学習通信050424
◎「つまり大韓帝国を廃滅して日本帝国の一部とすること」……。

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韓国併合
 
 日露戦争後,日本は韓国に韓国統監府を置いて支配を強めていった。日本政府は,韓国の併合が,日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた。イギリス,アメリカ,ロシアの3国は,朝鮮半島に影響力を拡大することをたがいに警戒しあっていたので,これに異議を唱えなかった。こうして1910 (明治43)年,日本は韓国内の反対を,武力を背景におさえて併合を断行した(韓国併合)。

 韓国の国内には,一部に併合を受け入れる声もあったが,民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり,その後も,独立回復の運動が根強く行われた。

 韓国併合のあと,日本は植民地にした朝鮮で鉄道・潅漑の施設を整えるなどの開発を行い,土地調査を開始した。しかし,この土地調査事業によって,それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく,また,日本語教育など同化政策が進められたので,朝鮮の人々は日本への反感を強めた。
(「市販本 新しい歴史教科書」扶桑社 p240)

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韓国「併合」

 台湾領有が日清戦争とひとつながりの戦争であったとするなら、日本による韓国「併合」(「大韓帝国」の「廃滅」)は、その直接の第一歩が日露戦争の開戦と同時にはじまり、戦後もつづく日本軍による武力占領としておこなわれた。

 日露戦争をはじめるとき、日本がとった作戦の大前提は、まず朝鮮半島を軍事的に制圧して、ロシアとの戦争の基地として確保しておくことだった。一八九六年の二つの日露協定以来韓国に駐留していた日本軍は、開戦直前の一九〇三(明治三六)年一二月にソウルに韓国駐さつ隊司令部をおいて、韓国内の全部隊を統率させていた。そして、開戦の一ヵ月ばかり前から早くも戦争準備の活動をはじめていた。開戦と同時にやってくる予定の韓国臨時派遣隊を仁川に上陸させるために、さまざまな調査と設備や物資をととのえておくことを目的に軍人を派遣したほか、三井物産に物資を買いつけさせたり、変装した徴発隊を送りこんでいた(『朝鮮駐さつ軍歴史』、金正明編『日韓外交資料集成』別冊)。

 二月四日、いよいよ日露の国交が断絶し、六日に韓国臨時派遣隊が佐世保港を出帆すると、韓国監視隊司令官はこれをむかえるための設備、宿営、鉄道輸送などの準備を命じ、またロシアに通じる韓国内の主な電信線を切ったり、いくつかの韓国の電信機関を占領した。日本軍は、韓国政府が出していた「厳正中立」の宣言をまったく無視したのである。そして二月八日、仁川沖の日露海軍の砲撃戦から日露戦争がはじまった。

 韓国駐さつ隊は韓国駐さつ軍に格あげされ、参謀本部に直属する独立の軍となり、韓国の治安の維持と、中国東北地域でロシア軍と戦う作戦軍の後方を確保するための活動を受けもった。そのために、韓国駐さつ軍は軍律を出して、韓国民衆をこれに従わせた。軍律による支配とは、日本軍に不利益な行動をとった韓国民衆を、日本軍が出した命令によって日本軍が処罰するというものである。

最初は、韓国内の重要な電信線と軍用鉄道の保護を目的に、かぎられた地域に軍律による支配をおこなったが、やがてそれ以外に軍隊の建物や設備に損害を与えたり、軍需物資をうばったりすること、さらに日本軍の行動への妨害やスパイ活動はもちろん、ついには集会や新聞・雑誌で秩序を乱したということさえも、この軍律で取りしまる対象とし、地域も韓国全域に拡大した。しかもこの軍律による韓国民衆に対する支配は、ロシアとの戦争が終わったのちにも韓国に残った二個師団の日本軍によってつづけられた(前掲『朝鮮駐さつ軍歴史』)。

 戦争がはじまると、日本は韓国政府にせまって二つの大きな条約をむすばせた。一つは、二月二三日の日韓議定書で、それは戦争をすすめるのに日本軍が必要とする土地を収用したり、韓国内での日本軍の行動の自由と韓国政府の協力を認めさせたものである。もう一つは、八月二二日の第一次日韓協約で、韓国政府に財政顧問として日本人を、外交顧問として日本政府の推薦する外国人をやとうことを認めさせたものである。日本は、この顧問をつうじて韓国政府を動かし、政治に干渉していく。いわゆる顧問政治である。

 ついで戦後、一九〇五(明治三八)年一一月一七日、第二次日韓協約、ふつう保護条約といわれる条約を韓国政府に調印させ、韓国の外交権をすっかりうばってしまった。つまり韓国は独立した外交関係を他の外国ともつことはできなくなり、韓国の外交はすべて東京の日本外務省がおこなうということになる。そのために翌年の二月に首都ソウルに開設された日本の機関が韓国統監府で、初代統監になったのが伊藤博文だった。

