学習通信050429
◎「国鉄をとりもどそう のシュプレヒコールと怒りの歌声が」……。

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春秋

 とっくに解散したはずの「国鉄一家」の呪縛(じゅばく)が、JR西日本の組織をいまだに支配しているのだろうか。福知山線の脱線事故では、前停車駅でのオーバーランを車掌が過小報告し、記者会見で同社幹部は、置き石の可能性を強調した。一家はとかく身内をかばう。

▼実際は40メートルのオーバーランが報告では5分の1の8メートル。同じ運転士が昨年6月に起こした100メートルのオーバーラン、実は500メートルだったかもしれない。JR西は脱線現場に急行した同社の調査陣がレール上で石が砕けた「粉砕痕」を見つけたと、いち早く発表した。急ブレーキのあとや、枕木の脱線痕を検討せず、置き石の可能性だけ伝えた。

▼脱線事故で原因と責任がきちんと特定されることは少ない。国鉄鶴見事故以来、脱線のパターンとして度々使われる「競合脱線」とは、台車や線路など複数の要因が競合して起きるというものだ。競合の具体的中身はその都度違う。責任の所在が見えないので、一家の傷は少ない。

▼地下鉄日比谷線の事故調査も、複合要因による「乗り上がり脱線」という玉虫色で終わった。カーブで左右の車輪にかかる重さの違い、輪重差の調整など、新しい技術的な課題は指摘されたが、結論は中途半端の感を否めない。徹底した捜査と調査で一家に踏み込まないと、真実は見えない。
(日経新聞 2005.04.27)

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第一章 汽笛一声新橋を
 ──国鉄の歴史スケッチ

 日本の国鉄は、明治以来、国民に欠くことのできない交通手段として発達してきました。鉄道の建設によって都市と農村が結ばれました。大量の商品輸送が可能となり、生糸や木材など地場産業が発達しました。鉄道沿線には新しい町が生まれました。そこには駅を中心に市が立ち、学校や町役場が建てられて、地方文化が育っていきました。

天皇の鉄道≠セった戦前の国鉄

 しかし、国鉄ほど時の政治権力や大金持ちに利用され、喰いものにされた例は他にありません。大隈重信は、鉄道建設が「封建の旧夢を破り、保守主義連、言換えれば攘夷家の迷想を開き、天下の耳目を新にして、『王政維新』の事業を大成するに少なからざる利益を与ふることならん」と、天皇による国家続一に利用しました。

 こうして一八七二(明治五)年一〇月一四日、莫大な国家資本を投じ、外国人技術者の指導のもとに、新橋〜横浜間二九・一キロで運転が開始されました。

 その後、鉄道ブームに乗って続々つくられた民間鉄道は、どこも経営が困難になりました。財閥を救うため、一九〇六(明治三九)年三月、国有鉄道法が公布されました。日本鉄道、関西鉄道などの民鉄が政府に高額で買い取られ、全鉄道の九一%をにぎる国鉄が完成しました。

 全国の鉄道が結ばれ、運賃が統一され、長距離直通列車が運転されました。
 第一次世界大戦で、力の弱かった資本家が戦争成金≠ノなりました。鉄鋼、兵器、車輛、原動機などを大規模に生産する京浜重工業地帯が出現しました。そのため、労働者を工場に送りこむ近距離輸送が逼迫しました。一九一四(大正三)年、新橋〜東京間と品川〜横浜間に通勤電車が開通しました。

 一九一九(大正八)年頃から、大地主による我田引鉄≠フ運動がはじまりました。
 一九三〇(昭和五)年一〇月、流線型のEF五五型電気機関車が牽引する超特急「つばめ」号が東京〜神戸間を疾走しました。当時、国鉄の営業キロは一万四三〇五キロに達し、全国ネットワークができあがっていました。
 しかし、戦前の国鉄は天皇の鉄道でした。軍が鉄道を支配し、兵員輸送や軍需物資輸送が再優先されました。昭和に入って、侵略戦争の泥沼がつづき、国鉄は酷使されました。増大する鉄道輸送を支えてきたのは、国鉄労働者の熟練と苛酷な長時間労働でした。太平洋戦争の頃から、駅員と車掌の大半が女性になっていました。米軍機の銃爆撃がつづく毎日、それでも国鉄は一日も休まず走りつづけました。一九四五(昭和二〇)年八月九日、長崎に原爆が投下されました。三一一列車が被爆者の救援にかけつけました。

