学習通信050427
◎「父親の役割」……。

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 こんなふうに、子どもは女たちのあいだで、彼女たちの気まぐれと自分の気まぐれの犠牲になって、六、七年をすごす。

そしていろんなことを教えられたのちに、つまり子どもに理解できないことばや、なんの役にもたたないことを覚えこまされたのちに、人為的に生じて情念によって天性が押し殺されたのちに、この人工的なものは教師の手にあずけられ、教師はもうすっかりつくられている人工的な芽を完全に伸ばすことになり、子どもにあらゆることを教えるが、自分を知ること、自分自身から利益をひきだすこと、生きて幸福になることだけは教えない。

そして最後に、奴隷であると同時に暴君であり、学問をつめこまれていると同時に常識をもたず、肉体も精神も同じように虚弱なこの子どもは、社会に投げだされて、その無能ぶり、傲慢ぶり、そしてあらゆる悪癖をさらけだし、人間のみじめさと邪悪さを嘆かせることになる。嘆くのはまちがいだ。そういうものはわたしたちの気まぐれから生じた人間なのだ。自然の人間はそれとはちがったふうにつくられる。

 だから、人間がその生来の形を保存することを望むなら、人間がこの世に生まれたときからそれを保護してやらなければならない。生まれたらすぐにかれをしっかりつかんで、大人にならないうちはけっして手放さないことだ。そうしなければとても成功はおぼつかない。ほんとうの乳母は母親であるが、同じように、ほんとうの教師は父親である。

父と母とはその仕事の順序においても、教育方法においても完全に一致していなければならない。母親の手から子どもは父親の手に移らなければならない。世界でいちばん有能な先生によってよりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子どもはりっぱに教育される。才能が熱意に代わる以上に、熱意は才能に代わることができるはずだ。

 しかし、用事が、つとめが、義務が……。ああ、義務。たしかに、いちばん軽い義務は父としての義務なのだ! 二人の結びつきから生まれたものを養育することを怠るような妻をもつ夫が子どもを教育することを怠るとしても、それは驚くにあたらない。家庭の情景以上に魅力のある画面はない。

しかし、そこに一点一画でも欠ければ、すべてがみにくくなる。母は健康でないから乳母になることができないということになると、父には用事がたくさんあって、教師にはなれないということになる。家を離れて、−寄宿舎や修道院や学院に散らばった子どもたちは、生家にたいする愛情をほかへ移すことになる。というより、なにものにも愛着をもたない習慣を生家にもちかえる。兄弟姉妹もろくに顔を覚えていない。お祝いかなにかあってみんなが集まるようなときには、たがいに行儀よくして、まるで他人のように対訳をする。

両親のあいだが親密でなくなると、家庭のだんらんが生活に楽しさをもたらすこともなくなると、どうしてもそのかわりに悪い習慣をもちこまなければならない。すべてこうしたことのつながりがわからないほど頭の悪い人間がどこにいるのか。

 子どもを生ませ養っている父親は、それだけでは自分のつとめの三分の一をはたしているにすぎない。かれは人類には人間をあたえなければならない。社会には社会的人間をあたえなければならない。国家には市民をあたえなければならない。この三重の債務をはたす能カがありながら、それをはたしていない人間はすべて罪人であり、半分しかはたさないばあいはおそらくいっそう重大な罪人である。

父としての義務をはたすことができない人には父になる権利はない。貧困も仕事も世間への気がねも自分の子どもを自分で養い育てることをまぬがれさせる理由にはならない。読者よ、わたしのことばを信じていただきたい。愛情を感じながら、こういう神聖な義務を怠るような者にわたしは言っておく。その人は自分の過ちを考えて、長いあいだにがい涙を流さなければならないだろうし、けっしてなぐさめられることもないだろう。

 しかし、忙しくてとても子どもにかまっていられないという富裕な人、家庭の父は、どうするか。かれはほかの人間に金を払って、自分にはやっかいな仕事をさせる。いやしい人間! きみは金ずくで子どもにもう一人の父親をあたえようと思っているのか。思いちがいをしてはいけない。きみが子どもにあたえるのは、先生ともいえないものだ。それは下僕だ。その下僕はいずれもう一人の下僕を育てあげることになる。

