学習通信050425
◎「植民地支配者の思い上がった傲慢さ」……。

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植民地支配には恩恵≠フ面があったのか

悪い面もあったが、よい面もあった≠ナすむのか

 歴史をゆがめる第三の角度は、『歴史教科書』が、朝鮮にたいする植民地支配の本質を、悪い面もあったが、よい面もあった≠ニする二面的な評価でごまかそうとしていることです。よい面≠ニいうのは、経済開発などの問題をあげて、そこには、進んだ国が、遅れた国にあたえる恩恵があったとする議論です。

 この議論は、併合にいたる過程の歴史記述のなかにも、色濃く出ていました。たとえば、『歴史教科書』は、開国後の日本の対朝鮮政策の基本が、朝鮮の近代化への援助にあったとして、次のように書いています。
「日本は、朝鮮の開国後、その近代化を助けるべく軍制改革を援助した。朝鮮が外国の支配に服さない自衛力のある近代国家になることは、日本の安全にとっても重要だった」──217頁

 これは、明治政府の意図をもゆがめた明らかな歴史の書き換えです。日本政府は、韓国併合の前年、一九〇九年七月の閣議決定「韓国併合に関する件」のなかで、「韓国を併合し之を帝国版図の一部」とすることは「帝国百年の長計」だった、と明言しています。つまり、明治政府が成立して開国要求を突きつけた最初から、朝鮮の「近代化」への善意の援助どころか、朝鮮(韓国)の併合を大目的としていたと、自分で告白しているのですから。

 このゆがんだ評価は、韓国併合後の朝鮮の状態の叙述にも引きつがれてゆきます。

「韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道・潅漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した。しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、日本語教育など同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた」──二四〇頁

 これは、悪い面もあったが、よい面もあった§_の典型です。文章のしくみからいうと、「鉄道・潅漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した」というよい面≠フ方が主文で、耕作地から農民が追われたとか日本語教育ほかの同化政策などの悪い面≠ヘ補足文です。朝鮮(韓国)が主権と独立を奪われて、他国の支配のもとにおかれたという植民地化の核心については、まったく触れられていません。

 だから、文章の全体から受ける印象は、日本の朝鮮支配は、経済面では朝鮮の発展に役立った。しかし、部分的には、まずいこともあったのだな≠ニいう程度のことにならざるをえないでしょう。

三十六年前の高杉発言≠思い出す

『歴史教科書』のこの文章を読むと、一九六五年の日韓交渉のさいの高杉発言を思い出します。この交渉で日本側の首席代表となった高杉晋一氏(三菱電機相談役・当時)が、就任翌日の一月七日、外務省での記者会見で、日本の朝鮮支配について次のように語り、韓国側がこれに抗議して、交渉は一時決裂寸前の状態におちいったのでした。

「三十六年間、日本は朝鮮を搾取したわけではない。善意でやったわけである」
「あやまれというのはどうか──交渉は双方の尊厳と国民感情を傷つけないようにやらなければならない。国民感情としても、あやまるわけにはいかないだろう。

 日本は朝鮮を支配したというけれども、わが国はいいことをしょうとしたのだ。いま韓国の山には木が一本もないというが、これは朝鮮が日本から離れてしまったからで、もう二十年日本とつきあっていたら、こんなことにはならなかっただろう。……日本は朝鮮に工場や家屋、山林など、みなおいてきた。創氏改名〔筆者註・日本式の姓名をつけること〕もよかった。それは朝鮮人を同化し、日本人と同等に扱うためにとられた措置であって、搾取とか圧迫とかいったものではない」(日本ジャーナリスト会議「高杉発言の経過と内容──調査報告」より、同会機関紙『ジャーナリスト』一九六五年一月二十五日号)

 ここにあるのは、植民地支配者の思い上がった傲慢さそのものでした。
 経済の「開発」に貢献したからよいことをやった≠ニいう議論には、二重のごまかしがあります。第一は、他国を植民地化するということの根本的な犯罪性に、まったく目をつぶっていることです。第二は、日本が朝鮮で鉄道や工業の開発をおこなったのは、日本自身の利害、とくに朝鮮を中国侵略戦争の根拠地にするという必要からであり、日本がやったのは、全体としては、朝鮮の資源と労働力の略奪だった、という事実にも、目をふさいでいることです。

 日本政府は、一九六五年の日韓交渉のさい、いろいろ言い訳をしましたが、この高杉発言を取り消すことはしませんでした。私たちは、植民地支配を恩恵≠セとするこの議論が、植民地支配にもよい面があった≠ニいう多少形を変えた姿で『歴史教科書』のなかに再現していることを、見過ごすわけにはゆきません。
(不破哲三著「歴史教科書と日本の戦争」小学館 p97-101)

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植民地支配の特徴=「同化主義」

 ところで、台湾では「律令」といい朝鮮では「制令」という、総督が法律と同じ効力をもつ命令をだすということには、問題がなかったわけではない。

 大日本帝国憲法(明治憲法)は、植民地をもつことを前提として構想されたものではなかったから、初めて台湾を植民地にしたとき、憲法、がこの地域にも適用されるのかどうかが大きな問題となり、論争にもなった。とくに台湾総督が法律第六三号「台湾二施行スヘキ法令二関スル法律」で、法律と同じ力をもつ命令として「律令」をだす権限が与えられると、これは、法律を定めるには帝国議会の「協賛」を必要とするとした憲法の条項に違反するという強い批判がおこって、しばしば議会でも問題となった(六三問題)。

