学習通信050412
◎「282日におよぶストライキは打ち切られた」……。

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三池炭鉱労組が解散
最後の炭鉱労組 労働運動をけん引

 国内最後の炭鉱労働組合で、戦後最大の労働争議「三池争議」を主導した三池炭鉱労働組合(組合員十四人)が十日、福岡県大牟田市で解散大会を開いた。関係者ら百七十人は涙ぐみながら最後の「がンバロー」を三唱。「返魂式」として組合旗を燃やし、五十九年の歴史に幕を下ろした。

59年の歴史に幕

 組合員やOBのほか二〇〇二年に閉山した太平洋炭砿(北海道釧路市)の関係者も出席。炭鉱市政の犠牲となったかつての仲間に黙とうをささけ、組合歌を合唱した。
 続いて芳川勝組合長(62)が「歯を食いしばって来た私たちの生き様が若い人の労働運動の糧になれば」とあいさつ。
 「本日をもって解散します」と宣言すると会場からは大きな拍手が起こり、あちこちで目頭を押さえる姿が見られた。
 閉会後、積み上げたブロックに火を起こして返魂式を開催。組合長ら六人が赤地に白く組合名を入れた旗を広げながらかざすと、すぐ炎が回り、燃え尽きた。
 参加者は互いに手を取り合い、時に涙ぐみながら往時をしのんだ。
 四百人以上の犠牲者を出した一九六三年の三川鉱炭じん爆発事故の時、鉱内で作業していた小合瀬靖さん(90)は「突然目の前が真っ暗になり気を失ったところを仲間に救出された。今の若い人たちは事故を忘れないでほしい」と訴えた。
 元主婦会会長の島フミエさん(74)も「事故のときは三日三晩ほとんど寝ずに仲間を捜し回ったが、同じ社宅で二十人くらいが亡くなった。今思い出しても悔しい」と話していた。
 元組合員の朽網膜喜さん(72)は「三池争議で仲間が不当逮補された時は裁判所の窓から入りこんで交渉した。今では考えられないような思い出ばかりで忘れようにも忘れられない」と感慨深げだった。
 三池炭鉱労組は四六年に組合員約二万人で発足。五九年に会社側が約千二百人の指名解雇を通告したことなどをきっかけに「総資本対総労働の対決」と呼ばれた三池争議に突入するなど、戦後の労働運動をけん引した。
 九七年の閉山後も離職者の再就職に努め、先月には残された機関紙やネガを写真集やDVDなどにまとめるなど資料保存に取り組んできた。
(日経新聞 20050411)

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昭和三十五年(一九六〇年)
カメラの前で刺された
浅沼さん

「デモと番組と、どっちが大切なんだよ、どっちなんだ」
「光子の窓」の井原高志ディレクターに詰め寄られ、僕は平然と答えた。
「デモですね」
「それではやめてもらおう」こうして僕は番組を降り、ピンチヒッターで受けついでくれたのが大橋巨泉だった。
僕は当時、干代田区隼町のアパートに暮らし、ここは国会周辺のデモの声や規制するスピーカーがそのまま聞こえてくる場所だった。
 まだ国立劇場も最高裁の建物もない時代である。
 いてもたってもいられなくて連日のようにデモに参加していた。
 映画人、新劇人、放送人といった集団のデモなら、どこにも顔見知りがいて、その列に加わっていた。
 安保阻止国民会議統一行動、五百八十万人の中のー人だった。
 全学連七千人が国会突入をはかった日(六月十五日)は右翼に追いかけまわされていた。
 「光子の窓」の台本どころではなかったのである。
 「光子の窓」は、SKD出身のスター、草笛光子を中心に、伊藤基通とリリオリズムエアーズや売れっ子モデルのバラエティーショー。
 アメリカ仕込みの井原演出は、見事にバタ臭くて、参加していて胸が躍る番組だった。

 当時は録画の技術がないから、生放送が当然、そうなれば時間内に収めるために緻密なリハーサルを重ねるしかないという時代。
 今のバラエティーのように、余計に録画しておいて編集で面白く見せようというシロモノとは違う、緊張感に溢れた仕事場だった。

