学習通信050416
◎「朝鮮が宗主国とあおぐ清国と日本が対等」……。

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近隣外交と国境画定
国際法に基づく領土の画定

領土問題の解決は,近代国民国家であることを示す前提条件であった。国境を画定しなければ,住民の生命や財産を保障したり,国民としての平等な権利を住民に与えたりする範囲を,明確に定めることができない。日本は明治維新を経験して,近代国民国家を目指し,欧米列強がつくりあげてきた国際法を受容しようとしたのである。

 一方,中国や朝鮮,ベトナムなどは,欧米とはまったく異なる,古くから続く国家概念に従っていた。古来,東アジアには,中国を中心とする中華秩序が存在した。朝鮮やベトナムは,すっぽりその内部におさまって,中国の歴代王朝に服属していた。

 むかしから中華秩序の影響がうすかった日本は,このとき,自由に行動できた。1868(明治元)年,日本は朝鮮に使節を送り,新政府の樹立を告げて,新たな国交と通商を求めた。しかし朝鮮は,文面に天皇の「皇」という中国皇帝と同列の称号が使われているのは許せないとして,国書の受け取りを拒絶した。

 そこで,日本は清との国交樹立を先にして,1871(明治4)年,日清修好条規を結んだ。これは,欧米列強どうしで行われる国際法の原理に基づく,両国対等の関係を定めた条約であった。

【台湾出兵】同年,琉球の島民66人が台湾に漂着し,54人が台湾の住民に殺害される事件がおこった。琉球は人種的にも言語的にも,日本と同系統の土地がらだが,それまで,半独立国として日本と清の両方に属していた。日本は琉球島民殺害の責任を清に問うたが,清は台湾の住民を「化外の民」(国家統治のおよばない者)であるとして,責任を回避した。

 そこで日本政府は,台湾の住民を懲罰するのは日本の義務であるとして台湾に出兵した。この衝突は,近代国民国家の観念をまだ理解していない清と,すでに国民国家の国境概念を身につけた近代国家日本の意識の差をあらわす,最初の象徴的事件だった。

 台湾出兵問題は,清との協議の結果解決したが,清はこれにより,琉球島民を「日本国属民」と認めた。日本はそこで,琉球に沖縄県を置いて,日本領土とした(琉球処分,1879年)。ところが清はこれを承認せず,日清戦争ののちになって,ようやく沖縄の日本帰属を正式に認めた。

 一方,これに先立って,日本軍艦が朝鮮の江華島で測量をするなど示威行動をとったため,朝鮮の軍隊と交戦した事件(江華島事件,1875年)をきっかけに,日本は再び朝鮮に国交の樹立を強く迫った。その結果,1876(明治9)年,日朝修好条規が結ばれた。これは朝鮮側に不平等な条約だったが,長らく懸案であった朝鮮との国交が樹立した。
(「市販本 新しい歴史教科書」扶桑社 p198-200)

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日朝修好条規

 国書をもった使節が出発した直後に、明治政府の中心人物の一人だった木戸孝允は岩倉具視にあてて、朝鮮に使節を派遣して「彼の無礼を問ひ、彼若し不服の時は罪を鳴らしてその土(国土)を攻撃し、大に神州(日本)の威を伸長せんことを願ふ」(『木戸孝允日記』巻一)と建言していたことはよく知られている。

使節がまだ到着(一月三一日)してもいない一月二六日のことである。このような「征韓論」はやがて一八七三(明治六)年の秋を中心に政府内部の主流を占めることになったが、これは米欧をまわっていた岩倉や大久保利通らの使節団が帰国して強く反対したため現実化せず、「征韓」を唱えた西郷隆盛や板垣退助らは政府を去った。

 しかし、新政府の中心に座った大久保らが対外的に武力をもちいることに根本的に反対だったのではない。一八七四(明治七)年には「台湾出兵」(後述)をおこない、さらに翌七五年には朝鮮の首都漢城(ソウル、日本では京城といった)に近い漢江の河口の江華島に軍艦雲揚号を派遺して、ボートをおろして上陸しようとする挑発事件をおこした。もちろん朝鮮側はこれに対して江華島の砲台から発砲し、日本の雲揚号は応戦した(江華島事件)。

そして一八七六年二月二六日、この事件の処理を口実に軍艦三隻と汽船三隻をひきいた黒田清隆らの日本側使節が、朝鮮政府に強硬におしつけたのが日朝修好条規(大日本国大朝鮮国修好条規、江華府で調印されたところから江華条約ともいう)だった。アメリカ公使ビンガムは『ペリー提督日本遠征記』を井上馨副使に贈って日本をはげましたという。まさしく西洋諸国と同じように隣国に接していったのである。

