学習通信050419
◎「人間社会の歴史は、力による解決を不合理であると」……。

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法のもとにおける自由と平等

人権と人権の衝突

 すべての人間の権利を同時に守ることはかんたんなことではない。人権を自由権と平等権に限ったとしても,これらの権利を万人に保障することはむずかしい。

 例えば,交通信号がない交差点の大混乱のようすを思い浮かべてみよう。そうした混乱の中では,誰かの通行の自由は実現されても,他の者の通行の自由は実現されない。通行の自由に関しての人権と人権が衝突するのである。ましてや,人間には自由権があるからといって,他人の生命や財産をうばうことが許されてよいはずはない。

 あるいは,多数の人間で議論をするときに,一人が続けて発言すれば,その人の発言の自由は実現されているが,他の人の発言の自由はうばわれてしまう。つまり,議論の参加者の間での発言の平等が失われてしまうのである。この場合は,発言の平等に間しての人権と人権が衝突する。

必要な法の尊重

 このように,社会を維持し人々の人権を守るには,憲法から道路交通法にいたるさまざまな法をつくり,それらの法を守るためのさまざまな仕組み(警察,裁判所など)をつくらなければならない。つまり,現実社会において,各人の自由と平等を守るには,法をつくり,その法に従って社会運営を行わなければならない。人権の尊重は,現実には法の尊重を前提として実現される。いいかえれば,現代社会における自由と平等は,法のもとにおける自由と平等として実現されるわけである。

道徳の大切さ

 しかし,実は,法をつくるだけでは十分ではない。実際に法が守られるためには,警察や裁判所などの力だけではなく,法を守り,自分の自由をある程度までは犠牲にしてもやむをえないという心がまえが人々にあらかじめ備わっていなければならない。誰も見ていなければ何をやってもよい,あるいは,捕まりさえしなければ法にふれてもかまわない,と多くの人が思うようになれば,社会は遅かれ早かれ混乱し,衰退するであろう。
 私たちは,社会を守り人権を守るためにも道徳という精神の力を大切にしなければならない。
(「市販本 新しい公民教科書」扶養社 p33-34)

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法とはどういうものか

ルールとしての法

 憲法の問題を考えるまえに、そもそも法とはいったいどういうものであるのかということについて考えてみます。まず、法はルールの一つです。そこでまず「ルールとしての法」ということを考えてみる必要があります。

 どういう社会にもルールがあります。何のためにルールがあるのでしょうか。もしルールがなければどういうことになるのでしょうか。

 たとえば社会の中で争いが起こった場合に、ルールがなければ直接、実力の争いになります。こうなると動物の世界と同じで、弱肉強食ということになり、強い者が勝ちを占めます。しかし、こういう関係は、動物と異なる人間の社会にとっては望ましくない、合理的でないということになりますから、実力によって問題を解決するのではなくて、むしろ実力を行使しないで、ルールをつくって、ルールによって問題を解決するということが必要になってきます。

だからルールというものは、力の弱い者の利益のためにあるというところに本質的な意義があるのです。ルールがなければ強い者が勝つに決まってしまいますから、ルールを設けることによって弱い者の利益を守る必要があるというのが原則的な考え方です。

たとえば子どもの間でブランコにのるということで、もめごとが起こってけんかになった場合に、ルールがなければそこでなぐり合いになり、腕力の強い子ども、押しの強い子どもが勝ち、腕力の弱い子、おとなしい子は泣き寝入りしてしまう以外にありません。それではかわいそうですから、じゃんけんで順番をきめるとか、一人二分ずつ乗ったら交代するとか、何らかのルールを設けて、そのルールに従って解決をしなさいということにすれば、腕力の弱い子どもでもブランコに乗ることができます。

 学校でも、たとえば暴力を振るう学生・生徒が授業を妨害すれば、おとなしい学生・生徒たちは、実力ではそれに対抗できません。学校の規則というものは、学校における研究・教育が十分に行なわれるように、学校の秩序をたもつためのものです。

ルールは弱い者の利益を守るためにある………*

 あるいは交通規則をとってみても、いまは車社会ですから、もし道路交通のルール、つまり、赤信号も青信号もないとなれば、車が走ってくれば危くて、人間(歩行者)は安心して道路を渡ることもできません。車のほうが人間よりも強いですから、信号は車の動きを制限して、人間の交通の安全をはかるという意味で、本来、人間のためにあるわけです。私のイギリスの経験では、人は、信号が赤でも、あたりに車がなければ、平気で道を渡ります。車は赤なら絶対とまらなければなりません。

信号というものは車を阻止するためにあるのであって、人間を阻止するためにあるのではない、言いかえれば、信号規則というものは車から人間を守るためにあるのである、つまり弱い者のためにあるのだという考え方が日本より徹底しているように見受けられました。

