学習通信050414
◎「「大日本帝国」の一部として支配」……。

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中国の最近の一連の問題について
市田書記局長が記者会見

 日本共産党の市田忠義書記局長は十一日、国会内で記者会見し、「反日デモ」など中国の最近の一連の問題について次のようにのべました。

どんな主義・主張も暴力に訴えるべきではない

 どんな主義・主張であっても、暴力によってそれを訴えるというのはよくないというのがわれわれの立場です。同時に、日中関係がいまのような事態になっていることについて、冷静な事実にもとづく分析が必要だと考えています。
 いろいろありますが、やはり今度の問題の根底に、日本がおこなった戦争にたいする態度の問題があります。

 今年は戦後六十年、第二次世界大戦が終わって六十年の大事な節目の年です。日本、ドイツ、イタリアがおこした侵略戦争で数千万の命が奪われました。その痛苦の教訓の上にたって、再びあのような侵略戦争がおこらないようにしようと、国際連合が結成され、国連憲章のなかで、国際紛争を平和的、外交的手段で解決する、武力による威嚇も、武力行使も慎む、などの原則が確認されました。

 日本国憲法は、この平和の原則をさらにおしすすめ、戦争放棄と戦力を保持しないことを明記して国際社会に復帰しました。この立場、侵略戦争の反省と二度とあのような戦争をおこさない、というのがわが国の国際公約であり、戦後の国際社会に復帰する要件でもありました。

侵略戦争の反省こそ戦後の原点

 ところがいま、その侵略戦争を反省するどころか、逆に総理の靖国神社参拝がくりかえしおこなわれています。いうまでもなく靖国神社は、戦前の侵略戦争の思想的支柱の役割を果たし、戦後もA級戦犯の合祀(ごうし)や、あの戦争は正しかったという展示までやっている神社です。

 そこに総理が参拝する。あるいはあの戦争を「自存自衛」の戦争だったと、侵略戦争の反省がない記述のある教科書を検定合格とするなど、世界の流れとわが国の戦後の出発点、原点を見失い、損ねるような言動がつよまっています。日中間の問題を解決するためには、このような小泉内閣の態度をあらためることが緊急にもとめられています。

中国側は過去と現在の問題を一緒にすべきではない

 同時に中国側にも過去の侵略戦争と現在の問題とを一緒にしないことをもとめたい。いま日本が、中国に侵略したりしているわけではありません。過去の侵略戦争と現在とを区別してとらえることが大事でしょう。
 また日本の一部の人物の言動と日本国民全体を区別することも中国側にもとめたいと思います。さらに、冒頭にいったように、どんな主義・主張も暴力によって解決するというのは正しくないとみています。

 その他いろいろな問題があるでしょうけど、よく事態の推移をみながら冷静な分析をひきつづきおこなっていきたいというのが、現時点での私たちの立場です。
(「しんぶん赤旗」2005.4.12)

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歴史にこだわる中国
国民の「心の痛み」配慮

 中国の温家宝首相は十二日、訪問先のニューデリーでの記者会見で「日中関係の核心的問題は、日本が正しく歴史に向き合わなければならないという問題だ」と語った。反日デモが一部で暴徒化しているのに、あくまで責任は日本側にあるとの姿勢だ。根底には「心の痛み」とも言うべき国民感情への配慮がある。

 一九七二年の日中国交正常化の際、中国の指導部は国民の激しい反発に直面した。周恩来首相ら当時の指導部は、正常化に先立って国民を説得するため各地で座談会を開いた。その際の論理は@戦後の日本政府は過去について深刻に反省しているA悪いのは日本軍国主義と一部の指導者で、一般の日本国民ではない──というものだった。

 こうした論理を激しく揺さぶっているのが、小泉純一郎首相の靖国神社参拝や日本の教科書検定だ。日本は九五年に村山富市首相(当時)が過去の歴史を反省する「村山談話」を発表したが、「やっぱり日本は反省していない」「軍国主義の指導者を現在の日本の指導者は参拝している」といった批判が、急速に中国国内で説得力を持つようになってしまった。

 「ドイツ政府は中学校の歴史教科書がナチス時代の歴史を詳細に記述しなければならないと強調する特別政令を出している」。今回の教科書検定の翌日、人民日報はこう指摘し、日本はドイツに比べて歴史に対する反省が不足しているとの見方を示した。

 戦後ドイツが一貫してナチスの犯罪を追及してきたことは、中国でもよく知られている。半面、日本政府が東京裁判など連合国側の裁判とは別に独自に戦争犯罪の追及をしたという印象は、少なくとも中国ではない。今年は第二次大戦の終結から六十周年に当たるだけに、ドイツと比較して日本を批判する論調が広がりがちだ。

 「おまえの祖母の弟は日本軍に殺された」。河南省出身の若い友人は最近、日本への留学を親に相談したところ、こういって反対された。多くの中国の高齢者にとって日本はなお、つらい思いを呼び起こす存在だ。

 一方、若い世代は日本のアニメやドラマ、小説、ソニーやホンダの製品、日本人との交流などを通じて豊かな日本イメージをはぐくんできた。ただ、祖父母や親の言葉、学校教育などを通じて、間接的に同じ「痛み」を共有している。

