学習通信050418
◎日本人が自国のために献身する「国民」……

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日清戦争と日本の勝因

 1894(明治27)年,朝鮮の南部に東学の乱(甲午農民戦争)とよばれる農民暴動がおこった。東学党は,西洋のキリスト教(西学)に反対する宗教(東学)を信仰する集団だった。彼らは,外国人と腐敗した役人の追放を目指し,一時は首都雀崔(瓢)に追る勢いをみせた。わずかな兵力しかもたない朝鮮は,清に鎮圧のための出兵を求めたが,日本も甲申事変後の清との申しあわせに従い,軍隊を派遣し,日清両軍が衝突して日清戦争が始まった。

 戦場は朝鮮のほか,南満州などに広がり,陸戦でも海戦でも日本は清に圧勝した。日本の勝因としては,軍隊の訓練,規律新兵器の装備がまさっていたことがあげられるが,その背景には,日本人が自国のために献身する「国民」になっていたことがある。

下関条約と三国干渉

 1895(明治28)年,日清両国は下関条約を結び,清は朝鮮の独立を認めるとともに,日本政府の財政収入の3倍に当たる賠償金3億円を支払い,遼東半島と台湾などを日本に割譲した。

 しかし,日本が簡単に列強と対等になることは許されなかった。東アジアに野心をもつロシアは,ドイツ,フランスを誘って,強力な軍事力を背景に,遼東半島を中国へ返還するよう日本に迫った(三国干渉)。清を破ったとはいえ,独力で三国に対抗する力をもたない日本は,やむをえず,一定額の賠償金と引きかえに遼東半島を手放さねばならなかった。日本は,中国の故事にある「臥薪嘗胆」を合言葉に,官民挙げてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになった。

 日清戦争は,欧米流の近代立憲国家として出発した日本と中華帝国との対決だった。「眠れる獅子」とよばれてその底力をおそれられていた清が,世界の予想に反して新興の日本にもろくも敗れ,古代から続いた東アジアの中華秩序は崩壊した。その後,列強諸国は清に群がり,たちまちそれぞれの租借地を獲得し,中国進出の足がかりを築いた。
(「市販本 新しい歴史教科書」扶養社 p218-219)

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清国の「分割」

 日清講和条約で日本が清国から遼東半島をうばうということになるやいなや、ロシアを中心にフランス・ドイツが手をむすんで強くこれに反対した。よく知られている三国干渉である。これまで列強がおこなってきた清国周辺の地域や「属国」をうばうというのとはちがい、清国本土そのものに手をつけるということになると、たちまち列強の強い反発にあったのである。その意味でこの問題は、清国本土の分割競争の序曲ともいえる事件だった。

当時の日本はもちろんこれに単独で対抗する力をもってはいなかった。そこで「臥薪嘗胆」をスローガンに、いっそうの軍備拡大による「力」の強化にすすんでいくことになる。しかし、清国の周辺地域や「属国」の列強による分割が完了したいま、清国本土の分割競争がおこるのはもはや時間の問題だった。

 一九世紀末期には、すでに欧米列強の資本主義は、重工業の発展を基礎に独占資本主義といわれる段階にはいり、単に商品の輸出だけでなく資本の輸出をも重要な課題にしはじめていた。この過程は、同時にイギリスが「世界の工場」といわれた時代がおわり、アメリカ、フランス、ドイツそしてロシアなどが経済的にも強国として登場した時期でもあった。

だからイギリスがその経済力を基礎に、軍事的にも政治的にも独占的に世界を支配できた時代がおわり、いくつかの強国がそれぞれに「世界政策」をたてて、地球上のすべての地域をたがいに分割し、支配することを目ざしはじめた。経済的な利益のためだけでなく、軍事的・政治的な目的のためにさまざまな地域を支配下におさめようとするばかりではない。相手を強めないためにあらかじめ手をうっておくという意図からさえ支配地域の拡大をはかる。

こうして列強が世界を分割して、それぞれに勢力のおよぶ地域を支配する時代、つまり「帝国主義の時代」がはじまったのである。事実この時期までに、アフリカや太平洋諸島の分割競争は一段落を告げており、残された最も大きな地域が清国であったという事情からも、清国自体の分割が列強の日程にのぼってこざるをえなかった。