しかし朝鮮でも同じように総督は「制令」をだす権限をあたえられていった。憲法理論として影響力をもっていた美濃部達吉らの学説は、憲法の大部分が植民地にも適用されることを認めていた。また、行政当局もほぼ同じような考え方で法律的な処理をしたから、「律令」といい「制令」といっても、実際の運用は全体として見れば本国の法律を借用すること、が多かった。だから「はじめに」のところで、これら日本の植民地は本国である「内地」に対して「異法地域」である「外地」とよばれたと述べたが、必ずしもひどくちがった「異法」状態にあったわけではない。

 しかし、それだからといって、日本とほぼ同じようにあつかい、とくに「差別」したというわけではないのだから悪くはなかったのだと考えるのは、とんでもない誤りである。

 いずれも日本とは本来ことなった文化や習慣のなかで発展してきた長い歴史をもつ民族である。当然ことなった社会のしくみや慣習法をもっている。それらを無視して日本と同じものとしてあつかうことは、その民族性を無視して日本への「同化」を強制することを意味した。これは法律上のことばかりでなく、教育や文化の政策のなかにいっそうはっきりと現れている。

台湾でも朝鮮でも教育の基本的な目的は、天皇に「忠良ナル帝国臣民」を育てることにおかれ、日本語の習得や使用が強制されていった。また、日本の神道がもちこまれ、台湾で、は大国魂・大己貴・少彦名(いわゆる開祐三神として北海道でも祀られていた)と征服軍の司令官であった北白河官を祀った台湾神社を中心に、朝鮮では「併合」のときの天皇である明治天皇と天照大神を祀った朝鮮神宮を中心に、各地に神社をつくり、それに参拝することが強制される。

経済的にも、日本のためにその地域の特性にしたがって資源や食料がとりあげられていくばかりでなく、もともとの農業のやり方なども日本式の農業方法に強制的にかえられていった。たとえば一九二〇年代に朝鮮総督府によってすすめられた「産米増殖計画」は、その品種から栽培方法などすべて日本式のものを採用せよということであり、そのほか養蚕や養鶏など副業として奨励されたものも日本式の方法を強制するということであった。

 ひとことでいえば、「同化主義」が日本の植民地支配の基本的な特徴となっていた。

 ただしここでとくに注意しておかなければならないのは、「同化」ということは「同ー」とか「平等」とかいうことではないことである。

 帝国議会の議員の選挙権などは植民地の住民には与えられない。現在の日本国憲法は第一五条で普通選挙権を国民の基本的権利として保障することを明記している。しかし、この時代のいわゆる明治憲法自体には、国民に選挙権を保障するとは書かれていない。だから、妙な言い方だが、かりに憲法を適用したとしても、議員選挙法を適用せず選挙権を与えなくても、必ずしも「憲法違反」にならない。さらに官吏や労働者になっても、その地位や賃金には大きな格差がつきまとっていた。

 それにもかかわらず、多くの日本人は明治以来の急速な日本の「近代化」の「成功」に大きな自負心をもっていたから、それと同じことをこれらの植民地の民衆におしつけることは、それらの人びとに、近代化=「開化」の道を教え、導くことだと考えていた。そこでは「植民地」として「異民族」を支配しているという意識が生まれにくく、そのことが現代でも、これらの地域や国民の過去の植民地支配に対する意識と日本人のそれについての意識のくいちがいを強く残存させる一つの大きな要因になっているのではないだろうか。

 そしてこれは当初から政府によって意識的につくりだされ、ひろめられていったものである。

 初代朝鮮総督寺内正毅は、大正天皇の即位を祝賀して「朝鮮統治三箇年ノ成績」を上奏したが、そのなかでつぎのような意味のことを述べている。

「考えてみると、朝鮮の地位は欧米諸国の植民地とくらべて、まったくその地位を異にしている。欧米の植民地は本国と遠くはなれており、原住民の人種・風俗は本国人とまじりあい調和することはとうてい困難である。ましてまったく一つのものにすることは不可能である。だからたいていは永久に植民地として終始する運命をもっている。しかし、日本帝国本土と朝鮮との関係はこれとちがって、地理的には隣あっており人種も同じであるから、二つが『融合同化』するのにほとんど何の障害もない。そもそも日本帝国が歴代の天皇の徳によってすみやかに栄えて来たのに反して、朝鮮は不幸なことに時代の進歩に遅れ、衰え落ちぶれてしまった。

そこで両国が合体して『一家』となった現在でも、二つの間におのずから『先覚』と『後進』の差があるのはやむをえない。だから二つの『融合』の実績をあげようとすれば、一方は他方を教え導くことに努め、他方は心を尽くしてみずから改め新しくなるよう全力をあげなければならない。総督府は新しい領土が『同化』する目的を達するために、朝鮮人の『指導啓発』をはかるのに手落ちのないように努めているのだが、その完全な効果をおさめるには朝鮮各地にいて日常的に朝鮮人と接触している日本人の協力と仲立ちを頼みとしなければならない。

……総督である自分は、たびたび日本人の居住者たちに訓戒をあたえて、朝鮮人はすでにわが『天皇陛下の赤子』となり、すべて『同胞』なのだから、朝鮮人には『同情』をもって接し、『親誼』をもってつきあい、たがいに手をとりあって社会のことを処理していくようにと教えさとしている。」(原文をわかりやすく書きあらためてある。)

 ここには日本の「同化主義」の思想の主な特徴のほとんどが見事に語られている。
(井口和起著「朝鮮・中国と帝国日本」岩波ブックレット p45-48)

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◎「一方は他方を教え導くことに努め、他方は心を尽くしてみずから改め新しくなるよう全力をあげなければならない。総督府は新しい領土が『同化』する目的を達するために」……。