 小泉首相の靖国参拝について中国政府は繰り返し「中国を含むアジアの人民の感情を傷つける」と表明してきた。これに対し日本からは中国人の痛みを刺激するような反応ばかりが返ってきたと指導部は受け止めている。日本では反日デモが度を越し、中国政府がその責任を日本に求めることへの批判も高まっているが、中国指導部の不満も膨らむ一方だ。(中国総局長 飯野克彦)
(日経新聞 050414)

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はじめに──「大日本帝国」

「大日本帝国」

 一九一八(大正七)年三月に文部省が発行した教科書『尋常小学地理書』巻一(いまの小学校の社会科の地理分野にあたる)の第一章「大日本帝国」にはつぎのように書かれていた。

「わが大日本帝国はアジア州の東部に位置して、太平洋中にある日本列島と、アジア大陸の東部に突き出ている朝鮮半島とから成り立っている。

 日本列島は大小たくさんの島々からなり、(中略)列島中の大きなものには、中央に北海道本島・本州・四国・九州があって、列島の主要部をなし、西南に台湾があり、北に樺太(南半)がある。小さなものには、これらの主要な島々の付近にあるもののほか、九州と台湾との間につらなって琉球列島をつくっているもの、および北海道本島の東北につらなって千島列島をつくっているものとがある。また本州南方の太平洋中には小笠原諸島がある。(中略)

国民の大多数は大和民族で、その数は五千四百余万におよぶ。その他、朝鮮には約千六百万の朝鮮人がおり、台湾には十余万の土人と支那から移り住んでいる三百余万の支那民族とがいる。また、北海道にはアイヌ、樺太にはアイヌその他の土人がいる。民族は異なっているけれども、ひとしく忠良な帝国の臣民である。

 本州・四国・九州および琉球列島などは、全国中のよく開けた所であり、区分して三府、四十三県とし、これを治めるため府に府庁、県に県庁をおいている。その他、北海道本島・千島には北海道庁、樺太には樺太庁、朝鮮と台湾とにはおのおの総督府をおき、それぞれの地方を治めさせている。
 わが国はこのほかに、支那から満州の関東州を租借し、ここに都督府をおいている。」
 (原文どおりではなく、読みやすいように書きあらためた。)

 一九三五(昭和一〇)年一二月発行の教科書では、この第一章の表題が「日本」にかわり、人口数がそれぞれに増加しているほか、租借している関東州に「関東州庁」をおいていることに加えて、また「委任統治領である南洋群島」があり、そこを「治めるために南洋庁をおいてある。」という文章が加えられている。

 さらに三年後の一九三八(昭和一三)年三月発行の教科書では、表題は「大日本帝国」にもどされ、人口数の変化のほかに、面積比を示した円グラフに「内地」と「外地」の区分が書かれている。

「内地」と「外地」

 この「内地」と「外地」というよび方には、どんな意味があるのだろうか。
 戦後、一九五七(昭和三二)年六月に外務省条約局第三課が出した『外地法令制度の概要』によるとつぎのように説明されている。

 一般に「外地」というと、国家の「海外領域」や新領土、植民地などを意味する。つまりは日本国家の領土の一部である。しかし「外地」は、「内地」とされる日本本土とは法律や制度の上でことなる地域である。すなわち日本の領土ではあるが、憲法の定めた通常の立法手続で定められる法律が原則として施行されない地域、いいかえると「異法地域」(「違法」ではない──井口)ということである。

具体的にいえば、戦前・戦中の日本の領土のうち、朝鮮・台湾・関東州租借地および南洋委任統治地域と、一九四三(昭和一八)年四月一日に「内地」に編入される前のサハリン(樺太)南部などで、「憲法上の法律が原則として行われ」ず、条件づきで施行されることはあるが「その施行が当然のことではない」地域のことである。

また、このよび方が「常用される」ようになったのはそれほどふるいことではなく、一九二九(昭和四)年に「拓務省」(植民地の問題をあつかう専門の政府機関)が設置されたころからで、それ以前は、「殖民地あるいは植民地」という名称で「海外領域」あるいは「異法地域」をよんでいた。ただ、公式文書では「殖民地」というような総括的なよび名をもちいることは少なく、「朝鮮又は台湾」「朝鮮及台湾」というように「具体的に地域名を使用」してきたという。

この本の課題

 このように、かつて日本は台湾・朝鮮半島・サハリン南部などをはじめとして海外に領土をもち、それを「大日本帝国」の一部として支配していた。だから、台湾やサハリン(樺太)の南部をも日本列島に加えるという、今日のわたしたちが思いもかけない説明が教科書にでているのである。また、「帝国の一部」としながらも、それらは本来の日本国土だった「内地」に対して「外地」とよばれ「異法地域」とされてきた。

 近代の日本が朝鮮や中国などに対してどんな外交政策をとり、どのようにしてこれらの植民地をもつようになったのか。その支配はどんな特徴をもっていたのか。これらの問題を、一九世紀の後半から二〇世紀はじめにかけての東アジアをめぐる世界政治全体の変化を視野にいれて見ていくことが、この小冊子のねらいである。
(井口和起著「朝鮮・中国と帝国日本」岩波ブックレット p2-5)

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「外地」は、「内地」とされる日本本土とは法律や制度の上でことなる地域である。すなわち日本の領土ではあるが、憲法の定めた通常の立法手続で定められる法律が原則として施行されない地域、いいかえると「異法地域」……と。