹介されましたけれども、天皇制の弾圧のもとでおしかくされ、もっぱら甘美で無害な恋愛詩人としての名だけがひろめられてきたのです。

 さて、ハイネはヘーゲルをどのように理解していたのでしょうか。かれのひとつの文章を引用してみましょう。

「かつてわたしが現存するものはすべて合理的である≠ニいうことばについていくぶん当惑した態度をみせたとき、ヘーゲルは奇妙なふうにわらいだした。そしていった。このことばは、あらゆる合理的なものが現存するようにならなければならないということをも意味するのだと。それから、かれはびくりとしたようにあたりをみまわした。そして、ハインリヒ・ベールだけしかかれのいうことをきいていないことを知って、あんどの胸をなでおろした。」

 もちろん、ハイネがじっさいにヘーゲルとこのような会話をかわしたわけではないでしょう。ハイネ一流のフィクションです。ハインリヒ・ベールとはなにものかということも、このさいどうでもいいことです。また、ここでハイネはヘーゲルが「現実的なものはすべて……」といっているのを「現存するものはすべて……」といいかえており、このいいかえは、じつはたいそう微妙な問題をふくんでいるのですが、そのこともいちおう横におきましょう(すぐにつぎの項でとりあげます)。

いずれにせよ、この文章にはハイネがヘーゲル哲学のなかになにをみいだしたかがいきいきとしめされています。現状肯定の御用哲学者であるかにみえていたヘーゲルのなかに、これとは反対なもうひとつの顔がかくされているのを──現存するすべてのものをくつがえす革命の権利を主張し、それを待望する革命的な思想家の顔がかくされているのを──ハイネはみてとっているのです。さきにあげた一八三三年のかれの著書はこうしたやりかたで、ヘーゲルにいたるまでのドイツ古典哲学のあゆみを仮面をかぶった革命の哲学の歴史としてえがきだしたものでした。

 ハイネはヘーゲルをただしく理解していたのでしょうか。つぎにそれをしらべてみましょう。

2 必然性をになうものこそ真に合理的であり現実的である

 結論からいうと、ハイネは詩人の直観で、半面の真実をただしくとらえていたのです。

「現実的なものはすべて合理的である」というヘーゲルのことばはいかにも手ばなしの現状肯定のようにきこえます。政府当局も自由主義的反対派も、そのようにこれをうけとって、あるいは喜び、あるいは憤慨したということはさきにふれました。しかし、ヘーゲルの主張はけっしてそんな単純なものではなかったのです。

ヘーゲルが「現実的なもの」といっているのは、たんに現存するものというのとはちがうのです。さきに引いたハイネの文章は「現実的なもの」というヘーゲルのことばを「現存するもの」という意味に通俗化してうけとってさえ、ヘーゲルのあのことばからおもてむきとは正反対の結論をひきだすことができる、と指摘したものだといえましょう。ヘーゲルのいう「現実的なもの」とはなにかをしらべてみれば、ハイネのヘーゲル理解のするどさはいっそうはっきりしてきます。

 ヘーゲルによれば、かれのいう「現実的なもの」とはたんに現存するものというだけではなしに、同時に必然的であるものだけをさすのです。必然的であるからこそそれは合理的だ、必然的であるかぎりにおいてのみ合理的だ、というのがかれの主張です。

 説明しましょう。「必然的」というのは「客観的な根拠にもとづいてかならずそうなる」ということです。他方、「合理的」とは「理にかなっている」ということ、つまり「そうなるべき客観的な根拠をもっている」ということです。両者はべつのことではありません。必然的なものはかならず合理的であり、合理的なものはかならず必然的です。このように、きちんとした客観的な根拠をもつものだけが真に現実性をもつものといえるのだ、とヘーゲルはいっているのです。

 ですから、政府のだすあれこれの政策、あれこれの措置がなにからなにまで合理的なものだなどとはかれはけっしていっていません。必然性をもたないおもいつきの政策や措置などは、ヘーゲルの見地からすれば「現実的」なものとはいえず、したがって合理的なものではないのです。

 このようにみてくると、問題のヘーゲルのことばをたんなる現状肯定のことばとしてうけとるのは、すくなくとも一面的だといわなければなりません。たしかにヘーゲルには当時のプロイセン国家を現実的なもの、したがってまた合理的なものとみなしています。しかし、それはヘーゲル哲学本来の趣旨からすれば、当時の諸条件のもとではそれなりの根拠をもつ必然的なものだというだけのことなのです。

ですから、あのヘーゲルのことばはプロイセン国家が申し分のないりっぱな国家だということを意味するとはかぎりません。その正反対に、まったくろくでもない国家だが、当面、こうしたろくでもない国家をいただかざるをえない必然的な根拠があるからそれが存在しつづけているのだ、ということをも意味しうるのです。つまり、プロイセン国家のろくでなさにちょうどみあうていどにプロイセンの臣民がろくでなしであること──「臣民」の地位にあまんじるようなかいしょなしの状態にプロイセン人がとどまっていること──そのうえにこうしたプロイセン国家がのさばっているのだ、というぐあいに。

こうなると、あのヘーゲルのことばは「プロイセン人よ、君たちは君たちにふさわしい政府をもっているのだぞ!」というまことに痛烈な批判となりましょう。それはまた、真に革命的な勢力が歴史の必然に根ざして登場してきたあかつきには、いまあるプロイセン国家はけしとんでしまうということでもあります。

 ヘーゲル哲学のなかにはこうした一面がたしかにかくされていたのでした。
(高田求著「マルクス主義哲学入門」新日本出版社 p9-16)

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「この体系は、一方では、〈人類の歴史とは一つの発展過程であり、これは、その本性上、一つのいわゆる絶対的真理が発見されればそれについての完結した知識が得られたことになる、と言えるものではない〉、という歴史観を本質的に重要な前提としていたが、他方では、〈自分はまさにこの絶対的真理の精華にほかならない〉、と主張している」と。

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