 統監は、日本人官吏や韓国政府に雇われている日本人顧問を監督する権限ももち、伊藤は着任早々に国王に謁見して、韓国の政治改革の必要性を説き、そのために「韓国施政改善二関スル協議会」を開くことをきめた。これは統監のもとに韓国政府の閣僚を集めて会議を開き、さまざまな政策の実行をきめるもので、一九〇六年三月から一九〇九年一二月末までに九七回も開かれた。平均すると二週間に一回の割合で開かれたことになる。韓国内から外国の資本を追いだして、日本の資本が独占的に鉱山開発をできるようにした鉱業法の制定などもここで検討された。つまり外交だけでなく、実際には韓国の内政にも介入し、顧問を通じての支配をいっそう強めたのである。

 韓国の貨幣制度はかえられ、日本の貨幣制度に合体させられた。東洋拓殖株式会社という国策会社をつくって、韓国経済の支配権もにぎっていった。

 こういう日本のやり方に韓国の民衆はもちろん抵抗したり、反対の意思を現した。鉄道建設に強制的にかりだされて働かされることを拒否したり、土地の取りあげに反対して座りこんだりすることは、戦争中にもおこっていたが、とくに保護条約ののちには、次第に組織的な武装蜂起がひろがっていった。義兵運動といわれるのがそれである。

 一九〇六年に忠清道や全羅道で、閔宗植や崔益鉉らの指導する大規模な義兵の蜂起がおこり、以後一九〇八年をピークに、一九一一年までの間に、日本軍側の史料によっても二八五二回の蜂起に一四万人以上もの民衆が参加し、蜂起は朝鮮全土にひろがった。

 一方、国権の回復をめざして教育をひろめ、産業の発達をめざそうという動きも生まれた。さまざまな名称の「学会」や政治団体が組織され、とくに数多くの私立学校がつくられ、民衆に愛国心を育てる教育がおこなわれた。この運動は愛国文化啓蒙運動とよばれているが、このなかで韓国の近代化をめざす開化思想はいっそう深く民衆のなかにひろがった。文明開化を主題とした新小説や、愛国と民権をうったえた政治小説がひろく読まれ、口語体で自由な形式でつくられた唱歌も流行した。近代朝鮮の国民文化の形成がすすんだ時期ともいえる。

 国王や宮廷の官僚たちのなかにも、日本の侵略を世界にうったえて助けをかりようという動ぎが現れた(一九〇七年)。オランダのハーグで開かれた万国平和会議に国王の文書をもった使者をひそかに参加させようとしたのはその一つだった。日本はこれを「ハーグ密使事件」とよび、この事件の責任を追及して国王を交代させ、さらに第三次日韓協約をむすばせて、今度は完全に韓国政府の内政権までうばった。政府の各部(日本流にいえば省)には日本人が次官として入りこむ。

顧問政治から次官政治にかわった。そしてこの条約調印の直後に韓国軍隊を解散させた。これに反対して軍人の蜂起がおこり、この軍人たちが義兵に加わったことから、義兵運動のピークが一九〇八年になったのである。

 こういう動きのなかで、伊藤博文がロシアに向かう途中、中国東北のハルビンで安重根(アンジュングン)に射殺された。この事件自体はかなり謎が多く、伊藤にあたった銃弾は安重根の撃ったピストルの弾ではなく、別のところから誰かが撃った銃弾ではないかというような意見もある。しかし、安重根がこの事件の中心人物の一人であったことはまちがいなく、また彼は、自分はテロリストではなく、義兵の将であり、軍人としてあつかわれるべきで、暗殺者として刑法でさばかれるのは不当であると主張した。公判では、東洋平和のためにこそ伊藤を襲撃したのだと主張している。

 義兵運動をはじめとしたこの韓国民衆の強い抵抗をおさえたのは日本軍だった。戦後も引きあげることのなかった日本軍がさらに増強されて軍事的に鎮圧する。相手がゲリラ闘争というかたちをとっているため、軍隊を朝鮮全土に分散させて配置したり、憲兵を強化し一部の韓国人をその補助員にして、情報の収集や鎮圧作戦をたてたりした。

 こうして朝鮮全土を日本の安定した支配下におこうとすれば、韓国の国王から民衆にいたるあらゆる抵抗の根を断つほかない、だとすれば結局、韓国全土を日本領土とする以外にない、つまり大韓帝国を廃滅して日本帝国の一部とすることである。これが一九一〇(明治四三)年八月二二日の「韓国併合二関スル条約」の調印、つまり韓国「併合」である。調印の日にはできるだけひっそりと日本軍をソウルの南部の竜山に集結させていたということからもわかるように、韓国「併合」は日本の韓国武力占領であったといえる。

 こうして、韓国の人びとから見れば、日露戦争は韓国侵略の戦争であり、しかもそれは一九〇五年におわったのではなく、その後も「併合」の時期までつづいたのである。

 前の章で述べたように、列強と「共同」してたがいにアジアの勢力範囲を「分割」しておいて、自分の勢力範囲として列強から「承認」された地域では、思うままに武力をつかって、ついには自国の領土としてしまう、このやり方のなかに、典型的な帝国主義の対外政策の姿を見ることができる。
(井口和起著「朝鮮・中国と帝国日本」岩波ブックレット p38-43)

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◎「ついには自国の領土としてしまう、このやり方のなかに、典型的な帝国主義の対外政策の姿を見ることができる」と。