学習通信050422
◎日本は「一等国」に = 日本は「普通の国」に……。

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日露開戦と闘いのゆくえ

 ロシアは,日本の10倍の国家予算と軍事力をもっていた。ロシアは満州の兵力を増強し,朝鮮北部に軍事基地を建設した。このまま黙視すれば,ロシアの極東における軍事力は日本が到底,太刀打ちできないほど増強されるのは明らかだった。政府は手遅れになることをおそれて,ロシアとの戦争を始める決意を固めた。

 1904(明治37)年2月,日本は英米の支持を受け,ロシアとの戦いの火ぶたを切った(日露戦争)。戦場になったのは朝鮮と満州だった。1905年,日本陸軍は苦戦の末,旅順を占領し,奉天会戦に勝利した。

 ロシアは劣勢をはね返すため,バルト海を根拠地とするバルチック艦隊を派遣することを決めた。約40隻の艦隊は,アフリカの南端を迂回し,インド洋を横切り,8か月をかけて日本海にやってきた。東郷平八郎司今長官率いる日本の連合艦隊は,兵員の高い士気とたくみな戦術でバルチック艦隊を全滅させ,世界の海戦史に残る驚異的な勝利をおさめた(日本海海戦)。

世界を変えた日本の勝利

 日本海海戦に勝利したとき,日本はすでに,外国からの借金と国債でまかなった,国家予算の8年分に当たる軍事費を使い切っていた。長期戦になれば,ロシアとの国力の差があらわれて形勢が逆転するのは明白だった。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは,日本にもっとも有利な時期を選んで,日露間の講和を仲介した。

アメリカのポーツマスで開かれた講和会議の結果,1905(明治38)年9月,ポーツマス条約が結ばれた。この条約で日本は,韓国(朝鮮)の支配権をロシアに認めさせ,中国の遼東半島南部の租借権を取得,南満州にロシアが建設した鉄道の権益をゆずり受け,南樺太の領有を確認させた。一方,賠償金を得ることはできなかったので,戦争を続けようにも国力が限界に達しているという事情を知らない国民の一部は,これを不満として暴動をおこした(日比谷焼き打ち事件)。

 日露戦争は,日本の生き残りをかけた壮大な国民戦争だった,日本はこれに勝利して,自国の安全保障を確立した。近代国家として生まれてまもない有色人種の国日本が,当時,世界最大の陸軍大国だった白人帝国ロシアに勝ったことは,世界中の抑圧された民族に,独立への限りない希望を与えた。しかし,他方で,黄色人種が将来,白色人種をおびやかすことを警戒する黄禍論が欧米に広がるきっかけにもなった。
(「市販版 新しい歴史教科書」扶桑社 p222-223)

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日露戦争

 義和団鎮圧戦争はこうして一段落ついたが、大軍を中国東北地域(当時「満州」といった)に送りこんだロシアは、その撤兵をおこなわずに居すわりつづけ、この地域を事実上占頷下において支配の強化をはかった。ここに朝鮮の支配を確立し、イギリスとの軍事同盟を後ろだてに北方へ進出をはかる日本とロシアとの間の対立はぬきさしならないものとなった。

 日本とロシアとの戦争は一九〇四(明治三七)年二月八日、日本の先制攻撃によってはじまった。

 この日露戦争は朝鮮と中国東北地域を戦場にした、日本とロシアの侵略の野望を争った戦争である。規模も一〇年前の日清戦争とはまったくことなり、その時期の世界的水準の近代兵器によって武装された陸海軍の戦闘となった。

 この戦争を通じて日本は、大韓帝国の「厳正中立」の宣言をまったく無視して、まず朝鮮半島全域を完全に軍事的な支配下におき、つぎつぎと条約をおしつけ、韓国の「併合」にいたる政策を実行に移していった。また、ロシアにかわって占領した中国東北地域でも「占領地」として軍事支配をおこなった。

 一方、この戦争は直接にはロシアと日本の戦争ではあったが、日本の背後にはイギリスとアメリカがあり、ロシアの背後には同盟関係のフランスがあり、ドイツはその間にあって双方を見ながら自己の勢力拡大をはかるという態度をとった。その意味では世界の列強が二大陣営に分裂して争う前段階の様相をもっていた。

とくに莫大な戦費を集めることができるかどうかは、これら列強の思惑にかかっていた。戦費のなかば以上を外債にたよっていた日本は、イギリスやアメリカでの外債募集の成否に戦争の継続がかかっていたし、ロシアもフランスの資金援助ぬきには戦争をつづけることは不可能だった。しかもフランスは戦争がはじまった直後に、早くもイギリスとの協商にふみ切っていた(一九〇四年四月)。