 口火を切ったのはドイツだった。一八九七年一一月、山東省でドイツ人宣教師が殺された事件をきっかけに、ドイツは軍艦を派遣して膠州を占領し、翌年三月にはそこを「租借地」として支配することを清国に認めさせた。ロシアも遅れてはならぬとばかりに、旅順・大連の「租借」を清国に認めさせた(同月)。つづいてイギリスは六月に九竜半島と香港周辺の地域を、七月には威海衛を「租借地」とした。少し遅れて一八九九年一一月にフランスは広州湾を「租借地」とした。こうして清国の重要な港湾地域があいついで列強の支配地域となっていった。

 もう一つ清国を重大な危機におとしいれたのは、清国の国家財政が列強からの借款(外国から資金を借りること)によって支配されはじめたことである。

 清国の借款は以前からあったが、それが一挙に増大してその返済が国家の財政を大きく圧迫しはじめたのは、目清戦争の戦費と賠償金のために多額の外債の借入をおこなわざるをえなくなったからである。この借款を与えることについてもロシアとイギリスと、が激しく争い、ドイツやフランスもそれに加わった。そして借款を与えることとひきかえに、清国内に鉄道を敷き、鉱山を開発するなど各種の権益を手にいれていった。こうして清国における列強の「勢力範囲」が形成されていく。

 こうなると、日本の対朝鮮政策もこの清国をめぐる列強の動きときりはなして計画したり、実行することは不可能になった。

「朝鮮侵略」と「中国侵略」の「結合」

 日清戦争によって日本は朝鮮から清国の勢力を追いはらったが、たちまちいっそう強力なロシアとの対立に直面した。

 日清戦争の直後、日本は朝鮮での政治的支配を一挙に強めようと、これまでしばしば清国とむすんで日本に対抗した閔氏一族を主とした朝鮮政府内の「守旧派」を残らず追いはらおうとくわだて、その中心となる国王の妃、閔妃を駐在日本公使三浦梧楼みずからが指揮して王宮におそい殺害するという事件をおこした(閔妃殺害事件)。事件は朝鮮民衆の怒りをかったばかりでなく、列強からも非難をあびたが、三浦は広島での軍法会議で証拠不充分ということで免訴となり事件はもみ消された。

しかし、この事件によって危険を感じた国王はロシア公使館に身をよせ、宮廷貴族のなかでも親露派が主流をしめることになった。三浦にかわった小村寿太郎は「天子を奪われて万事休す」となげいた(外務省編『小村外交史』)。ロシアは勢いに乗じて日本に朝鮮問題をめぐって協定をむすぶようせまった。小村=ウエーハー協定と、山県=ロバノフ協定とよばれるものがそれである。いずれもロシアの政治的優位を日本が認めた内容となっている。

ロシアは、朝鮮に軍事顧問や財政顧問を送りこみ、露韓銀行の設立を計画し、ロシアの歴史家ロマノフの表現をかりれば「朝鮮を、完全に併合するまでの間の捷路(しょうろ)を、発見した」のである(ベ・ア・ロマノフ著、山下義雄訳『満州に於ける露国の利権外交史』)。

 この事態に一つの転機をもたらしたのは、先に見た一八九八年の清国分割競争の進展である。日本はこの機会に朝鮮での影響力の復活をはかろうとロシアとの交渉をすすめ、ロシアの旅順・大連占領を認めることとひきかえに朝鮮での日本の勢力回復をロシアに要求した。交渉は決して日本の思惑どおりにはすすまなかったが、結論的にはロシアの顧問団が朝鮮から引きあげ、日本にとっての朝鮮の「商工業上」の重要性をロシアに認めさせることには成功した(西=ローゼン協定)。つまり朝鮮問題と中国問題とをむすびつけ、列強の「世界政策」との関連を見通して処理していくのである。

 同じ手法は、他の分野にも現れている。イギリスの威海衛占領にあたっては、日清戦争の賠償金支払いの担保として一時占領していた日本が、兵舎などをそのままに残し、清国政府に対してイギリスヘ分けあたえるようにすすめた。

 その一方で日本は列強の網の目をぬって、清国に対して、まだだれも直接には手をつけておらず、しかも植民地台湾の対岸にあたる福建省を第三国へは分けあたえないという約束をさせ(福建不割譲条約)、この地域での鉄道敷設について日本の優先権を認めさせた。つまり、北方では朝鮮を確保して、さらに中国東北地域をうかがい、南方では台湾を拠点に中国南方から東南アジア方面にも進出のチャンスを考えるという政策を展開した。
(井口和紀著「朝鮮・中国と帝国日本」岩波ブックレット p22-24)

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◎「列強が世界を分割して、それぞれに勢力のおよぶ地域を支配する時代、つまり「帝国主義の時代」がはじまった」……。

1889年2月11日  明治憲法発布
1890年10月23日 教育勅語発布