学習通信050413
◎「……時代に形成されたDNA」。

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日記より

一九五四年七月二七日
これは歴史の上で何の特筆することもない
多くの人が黙って通りすぎた
さりげない一日である。

その日私たちは黄変米(おうへんまい)配給決定のことを知り
その日結核患者の都庁坐り込みを知る。

むしろや毛布を敷いた階段、廊下、庭いっぱいに横たわる患者ストの様相に私は一度おおうた眼をかっきりと開いて見直す。

明日私たちの食膳に盛りこまれる毒性と
この夜を露にうたれる病者と
いずれしいたげられ、かえりみられぬ
弱い者のおなじ姿である。

空にはビキニ実験の余波がためらう夏の薄ぐもり
黄変米配給の決定は七月二四日であった、と
新聞記事にしては、いかにも残念な付けたりがある、

その間の三日よ
私はそれを忘れまい。

水がもれるように
秘密の謀りごとが、どこかを伝って流れ出た
この良心の潜伏期間に
わずかながら私たちの生きてゆく期待があるのだ。

親が子を道連れに死んだり
子が親をなぐり殺したり
毎夜のように運転手強盗事件が起り
三年前の殺人が発覚したり、する。
それら個々の罪科は明瞭であっても
五六、九五六トン
四八億円の毒米配給計画は
一国の政治で立派に通った。

この国の恥ずべき光栄を
無力だった国民の名において記憶しょう。

消毒液の匂いと、汗と、痰と、咳と
骨と皮と、貧乏と
それらひしめくむしろの上で
人ひとり死んだ日を記憶しょう。

黄変米配給の決定されたのは
残念ながら国民の知る三日前だった、と
いきどおる日の悲しみを
私たちはいくたび繰り返さなければならないだろうか。

黄変米はわずか二・五パーセントの混入率に
すぎない、
と政府はいう。

死んだ結核患者は
あり余る程いる人間のただ二人にすぎず
七月二七日はへんてつもない夏の一日である、
すべて、無害なことのように。
(「石垣りん詩集」ハルキ文庫 p25-28)

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〔1〕アメリカの事実上の従属国への転化

「事実上の従属国の立場」──軍事占領から生みだされた

 まず、「事実上の従属国」という問題です。これは、第二次世界大戦の敗戦国のなかでも、特別に深刻な状態にあります。戦後、連合国によって、イタリアも占領されました。ドイツも占領されました。しかし、戦争が終結して六十年近くたった現時点で、アメリカの占領時代の影がこんなにひどい形で残っている国は、日本のほかにはありません。ドイツなどは、国がいくつにも分割され、アメリカとイギリス、フランス、ソ連がそれぞれの割当地域を占領するといった状態にまでなりましたが、現在のドイツとアメリカの関係は、イラク戦争でドイツ政府がとった態度を見てもわかるように、日本とアメリカの、従属・追従一色といった関係とはまったく違います。

 日本が「事実上の従属国」となった経過には、いろいろな要素がありますが、やはり、根本にあるのは、日本のいまの体制は、アメリカ占領軍が絶対権力をもった軍事占領の状態のなかで準備され、それを直接引き継ぐ形でつくられた、という問題です。

 アメリカが、日本を自分の支配下の「反共の防壁」・最前線基地にする方針を定めたことはさきほど話しましたが、かといって、「ポツダム宣言」を根拠にした軍事占領の状態を無期限に続けるわけにはゆきません。講和条約を結んで、形の上では、日本を独立した主権国家とすることは、避けるわけにゆかない問題でした。そこで、アメリカは、講和条約と同時に、日本に特別の条約を押しつけ、占領軍を、条約による駐留≠ニ名目を変えて、居座れるようにする計画をたてたのです。この方針によれば、講和条約も、日本と戦った連合国全体の合意による講和条約ではなく、アメリカのこの構想に反対しない国ぐにだけの講和条約とならざるをえなくなります。

 こうして一九五一年九月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、講和条約が結ばれました。会議には、中国は招請されず、ソ連は会議には参加しましたが、条約の調印は拒否しました。この講和条約には、アメリカが、住民から土地を取り上げて、もっとも強力な軍事基地の島に変えてしまった沖縄を、日本から切り離し、永久に自国の支配下におけるようにした条項(第三条)とともに、日本に外国軍の駐留を認めることができるという特別の条項(第六条)が用意されていました。そして、講和条約の調印の後、同じ日に、アメリカと日本のあいだで、日米安保条約が調印されたのです。

 この二つの条約は、アメリカが、完全に自分の筋書きにそって、書きあげたものでした。日米安保条約にいたっては、形は、講和後の日本とアメリカとのあいだで締結される独立国家間の条約であるにもかかわらず、首相(吉田茂)をただ一人の例外として、日本政府の閣僚でさえ、調印までは誰もその内容を知りませんでした。