 全然別な例をあげてみますと、国際社会のルールは国際法といわれますが、国際法は何のためにあるかといえば、これは小国の利益のためにあります。

 つまり大国はなにかもめごとが起こった場合に、力が強いから自国の利益のために力でもって解決をしたがります。しかし力による解決にまかせれば小国の利益がいつも失われます。戦争ということになれば大きな犠牲もでます。それでは困るというので、小国の利益のために国際社会のルールとしての国際法が必要となります。このように、国際法は小国の利益のためにあるといってよいのです。だから大国はしばしばルールを無視したがります。

 以上、いくつかの例をあげましたが、要するに人間社会の歴史は、力による解決を不合理であるとみとめて、ルールによる解決へという方向に、進んできたのです。このルールによる解決ということがうまくいくためにはどうすればよいでしょうか。それにはお互いに力を行使しないこと、そしてお互いに対等の立場に立ってルールに服するということを承認しあうことが必要です。法というものも、やはりルールの一つですから、本来、法は社会的に力の弱い者の利益のために存在しなければならないという考え方から出発する必要があります。これを、「ルールとしての法」と呼んでよいと思います。

法は他のルールとどこが違うか……*

 人間の社会にはいろいろなルールがあります。法も一つのルールであるといいましたが、では他のルールとはどういう点が違うのでしょうか。

 ひとつは、法というルールは権利と義務に関するルールであるということです。そこで法の問題は、権利が中心になっているということを理解する必要があります。世の中には、法のほかに、いろいろなルールがあります。たとえば宗教、道徳、習俗など、人々が服さなければならないと思っている義務の規範があります。朝起きたら、あいさつをしなければならない≠ニいうことは慣習上のルールですが、この場合、相手方は、「おはよう」と言いなさいということを要求する権利をもっているわけではありません。ここには義務だけがあって権利はないのです。

日本の社会では、贈物をもらった人はお返しをしなければならないという習俗上の義務があります。これも、贈物を上げた人の側に、お返しを要求する権利があるわけではありません。贈物を上げた人は、「そろそろ、お返しがあってもいい頃だ」と心の中で期待するのはかまいませんが、相手がお返しをよこさないときにいつまでにお返しをよこしなさいということを要求する権利はありません。

 宗教や道徳の場合にも、たとえば、「汝の隣人を愛せよ」という義務の規範はありますが、隣人に対して「私を愛せよ」という愛情請求権があるわけではありません。

法は権利と義務のルール………*

 しかし法というルールの場合には、法律上の義務に対応して必ず権利があるのが特徴です。だから「法は権利と義務のルールである」といってもいいでしょう。権利のない法というものはありません。その意味で、法は、これをおもてからみれば「権利の体系」であり、またうらからみれば、「義務の体系」です。

 たとえば子どもの、親に対する義務は、親の方からみれば、子どもに対する権利です。夫の、妻に対する義務は、妻の方からみれば夫に対する権利ということになります。このようにAとBとの関係は、一方からみれば義務、他方からみれば権利ということになるわけです。権利のない義務はないし、義務のない権利はないということが法というルールの一つの特徴です。

 権利と義務の関係が成立をするためには、お互いが対等でなければなりません。親子の関係ということについていえば、親子は対等であるということを前提として、親の子どもに対する権利義務も出てきます。昔は親と子は対等でありませんから、子どもが何か言えば、親からすれば子どものくせに何事だということになります。夫婦も対等でなかったので、妻が何か言えば、女のくせに何事だということになります。この場合には、夫の方が上である、親の方が上であるという身分的な上下の関係がありました。そういうところでは権利は出てきません。

 使用者と労働者の関係でも、使用者と労働者とは人間として対等であるという考え方にならなければ、労働者の、使用者に対する権利は出てきません。昔は、労働者が要求を出しただけで、あれはアカだ、とさえいわれました。つまり資本家と労働者とが、対等な市民として扱われない社会では、使用者と労働者の関係は権利義務の関係にならないわけです。

 国家と国民の関係でも同じことです。国家と国民の関係が法関係になるということは、国家と国民が対等であるということを前提としています。ところが昔は、国家と国民は対等だとは考えられていません。日本流の昔からのことばで言えば国家は「お上」です。だから人民は「下下(しもじも)」になるわけです。国家と国民の関係は上下関係ですから、国民が国家に対して権利を主張するということはとんでもない、というのが明治憲法の考え方でもありました。この点はのちにくわしくのべます。

いまの憲法はもちろん、すべて、法のもとにおける平等ということを確定しましたから、親子の間も、夫婦の間も、労働者と使用者の間も、国家と国民の間も、すべて、対等な権利義務関係=法関係となりました。言ってみれば明治憲法下の日本では、「法律」はあったけれど、権利義務という意味での「法」はなかったと言ってもいいのです。いまの憲法になってはじめて「法」が出てきたということになります。
(渡辺洋三著「憲法のはなし」新日本新書 p25-32)

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◎「資本家と労働者とが、対等な市民として扱われない社会では、使用者と労働者の関係は権利義務の関係にならない」と。