 この条約は、第一に「朝鮮国は自主の邦」と強調して、朝鮮に対する清国の宗主国としての影響を断とうとしていた。第二に釜山のほかに二つの港を新しく日本に開港すること、第三に開港場に日本の領事を駐在させることと領事裁判権とを朝鮮に認めさせた。朝鮮の一方的な開港と、日本側だけが領事裁判権を朝鮮に認めさせていることなど、明らかに日本は朝鮮に不平等条約をおしつけたのである。

この条約につづいてむすばれた「附録」や「日本国人民貿易規則」および「附録」に付属する「往復文書」などでは、日本貨幣の朝鮮での流通を認めさせたり、朝鮮に関税の自主権を認めないばかりか、当分の間いっさいの輸出入商品に関税をかけないことさえ約束させるという不平等なものだった。

 この不平等条約という点については、いま少し立ち入っておく必要がありそうである。一つは、この領事裁判権について、もともと江戸時代から釜山で活動していた日本人に対しては日本側の法的処理にまかせるならわしになっていたのだから、とくに意識的に不平等な領事裁判権を認めさせたのではないかのようにいう議論があるからである。これは明らかに誤りである。この条規の第一〇款には、釜山だけでなくすべての開港場において領事裁判権を明記している。それ以上に、のちに述べる日清修好条規と関連して、日本政府はこの不平等な条項を朝鮮に認めさせる明確な意図をもって交渉にのぞんでいたのである(田保橋潔『近代日鮮関係の研究』上)。

二つには、この「附録」の実施取極書として翌年にむすんだ「釜山港居留地借入約書」を、朝鮮側では「釜山口租界条約」といったように、「釜山港居留地」は朝鮮の主権のおよばない地域となった。これ以後、一八八〇年に元山、一八八三年に仁川、一九〇二年に馬山など、あいついで開港させ、居留地を設定していくほか、中国にも同様の居留地をおいていくことになるが、日本側がのちに明らかにしたところによると、これらは「特別居留地」という名でよばれ、単なる居留地ではなかった。

そこでは日本人以外の土地所有はゆるされず、他の列国の外交官の介入も認めず、もっぱら日本が行政権を独占的に行使し、警察権も独占し、さらに戦時には軍事的な基地として使用できるというもので、欧米諸国が中国においた租界よりもいっそう主権を侵害したものになっていくということである(信夫清三郎編『日本外交史』I)。釜山居留地設定はその第一歩であったといってよい。

 なお、修好条規をむすんだのちも、長く朝鮮政府から拒絶されていた日本公使の朝鮮国王との謁見を実現し、公使のソウル常駐を黙認させたのは一八八○年のことだった。

日清修好条規

 一方、江戸時代から正式の国交のなかった清国との間については、明治政府は一八七〇(明治三年に柳原前光、花房義質らを使節として派遣し、国交と通商関係を正式につくりだすための予備交渉にあたらせた。日本側が清国との正式国交の樹立を強く望んだ背景には、朝鮮との関係を日本側に有利にすすめる意図があったからである。とくに日清平等の原則を交渉の基本方針としたのは、朝鮮が宗主国とあおぐ清国と日本が対等の地位を占めることで、朝鮮に対して外交上優位にたつことをねらったものだった。
 この結果、一八七一年にむすばれた日清修好条規(大日本国大清国修好条規)は、欧米諸国との不平等条約に同じように苦しんでいる日本と清国とが、たがいに領事裁判権と協定関税制を認めあうという、特殊なかたちの「平等」な条約となった。しかし、この点は欧米に対して不平等条約の改正をすすめようとしていた明治政府にとって不都合なことにもなった。

清国に領事裁判権を認めるということは、欧米に対して領事裁判権の撤廃を求める主張と矛盾することになるからである。だから政府内でも領事裁判権の承認などに反対する意見が強くでて、明治政府は条文の修正と批准の延期を清国政府に求めた。このことが日朝修好条規の考え方にも影響を与え、先に見たように一方的な領事裁判権を日本側だけが朝鮮に認めさせることと関係していたのである。

また、第二条で、目清両国が第三国との間で紛争を生じたときには、日清両国がたがいに助けあったり調停しあうとしていたことは、西欧列国に対する日清両国の同盟を意味するかのように受けとられたことが問題化したこともあって、条文の修正が求められたという事情もあった。しかし清国は応じなかった。批准書の交換は一八七三年四月三〇日にようやくおこなわれた。
(井口和紀著「朝鮮・中国と帝国日本」岩波ブックレット p10-14)

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朝鮮、中国外交のはじまりです。