 この日米安保条約によって、アメリカは、占領中にその絶対権力で日本の全土につくりあげた基地のすべてを、講和後もそのまま確保し、自由に利用できることになったのです。普通、ある国が他国に基地を貸す場合には、どの地域を提供するかを両国の政府が相談し、双方が合意した地域を提供する条約を結ぶものです。ところが、日米安保条約の場合には、特定の基地の提供を約束した条約でもなく、どの地域を提供するかについて日米両国政府で相談したこともありません。アメリカが全面占領中に日本全土に勝手につくりあげた基地のすべてをそのまま提供する条約ですから、提供する地域について、条約にはなんの規定も制限もないのです。だから、「全土基地方式」と呼ばれるわけです。

 この面からいえば、日米安保条約は、完全に、形を変えた占領の継続であり、軍事占領のなしくずしの転化形態でした。
 この二つの条約を日本に押しつけたやり方も、ひどいものでした。

イ.それはまず、日本の社会を、国民から反対の自由を奪った、事実上の戒厳令下においた上で強行されたことでした。この条約に反対する日本共産党の幹部は、朝鮮戦争の前夜に追放され、党そのものが半ば非合法の扱いで、新聞も発行停止が続く、という状態でした。条約反対はもちろん、平和と名がつく集会・デモはすべて禁止でした。

ロ.二つの条約をめぐる交渉は、完全な秘密交渉でした。講和条約の文章が発表されたのは、講和会議(一九五一年九月)の開かれるわずか二ヵ月前。日米安保条約が公表されたのは、調印してからでした。日本国民は、二つの条約が調印されるまで、講和後の日本がどうなるかについて、まったく知らされませんでした。

ハ.また、アメリカ軍の特権を保障しているとしてしばしば問題になる日米地位協定──これは、当時は、名称も「日米行政協定」で、内容はもっとひどく米軍の特権で満たされた協定でしたが、国会にもかけられず、内容が公表されもしませんでした。条約調印に当たった吉田内閣は、こんなものが明らかになると、せっかく講和条約を結んでも、独立≠フ形が見えなくなる、と考えたのでしょう。アメリカとも話し合って、国会にかけないことにし、国民の目からことの真相をそこまで隠して押しつけられたのが、この条約でした。

ニ.条約の受入れを最終的に決めるのは国会ですが、その国会にも、言論の自由はありませんでした。だいたい、一九五〇年に多くの日本共産党議員の議席を公職追放指令によって奪ったこと自体、国会の戦時¢フ制的な様相を強めた事件でした。ところが、一九五一年の一月に、日本共産党の川上貫一議員──党中央委員でなかったために追放されないで国会に残っていたのですが、本会議質問のなかで、アメリカの基地政策などを批判したら、「国会の品位」を汚したという罪をかぶせて、三月に国会議員を除名してしまったのです。その国会が、二つの条約を、ことの核心をつかない短期間の審議で、可決・批准したのでした。

 こうして、アメリカが意図したとおりの筋書きにそって、「事実上の従属国」という日本の立場が、決定づけられました。

占領軍絶対の日米関係も引き継がれた

 いま見てきたのは、軍事占領が条約による従属体制になしくずしに引き継がれたという、条約上、法制上の側面です。私がもう一つ重要な要素だと思っているのは、戦後の日本とアメリカの実質的な関係が、占領軍が絶対権力をもった占領体制のなかで形成されてきた、という問題です。

 政府と政府の関係でも、戦後における日本とアメリカとの関係は、占領軍が支配権をにぎり、日本政府がその代行者として行動するという「間接統治」の七年間を通じてきずかれてきました。もっと広い意味で、日本の支配層の全体をとっても、アメリカに完全に従属した体制のなかで、経済的・政治的な権力を復活させ強化する道を見いだしてきたのです。現在の、たとえば小泉首相の「同盟国アメリカ」を絶対視する発言、日米安保条約ぬきの日本など夢にも考えられないといった議論が、自民党はもちろん、野党の民主党にまで広がっている状況──これらを見ると、軍事占領と「間接統治」の時代に形成されたDNAが、世代の代わった現在にまでいかに根強くおよんでいるかに、驚かされます。

 「事実上の従属国」という日本の現状を見る場合でも、こういう戦後の原点から深くとらえることが大事だと思います。
(不破哲三著「新・綱領を読む」新日本出版社 p110-115)

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水がもれるように
秘密の謀りごとが、どこかを伝って流れ出た
この良心の潜伏期間に
わずかながら私たちの生きてゆく期待があるのだ。

「日米安保条約は、完全に、形を変えた占領の継続であり、軍事占領のなしくずしの転化形態」と。