 よい教師の資格についてはいろいろと議論がある。わたしがもとめる第一の資格、この一つの資格はほかにもたくさんの資格を必要としているのだが、それは金で買えない人間であることだ。金のためにということではできない職業、金のためにやるのではそれにふさわしい人間でなくなるような高尚な職業がある。軍人がそうだ。教師がそうだ。ではいったい、だれがわたしの子どもを教育してくれるのか。わたしがさっき言ったとおりだ。それはきみ自身だ。わたしにはできない。きみにはできない……では友人をつくるのだ。そのほかに道はない。

 教師! ああ、なんという崇高な人だろう……じっさい、人間をつくるには、自分が父親であるか、それとも人間以上の者でなければならない。そういう仕事をあなたがたは平気で、金でやとった人間にまかせようというのだ。

 考えれば考えるほど新しい困難に気がつく。教師は生徒にふさわしく教育されていなければならない、召使いは主人にふさわしく仕込まれていなければならない、子どもに近づくすべての人は子どもにあたえてもいいような印象をうけとっていなければならない、ということになる。教育から教育へとさかのぼって、どこかわからないところまで行かなければならない。自分自身よい教育をうけなかった者によって、どうして子どもがよく教育されることがあろう。

 そういうたぐいまれな人間をみつけることは不可能だろうか。わたしにはわからない。この堕落した時代にあって、人間の魂がまだどれほどの高さの徳にまで到達できるか、だれにわかっていよう。しかし、そういうすばらしい人間が発見されたと仮定しよう。その人がすることを見てこそ、それがどういう人であるかがわたしたちにわかる。

あらかじめわかっていると思われることは、よい教師の資格が完全にわかっている父親は、教師などやとうまいと決心するだろう、ということだ。自分が教師になるよりもそういう教師をみつけるほうが、ずっと骨が折れるからだ。だから、友人をつくるつもりなら、自分で子どもを教育して、そういう者になるがいい。そうすれば、どこかほかにそういう人をさがしにいく必要はなくなるし、自然はすでにその仕事の半分をなしとげたことにもなる。

 ある人、わたしはその人の身分を知ってるだけなのだが、その人はわたしに息子を教育してもらいたいといってよこした。たしかに、その人はわたしに大きな光栄をあたえてくれたのだが、わたしがことわったことを不満に思わないで、かえってわたしの慎重な態度を喜んでくれるべきだ。その人の申し込みを承知して、わたしがまちがった方法をとったなら、教育は失敗することになったろうが、成功したらもっとずっと悪いことになったろう。息子は自分の称号を否認し、君主になることを望まなくなったろうから。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p44-48)父親の役目

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 さいきんとくに母親の育児責任がやかましくいわれ、子どもの「非行」や事故、健康から学校の成績にいたるまで、母親の責任であるかのようにとりあげられています。子どもに関しては、まだまだ父親の影はうすいようです。

 子どものしつけというと、なんだかそれは母親の専売特許として理解される風潮がまだありますが、子どものしつけ、とりわけ働く者の家庭におけるしつけには、父親の役割を欠くことができません。子どもの家庭教育について大切なことは両親の考え方の一致です。

 子どもには、父親も母親も必要です。今日、一般的に家庭教育といわれているしつけは、母親偏重でこまかすぎます。父親がもっと育児責任を自覚し、育児に参加することによってとかく口うるさい日常のこごとばかりつづくといったしつけから、一歩、前進するでしょう。つまり、子どもの成長の基本線と将来への方向づけをふまえた、おおまかではあるけれどきちんとした目標がとくに父親によって語られ、示されることがのぞましいように思われます(もちろん、母親によってされてもいいのですが)。

 社会のなかでの父親のはたす役割や、働く者としての父親の生き方を、子どもは子どもなりに観察し、せいいっぱい理解しようとしています。そして理解できたことは、自分のモラルとして身につけようとします。そこに、父親にたいする尊敬や愛情がつちかわれていくのです。

 さいきんは、残業や労働強化で帰宅がおくれたり、休日にも子どもと一緒に遊んでやれないなどの問題がおきていますが、それだけに父親の役割はかえって重要になっているといってもいいでしょう。

 働く者としての芯のとおった父親の生き方(共働きならもちろん両親そろって)を軸に、両親の一致した考え方と一貫した生活態度はしつけに欠くことのできないもののひとつです。
(近藤・好永・橋本・天野著「子どものしつけ百話」新日本新書 p20-21)

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「父と母とはその仕事の順序においても、教育方法においても完全に一致していなければならない」

「子どもの家庭教育について大切なことは両親の考え方の一致です」

父親の役割……。