国労の結成と苦難の歴史の序幕

 八月一五日、敗戦の日も機関車は煙をはいていました。国鉄労働者は、荒廃した国鉄を再建するために懸命に働きました。東京の国電(当時は省電と呼んだ)は破損した窓に板を張りつけ、ドアのない電車はロープをくくりつけて、超満員の乗客を輸送しました。
 徹夜勤務の労働者は、さむい冬の夜、布団がわりに俵や蚊帳をかぶって仮眠しました。
 その年の一二月、早くも職場に労働組合がつくられました。国鉄労働者は「飢餓突破賃金よこせ」の闘争や、当局の官製労働組合づくりの策動に反撃しながら、職場や地域、工場で続々と組合を結成していきました。

 翌年(一九四六年)二月、片山津で国鉄労組総連合会を結成しました。それから一年三ヵ月後の四七年六月、伊豆長岡で国鉄労働組合第一回結成大会が開かれました。五〇万労働者の統一と団結がかちとられました。しかしそれは、国鉄労働者と労働組合の闘争と苦難の歴史の序幕でした。

 一九四八年七月、アメリカ占領軍司今宮の「命令」による政今二〇一号で、公務員労働者のストライキ権が奪いとられました。四九年六月一日、公共企業体「日本国有鉄道」が発足しました。その一ヵ月後の七月、国鉄当局は、定員法による解雇九万九〇〇〇人を二次に分けて通告してきました。その直後、下山・三鷹・松川の謀略事件が相次いで発生し、労働者の反撃をおしつぶしました。

 国労幹部のなかに反共同盟がつくられ、中央闘争委員のなかの解雇者一四人の資格をめぐって対立し、中闘が分裂しました。定員法による弾圧で共産党員と戦闘的活動家が職場を追われました。しかし、国鉄労働者はたたかいを捨てませんでした。五ヵ月後の四九年一二月、組合役員が仲裁裁定の完全実施を要求してハンストに入り、組合員はデモと坐りこみでたたかいました。

 一九五〇年六月、アメリカが朝鮮侵略戦争に突入しました。政府はレッドパージを強行し、共産党員を根こそぎ職場から追放しました。国鉄では四六二名が解雇されました。

 それでも国労は不死鳥のように立ちあがりました。一九五三年一二月の三割休暇闘争を皮切りに、「職場大会」の名によるストライキ闘争を毎年たたかいました。五八年一〇月の警職法改悪反対闘争と六〇年の安保条約改定反対闘争では、国民の支持のもとで、六月に三度も、公然と政治ストをたたかいぬきました。春闘でも国労はストライキ闘争の先頭に立っていました。

 ベトナム侵略反対の一〇・二一国際反戦デー≠ヘ一九六六年からはじまりました。国鉄労働者は全国で、米軍のタンク車輸送阻止の順法闘争と時限ストを何年もたたかいつづけました。

第二臨調の発足と国鉄の「分割・民営化」攻撃

 国鉄財政が赤字に転化したのは、東海道新幹線開業の一九六四年、三〇〇億円の損失を出してからです。五七年から六八年までの輸送力増強計画で、巨額の設備投資をもっぱら借金でまかない、国鉄は膨大な利子負担をしいられました。そのうえ、新幹線が走ると、在来線の列車が大幅に削られました。

 一九六八年、田中内閣が「日本列島改造論」をかかげて登場しました。我田引鉄≠ヘ今もつづいており、田中角栄が地図の上に赤鉛筆で線を引き、上越新幹線の路線が決定しました。政府は国鉄に、全国九〇〇〇キロ以上の新幹線網の建設を柱とする「列島改造」国鉄版を指示しました。当然のことながら赤字はふえ、借金の利払いはふくれあがりました。借金がかさむと、人べらし「合理化」が強まりました。国鉄労働者は反対闘争に立ちあがりました。七一年一月、国鉄当局は組織破壊の「マル生」攻撃を公然と開始し、一年近いはげしいたたかいがつづき、国労が勝利しました。国鉄は、七四年から八二年まで、八回連続の運賃値上げを強行しました。その結果、客ばなれは三億七一〇〇万人におよびました。

 こうして国鉄は、八五年には一日二七億円の利子を支払う、ぬきさしならない状態に追いこまれました。国鉄の設備投資で大もうけした者は、鉄鋼、セメント、電機、鉄道車輛、建設の独占資本と大地主だけです。

 八一年一月、国労は「国鉄の民主的改革に関する提言」を発表しました。三月、第二臨調(土光敏夫会長)が発足し、五月には、国鉄を「分割・民営化」するための第四部会(加藤寛部会長)がつくられました。