 にもかかわらずデモを選んだのは、「日曜娯楽版」にかかわっていた間に身についた、反体制、反権力の姿勢のせいだろう。

 しかし、それだけに六〇年安保の挫折感は大きかった。
 この年、僕はテレビを離れて、二本のミュージカル台本を書いている。
 組合活動をテーマにした「歯車の中で」(大江健三郎・案、芥川也寸志・作曲)と、定時制高校を舞台にした「見上げてごらん夜の星を」(いずみたく・作曲)である。
 これが縁で、いずみたくともコンビを組むようになる。
 中村八大と違って、いずみたくは共産党シンパ、六〇年安保のデモの中で打ち合わせのできる作曲家だった。
 こうしてジャズ畑の中村八大、歌ごえ運動出身のいずみたく。タイプの違う秀れた作曲家とコンビを組むことになる。
 後に坂本九が登場すると、この二人の作品を歌うことでスターになった。
「光子の窓」を降りて、舞台に夢中になっている時、NHKの「夢で逢いましょう」がスタートする。
 中嶋弘子、三木のり平、渥美清、黒柳徹子、E・H・エリツク、坂本スミ子、デューク・エイセスを中心に土曜日の夜の放送。
「光子の窓」が洋風なら、「夢で逢いましょう」は、日本の古典芸能にも必ず触れて、その場面はエリックが担当した。
 古典芸能に詳しいエリックは「ヘンな外人」として話題になった。(今は「ヘンな外人」だらけである)
 僕は中村八大と毎月新曲を提供してこれもヒットした。

 ストリップ劇場からやってきた渥美清は、違和感を逆手にとって、スタジオに浅草の風を吹きこみ、肌合いの違う黒柳徹子がそれを受けとめた。
 デザイナーの中嶋弘子は、司会で番組をまとめるというより、視聴者の代表としてスタジオにいるという感じで、毎回笑いだしてセリフを言うどころではなかった。
 この番組にはテレビの将来を先取りするところがあったが、その感覚は末盛憲彦プロデューサーのものだった。

 カラーテレビの放送が始まった年なのだが、受像機が高くて、この時のテレビの多くは白黒である。
 国民所得倍増計画の池田内閣ではあったが、カラーテレビはまだ市民の夢だった。
 映画館の入場料が二百円で、カラーテレビが五十万円。
 ちょうど、今のハイビジョンの感じだと思えばいい。
 その白黒テレビの画面に忘れられない事件が起きる。

 浅沼稲次郎社会党委員長がテレビカメラの前で刺殺された。
 僕は浅沼委員長にディズニーの「わんわん物語」のブルドッグの声で出演してくださいと交渉に行ったことがあり、その約束も果たしていただいた。
 当時、現役の政治家が声優になったのは画期的なことだった。
 田村町のNHKにいた僕は、目と鼻の日比谷公会堂へ駆けつけた。
 六〇年安保挫折に追い打ちをかけるように浅沼委員長は亡くなった。
 そんなつらい気分をホッとさせてくれたのが長女の誕生。
 僕は父親になった。
 そう思っていたら、父が「父親になったんじゃない、父親にさせてもらったんだ。私も君に父親にさせてもらったんだからね」と言った。
 だから子供に感謝しろと……。

 いろいろなことを体験した年だったが「黒い花びら」がヒットを続け、「アカシアの雨がやむとき」につながった年でもあった。
 デモに参加した若者たちは、その結果に、「もう恋なんかしたくない」「このまま死んでしまいたい」と歌いついで気分をまぎらわしたのだろう。
 今「ガイドライン」という、あたりの柔らかい言葉にピリピリするのは、僕たち、六〇年安保挫折組だけなのだろうか。
 今回の「ガイドライン」はどこか、きなくさいと思うのだけれど。
(永六輔著「昭和」知恵の森文庫 p186-191)

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 安保闘争と三井三池争議

 一九六〇年は、アフリカの年≠ニ呼ばれたように、長年フランス、イギリスなどの帝国主義支配を受けていた植民地が次つぎに独立をかちとり、世界地図を大きく塗りかえた年であった。十二月の国連総会では、アジア・アフリカ四三ヵ国が提出した植民地独立宣言──「あらゆる形態の植民地主義は急速かつ無条件に終結させる必要がある」──が採択され、非同盟・中立を唱える第三世界≠フ役割が、世界政治の動向に与える影響が目に見えて大きくなってきた。このなかでアイゼンハワー米大統領に玄関払いをくわせた日本の安保闘争は国際的注目を集めたのである。