この戦争のなか、ロシアでは一九〇五年一月、革命運動がおこった。ロシアが完全にくずれることを恐れたヨーロッパ列強が戦争を終わらせる方向に動きはじめたとき、日本もすでに兵器・弾薬は底をついていたから、結局アメリカ大統領セオドア=ルーズベルトの仲介で調停がすすみ、戦争はいちおう日本の勝利というかたちでおわった。

 講和条約で、日本は韓国に対する「保護・監督」の権限をロシアに認めさせ、ロシアの経営した東清鉄道の長春以南の経営権をうばい、南満州鉄道として日本の経営・管理下におき、その付属地を支配することとなった。本来これは清国が認めなければ意味のない日露両国の勝手な取りきめだったが、これと旅順・大連の租借も日本は清国に否応なく認めさせた。また、ロシアからはサハリン(樺太)の南部をうばい日本の植民地にした。

「列強」の一つとなった「日本」

 こうして日清・日露戦争をへて、東アジアにおいても「西欧型国際秩序」は、結局のところ列強が世界政策を基礎に、植民地や従属地域の民族的な抵抗や反乱をおさえながら、たがいに同盟を結び、次第に二大陣営に分裂していく「帝国主義」時代の「国際秩序」へと展開していった。日本はイギリスと軍事同盟をむすんで明確にその一方に加わり、それによって朝鮮・中国に対する侵略政策をすすめていくという、「帝国主義」外交の基本路線を確立していった。そして日露戦争の勝利によって日本はこれら列強のなかでも、東アジアの地域では最も能動的な動きを示す国家になった。

 日露講和条約に前後して、日本は欧米列強と重要な意味をもつ条約をむすんだ。

 まず、講和条約直前の七月、首相桂太郎はアメリカの陸軍長官タフトとの間で会談し、一つの合意に達した。ふつう「桂=タフト協定」とよばれているこの合意の内容は、「極東の恒久平和に貢献」するという名目で、アメリカは日本が朝鮮に対する「保護権」をうちたてることを認めるかわりに、日本はアメリカのフィリピン支配を認めるというものである。ついで八月には日英同盟を改定した。

 この第二回日英同盟では、同盟の適用範囲をインドにまで拡大してイギリスのインド支配の安定に日本が協力することとひきかえに、日本が「指導、監督及保護ノ措置ヲ韓国二於テ執ルノ権利」をイギリスに認めさせた。

 さらに一九〇七(明治四〇)年六月にはフランスと協約をむすんだ。この日仏協約は、日本がフランスのインドシナ支配に協力することを約束して、日本の戦後経営にフランス資本の協力を得ようというものであった。

 そして七月には第一回日露協約を成立させた。これは、戦後手にした「南満州」の支配をめぐってアメリカとの競争と対立が表面化しはじめたことに対抗して、同じ「満州」(北部)支配に力をこめていたロシアと手をむすんでその防衛をはかるもので、「満州」における勢力範囲を分割しあうとともに、日本が「外蒙古」におけるロシアの「権益」を認めて、両国が協力関係を維持しようというものだった。

 この年の八月には、ペルシャ、アフガニスタン、チベットなどをふくめた広大な地域におけるイギリスとロシアとの勢力範囲を確定し、利害の調整をおこなった英露協商が成立している。

 こうして日露戦争がはじまった直後にむすばれた英仏協商とあわせて、イギリス、フランス、ロシアのいわゆる三国協商に日本もそれぞれ同盟や協約をむすんでつながった。第一次世界大戦を戦う二大陣営の一方に完全につらなったわけである。

 同時にこれは、アジアの国ぐにを欧米列強と共同して分割し支配する道を日本が積極的にえらんだことを意味していた。そうすることによって一九〇五(明治三八)年一一月には韓国を「保護国」とし、一九一〇(明治四三)年にはこれを「併合」して、完全な日本の植民地として支配することになる。

 日本の派遣する外交使臣が欧米の大国で公使から大使に昇格したのは、一九〇五年一二月のイギリスにはじまって一九〇八年までの間にアメリカ・ドイツ・フランス・イタリア・ロシアなどでもあいついで大使へと昇格し、日本はそれらの国ぐにに公使館にかえて大使館を開設した。

 それにもかかわらず日本が中国の公使館を大使館にかえたのは一九三五(昭和一〇)年のことで、それは日本の中国に対する差別政策の現れにほかならなかった。

 このような地位と役割を占めたことで、日本は「一等国」になったと自負したが、それは以後の世界戦争や植民地支配に歴史的責任をもたねばならぬ当事者になったことを意味している。
(井口和起著「朝鮮・中国と帝国日本」岩波ブックレット p28-33)

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◎「日本はイギリスと軍事同盟をむすんで明確にその一方に加わり、それによって朝鮮・中国に対する侵略政策をすすめていくという、「帝国主義」外交の基本路線を確立していった」と。