 八二年一月、それから六ヵ月間、マスコミを総動員して「ヤミ手当」「悪慣行」など、国鉄労働者攻撃の大キャンペーンが展開され、赤字づくりの原因が、国鉄労働者の「たるみ」にすりかえられました。

 八二年七月、臨調第三次答申(基本答申)は、国鉄の「分割・民営化」をうちだしました。答申をうけて、八三年六月、国鉄再建管理委員会(亀井文夫委員長)がつくられました。国鉄解体の作業が本格的に開始されました。八四年、当局は雇用協定を一方的に破棄しました。
 八五年七月、管理委員会が最終答申を提出しました。

たたかう労働者への選別・差別攻撃

 一九八六年一月、動労、鉄労、全施労の三組合は、国鉄当局への全面降伏の「労使共同宣言」を締結しました。国労、全動労はこれを拒否しました。

 攻撃がいちだんとはげしくなりました。八六年七月、全国一〇〇〇ヵ所に「人材活用センター」がつくられ、支部、分会の役員、活動家が職場を追われ、送りこまれました。労働者はハンストと坐りこみ、抗議集会、デモではげしく抵抗しました。

 その頃、現場管理者有志から内部告発の「訴え」が送られてきました。

「七月はじめに人材活用センターをつくるよう局から指示がありましたが、その内容は『人材活用センターは実質的選別であるから、国労組合員で、組合役員や職員管理調書の評価の悪いものから順に入れること』というものでした。」

 選別・差別攻撃と分裂攻撃のなかで開かれた国労臨時大会(一九八六年一〇月 修善寺)は、屈伏路線である執行部(当時)の「緊急方針」案を大差で否決しました。
 国鉄解体法案には共産党だけがはっきり反対しましたが、政府・自民党と他の野党は十分な審議をつくさないまま、八六年一一月に成立しました。

 八七年二月、国鉄当局は「設立委員会」を隠れミノにして、職員の新会社採用と清算事業団への振り分け≠通知しました。それは、組合所属によって採用を決めるという不当な選別・差別であり、国労、全動労は全国で七〇〇〇人をこえる組合員が不採用となりました。

 国家的犯罪、政府のむごい仕打ち、三年後の解雇にたいする労働者と家族の悩みと怒りを、一人の家族の詩が語っています。

あとには退けない
  岩見沢第一 菅原三枝子

人間としての誇りをきずつけ
子供たちの心まできずつけ
仲間の絆をもたちきろうとする
負けるもんか 負けるもんかと心の中で叫んで
自分自身を力づける
「先を考えるのはいや!」
でも現実は怪物のように私たちにせまってくる
もうあとには退けない
顔をあげて前を見つめて進むより道はない
ひとりでないのだから
仲間がいるのだから
(全動労札幌家族会『泣いて、笑って、たたかって』より)

奪われる国民の足≠ノ怒りが

 「分割・民営化」攻撃は、国民の足≠乱暴に奪っていきました。
 一九八七年二月、ふるさと線を守る東日本連絡会のルポ「厳冬期の北海道ふるさと線を走る」を読むと、怒りがこみあげてきます。

「全国五千余の旅客駅のうち、すでに六〇%以上が無人化され、一部は委託駅になっているが、北海道は特にすさまじい。」
「厳冬期には氷点下一〇度〜二〇度にもなる北海道の各地で、昨年一一月一日のダイヤ改正以後(駅の)ストーブや時計がはずされ、利用者にとっては大変な苦痛がおしつけられている。ストーブのある駅舎をみつけても、ストーブのつまみが再低温にセットされ、その上、利用者が勝手に温度調節ができないようつまみをテープ止めしてある。」
「廃止になった富内線は、鵡川駅から終点の日高町駅まで、代替の『道南バス』が走っている。国鉄の廃止駅はバス待合室に使われていたが、ここにもストーブは煙突だけしか残っていなかった。」
「無人駅の便所のカギが閉めっばなしのため、大小便が駅舎の待合室にしてあるのもみた。夏ではウジがわくだろう。」

 一九八七年三月三一日、国鉄労働者と国民会議は全国の共闘組織と共同して抗議集会を開きました。東京では山手線一周デモに数千の労働者と市民が参加しました。「国鉄をとりもどそう」のシュプレヒコールと怒りの歌声が、国鉄本社前で夜半までつづきました。風の強い、寒い夜が明けました。
(伊藤俊男著「国鉄闘争とともに」学習の友社 p144-152)

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◎「徹底した捜査と調査で一家に踏み込まないと、真実は見えない」と。効率化、収益UP……「分割民営化」を応援してきた新聞の責任はないのだろうか。いままた郵政の民営化……それでも「利潤第一主義」の呪文が。