学習通信050417
◎「日本は最初の植民地をもった」……。

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はじめに 〜今でも強い「自衛戦争」論

 日清・日露戦争を「自衛のための戦争」とみなすとらえ方は、戦争当時から国家によって主張され、日本社会に広く流布してきました。アジア太平洋戦争に敗れ、近代日本の膨張政策にたいする批判的検討が進んだ今日でも、両戦争を「日本の国際的地位を向上させた」といった観点から説明する著作も少なくありません。

 また、昭和期の軍国主義や戦争に批判的な人でも、日清・日露戦争の勝利が、植民地支配を生み出し、日本の軍事大国化を促進したことについては、意外に見逃していることが多いようです。それは、「日清・日露戦争を戦わなければ、日本は植民地化されたのでは」とか、「日露戦争はロシアの南下政策のために起きた自衛戦争では」といった歴史認識が、いまだに多くの人をとらえているからです。

本当に、日清・日露戦争は、やむをえない戦争、あるいは「自衛戦争」だったのでしょうか。また、日清・日露戦争は日本をどう変えたのでしょうか。戦争の原因と経過、それがもたらしたものを見ることで、あらためて考えてみることにしましょう。
(山田敬男編著「日本近代史を問う」学習の友社 p36)

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 強者が弱者を駆逐する。食うか食われるか。これが帝国主義時代のいわば常識だったのである。
 そんな世界的な状況の中で起きた日清戦争を、一体どのように総括すればよいのか。日清戦争は、あきらかに靖国が仕掛けた戦争ではなく、日本が強引に策謀をめぐらせて戦争に持ち込んだのである。しかし伊藤はもちろん、確信犯である陸奥にさえも侵略戦争という認識はなかった。日本にとって日清戦争の開戦理由は「実質的に清国の属国となっている韓国を独立させる、独立させないと日本が危ない、韓国の清国化は絶対に避けたい」ためであり、清国はもちろん、韓国も侵略するつもりではなかった。
だが「韓国の独立のため」だと口癖のようにいいながら、伊藤も陸奥も、「韓国」が、列強から侵食、干渉されないためには(そうなれば日本にとって大脅威となるから)、日本が韓国を全面的に保護し、面倒を見なければならないと、少なくとも日清戦争が勃発する頃には確信していたはずである。だが、保護と支配の間には、実は紙一枚ほどの差異もなかったのである。さらに、一歩譲って、保護すべきだとして、清国の保護と日本の保護にどれほどの差があっただろうか。そして日本の保護支配を最も嫌っていたのが、大院君であり、そして対立する高宗、閔妃など韓国首脳たち、つまり韓国自身であった。
(田原総一朗著「日本の戦争」小学館 p194)

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「帝国主義」外交──日清・日露戦争

揺らぐ「華夷秩序」

 一九世紀後半の東アジアをめぐる世界政治がどんな特徴をもっていたかを視野にいれて考えると、明治政府が日清修好条規や日朝修好条規を成立させた意味は、いっそう明らかになるように思われる。

 一九世紀なかばころまでの東アジアの国際関係の特徴は、前の章でも少しふれたが、基本的には清国を中心にかたちづくられたものだった。それは清国が「宗主国」(華)で、周辺の国ぐにの多くは「属国」(夷)として清国に「朝貢」する、「華夷秩序」とよばれる伝統的な原理にもとづいた国家間の関係であった。これは先に見た「西欧型国際秩序」とはまったくことなった原理をもつ国際関係である。

東アジアの国ぐにがそれぞれに主権をもってたがいの関係をつくりだすのではなく、「宗主国」(上国)とあおぐ清国に対して周辺のそれぞれの国が「属国」(付庸国)として「朝貢」する関係で成り立っている。いいかえると清国(華)と個々の「属国」(夷)との間につくられた二つの国家の間の関係がいくつもできていて、全体はそれらをよせあつめた束のようなものである。

 ところがこの「華夷秩序」の原理は、一九世紀後半、とりわけて一八七〇年代から八○年代にはいって急速にくずれはじめる。北方と中央アジア地域からは主としてロシアが迫り(地図参照)、南方からはフランスとイギリスが迫っていった(後述)。そして東から迫ったのが実は、琉球や朝鮮に対する明治政府の政策だったのである。

 このような状況に対して、清国はさまざまな手段や方法をもちいて、この伝統的な秩序を維持しようとはかった。日本と直接にかかわる問題についていえば、それは朝鮮との関係に最も明瞭に現れた。

 このころ、朝鮮でも自国の開化と富国強兵をはかろうとするいくつかの動きが新たに生まれていた。日本に修信使を送り、西洋技術導入の状況を視察させたりしたのもその現れの一つである。明治政府は、朝鮮のこの動きに乗じて日本の援助で小銃部隊を編成して朝鮮軍の強化をはかる計画をもちかけた。日本人将校の下に別技軍という特別部隊の編成・訓練をおこなうというものである。この政策が、結果的には旧軍隊の待遇の悪化をもたらし、反日の気運が高まった。

そのため軍人を中心にした反乱が起こり、日本公使館が襲撃された(一八八二年七月、壬午軍乱)。日本はその賠償を要求するとともに、公使館護衛の警備兵を駐屯させる権利を朝鮮政府に認めさせた済物浦(仁川のふるいよび名)条約をむすんだ。近代日本が海外に軍隊を常駐させる最初の一歩である。

 一方、この事件をきっかけに清国は大軍を送って、朝鮮の首都を制圧し、反乱軍にかつぎだされて政権についた大院君(李是応)を清国にむりやりつれさり、閔氏の政権を復活させ、朝鮮の内政に対する干渉を一挙につよめた。