 国内では、この年は安保と三池≠フ年と特微づけられた。遅まきながら、ここで三池争議についてコメントしておこう。

 安保条約改定の背景に、一九五五年以後、軌道に乗りはじめた日本経済の高度成長≠ェあったことは、はじめの方で述べた。五五年頃から神武景気≠ニいうことばがはやったが、六〇年頃にはさらにそれがエスカレートして岩戸景気≠ニいうことばが作られた。日本歴史はじまって以来の好景気だと財界が浮かれたのである。

そのなかで経済大国≠ヨの足場固めをしっかりやるために、エネルギー産業部門の再編成が国策にかかげられた。アメリカの石油独占資本に追随して、日本の独占資本は「石炭から石油へのエネルギー革命」をスローガンにかかげ、石炭産業はもはや時代遅れの斜陽産業だというつくり話をふりまきながら、炭鉱「合理化」にのりだしてきた。七万五千人の炭鉱労働者の首切りがその目玉であった。

人べらし「合理化」の第一目標にえらびだされたのが、三井財閥の城下町・九州大牟田の三池炭鉱であった。日本最大の炭鉱で、当時もっとも強力な労働組合が職場に根を張っていた三池の首切りが、労資決戦の天王山となった。一万五千人の従業員のうち千三百人近い指名解雇者のなかに、共産党員、社会党員をはじめとする約四百人の職場活動家が「生産阻害者」という名目で含まれていたことが、この攻撃の政治的性格をはっきり示していた。

 三池の労働者は、六〇年一月から十月にかけてストライキで抵抗した。全国の職場から延べ三七万人の他産業労働者が応援にかけつけ、海外の労働者をも含めて二三億円にのぼる闘争資金カンパが寄せられた。会社は延べ四三万人の武装警官隊を動員し、全労会議と民社党の協力を得て組合を分裂させ、第二組合をつくってストライキの切りくずしをはかった(三月十七日)。裁判所も会社の味方について、たたかう第一組合に圧迫を加えた。三月二十九日には、会社が利用した暴力団によって第一組合の労働者が刺殺されるという流血事件がおこった。

 この戦後労働運動史上最大のストライキ闘争は、おりからの安保闘争とささえあい促進しあって持続し発展した。大衆的連帯感が強められ、活動家がぞくぞくと生まれて、両方の闘争を強め、ひろげ、結びつける作用をした。先に紹介したように、六月八日、安保闘争の主力部隊であった総評が、三池争議の現地大牟田市で臨時大会をひらき、安保と三池の闘争方針を結びつけて決定したのも、このような状況のなかでの出来事であった。反面、安保と三池≠ェ相乗作用で発展することは、支配層の危機感を倍増させることであった。敵も味方も総力をふりしぼって闘った。

 結局、三池争議は敗北した。資本の陣営が総がかりで襲いかかってきた攻撃にたいし、一企業内の労働組合の局地的な抵抗力には限界があった。一万人の警官隊と二万人のピケ隊との殺気をはらんだ大詰めのにらみあいで、激突による流血の惨事を避けるために労働者側は陣を引いた。ついに千二百名の指名解雇をふくむきわめて不利な中労委斡旋案を呑んで、十一月一日、二八二日におよぶストライキは打ち切られた。その頃は、安保闘争の大衆行動も引き潮に転じていた。

 その後遺症についてつけ加えておく必要がある。「去るも地獄、残るも地獄」ということばはウソではなかった。首切りで活動家が追われて以後の三池炭鉱では、組合の分裂と弱体化にともなって職場が暗くなり、賃金切下げと労働強化、災害の増大が伝えられていたが、ついに一九六三年十一月九日、一瞬にして四五八人の生命をうばう大炭塵爆発事故に見舞われた。むろん「合理化」の強行がひきおこした人災である。六〇年代の高度経済成長∞安保体制下の繁栄≠ヘ、このような犠牲のうえにきずかれた。
(塩田庄兵衛著「実録 六〇年安保闘争」新日本出版社 p241-243)

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◎「去るも地獄、残るも地獄」……。