 このなかで朝鮮の対外関係に関連して重要なことは、つぎの二つの方向である。

 一つは、この年の五月、朝鮮はアメリカとの間に修好通商条約をむすび、つづいて八六年までの間に英・独・伊・露・仏など欧米列強との間にあいついで修好通商条約をむすんだことである。この朝鮮の本格的「開国」の主導権をにぎっていたのは清国だった。最初のアメリカとの条約交渉をすすめたのは清国の李鴻章で、草案も彼とアメリカとの間でつくられた。そのうえで、朝米間の条約調印には清国の要人を立ちあわせた。

以後の欧米諸国との条約成立にかかわったのは、清国から朝鮮に送りこまれていた外交顧問のメルレンドルフ(ドイツ人)である。清国のねらいは、朝鮮に欧米の強国を誘いこんで日本を牽制することと、この交渉をつうじて清国が朝鮮の「宗主国」であることを欧米の強国に認めさせることにあった。しかし、あとのほうのねらいは成功しなかった。

 そこでいま一つ、清国は一八八二年八月に朝鮮と「商民水陸貿易章程」をむすんだ。朝鮮と列国との間に新しい通商関係がうまれたのだから、清国との間にも新しい近代的な通商関係を成立させるということであったが、清国はこの条約のなかで、先に欧米との間では失敗した、清国の朝鮮に対する「宗主権」を朝鮮政府には認めさせたのである。

 一方、一八八三年から八四年にかけてフランスがベトナムを段階的に保護国とした。このため八四年から翌年にかけて、清国とフランスとの間に戦争(清仏戦争)がおこった。結果は清国の敗北におわり、清国はベトナムに対する「宗主権」の放棄を認めざるをえなかった。ついで一八八六年にはイギリスがビルマの「併合」を宣言し、ビルマはイギリス領インドの一部とされた。

日清戦争

 清仏教争で清国の敗色がこくなったのを好機として、朝鮮では国王のもとで政府主導の近代化をすすめようとする青年貴族たちを中心とした「開化派」とよばれる人びとのクーデターが、一八八四年一二月におこったが、クーデター政権は三日天下におわり失敗した(甲申政変)。その結果、清国の支配とそれを後ろだてにした閔氏一族の「守旧派」の支配がかえって強まった。翌年、日本と清国は朝鮮問題について天津条約をむすび、朝鮮に軍隊を送る必要が生まれた場合には、両国は事前に通告しあうことなどを約束したが、清国の朝鮮に対する大きな影響力を弱めるものではなかった。

 こうしたなかで、一九世紀後半以来、朝鮮各地でばらばらにおこっていた封建支配に反対する小規模な農民蜂起が、民衆に深く根をはっていた民族宗教=「東学」の教団組織をつうじて大規模に組織され、朝鮮半島南部一帯で大きな武装反乱になったのが、一八九四年の甲午農民反乱(東学農民蜂起)だった。この農民反乱の鎮圧に日清両国が大軍を送ったところから、日清戦争がはじまることになった。

 一八九四(明治二七)年七月から翌年四月までの日清戦争は、朝鮮に対する支配権を日本と清国とが争った戦争である。日本が動員した総兵力は二四万人余だから、戦争の規模からいえば一〇年後の日露戦争にくらべるとはるかに小さい。しかし、近代日本が総力をあげた最初の本格的な対外戦争であったことはうたがいない。

 ところで、日本が天皇の名でだした宣戦の「詔勅」によれば、この戦争の目的は、朝鮮の「治安」と「独立」とを守り、「東洋全局の平和」を維持しようとする日本に、ことごとに反対し妨害する清国の勢力を朝鮮から追いはらうことにあるという。朝鮮の「独立国の権義を全くせむこと」というのは、清国が朝鮮をその「属国」とし、支配権をふるっている状態をまったくなくするということである。

 この戦争に日本が勝利をおさめた結果、「華夷秩序」による東アジアの国際関係は最終的にくずれさった。日本は清国の勢力を朝鮮から追いはらい、懸案の「琉球帰属問題」も、台湾や膨列島までをも新たに日本の領土としたことから、いわば自然解消のかたちで最終的に決着させられた。日本は最初の植民地をもった。また、日本が明治初年に清国とむすんでいた日清修好条規という特殊な「平等」条約は、講和条約とそれにつづいてむすんだ日清商航海条約によって、今度は日本が清国に「西欧型」の不平等条約をおしつけたものに変えられた。

 一方、日清戦争開戦直前の日英通商航海条約の調印(一八九四年七月)によって、明治政府が一八七〇年代からつづけていた条約改正はいちおう達成された。日本は幕末以来欧米諸国におしつけられていた不平等条約体制から基本的に脱けでたのである。

 こうして日本は「西欧型国際秩序」のなかにそれなりに「一人前」の国家として加わる(「入欧」の「完成」とでもいうべきか)と同時に、東アジアの国際関係のふるい秩序を最終的にうちこわす主役の役割をはたしたのである。

 しかも日清戦争の終結は同時に、東アジア全体が帝国主義の世界政治の主要な舞台の一つになることを告げる合図ともなった。
(井口和起著「朝鮮・中国と帝国日本」岩波ブックレット p17-22)

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◎「日本は「西欧型国際秩序」のなかにそれなりに「一人前」の国家として加わる(「入欧」の「完成」とでもいうべきか)と同時に、東アジアの国際関係のふるい秩序を最終的にうちこわす主役の役割をはたした」と。

日本を「普通の国」に、と改憲派はいうのだが。