学習通信050501
◎「世界の共産化に歯止めをかけてやる」  いま「自由を……」と。

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『学習の友』今月のことば

 われわれは政府をとりかえなくてはならない! これはまた万国労働者の最も期待するところなのだ。そのために、まずわれわれは労働戦線を強固に統一しよう。そして世界の労働階級と手を握って、その固い団結のもとに、再び世界に戦争の種をまく専制主義、封建主義、ファシズムを叩きつぶすのだ。かくしてのみわれわれ勤労大衆は飢餓と窮乏から解放され、世界は平和と栄光に充たされるであろう。
 一九四六年五月一日

●すいせんする人=塩田庄兵衛
(東京部立大学教授 協会理事)
 これは、第二次世界大戦が終って最初のメーデーで──それは日本の労働者階級にとっては、実に十一年ぶりでとりもどすことのできた第十七回メーデーでしたが──皇居前広揚にあつまった五十万大衆の前で、たからかに読みあげられた宣言の一節です。この誓いの実現に、日本の労働者階級は責任を負っています。そして、とりわけ第三十九回メーデーを迎えるいま、この二十二年前の誓いを、あらためて思いおこす必要があると思います。
(『学習の友』1968年5月号)

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真実の人生をもとめて
──科学的社会主義の基礎的理論を学ぼう──
 谷川 巌・労働者教育協会

壮大なドラマのなかで
輝くベトナム青年のひとみ

 一九七五年四月三十日午前十一時三十分、南ベトナム共和臨時革命政府の旗が、かいらい政権の大統領官邸のうえにひるがえりました。ベトナム全土解放の歴史的な瞬間です。
 私たちは、その前後、この歴史的な出来事をめぐるさまざまなうごきを、テレビや新聞で目のあたりにみることができました。

 情勢不利とみて、先をあらそって、飛行機やヘリコプターで逃げ去るアメリカの将軍・高官たちの醜い姿、このアメリカの「無情」に激怒して、四月二十一日に大統領を辞任したグエン・バン・チューも、四月二十五日には、祖国と同胞をみすてて台湾へ逃げだしてしまいました。サイゴンの「繁栄」と腐敗に寄生した金持ちも、金の延べ棒をトランクにいっぱいつめこんで──。

 浮足だって、銃と弾薬、装甲車や大砲をすてて、あとを追われる家鴨(あひる)のように敗走するかいらい軍将兵の群、そのあいだを子供と家財を手に、右往左往逃げまどう民衆の姿、堂どうと入城する解放軍兵士とこれを花束や解放戦線の旗をかぎして、歓呼してむかえる群衆、何年も何十年も南北にひきさかれていた肉親の再会のエピソード、「とらの檻」から解放された不屈の英雄たちの、胸をうつ一コマ……まるで壮大なドラマをみるようです。

 とりわけ、私のこころをうったのは、質素な軍服に身をかためた解放軍の青年兵士たちの、すこしも気負わない、落ちついた、きびきびした動作、まだ少年のような、あどけない面もちと、微笑さえうかべたその澄みきった瞳でした。

 それは、まさに、「民族解放をめざす抗米救国戦争において、真直ぐ敵をにらみ、うちおとす、ベトナム人民軍の誇り高い姿勢とサイゴンに突入する解放軍兵士のよ決戦決勝≠フ精神、そして新解放地域の住民に接するかれらの明るい自然な微笑……のきわめて美しい姿」(ホー・チ・ミン生誕八十五周年記念集会でのチュオン・チン国会常務委員会議長の演説)でした。

そして、いま、かれらは「戦闘における情熱と英雄主義を、平和な建設における情熱と英雄主義に変え」(同上)、北の社会主義建設と南の民族民主革命の達成のために、誇りたかく献身しています。「わが山河、わが人民は永遠である。アメリカが敗退したあと、われわれは数倍の美しい、わが祖国を建設するだろう」というホー主席の遺言をかたく胸にだきしめて−―‐。

その情熱を支えたもの
青年ホー・チ・ミンの開眼

 この偉大なベトナム解放の勝利がもつ計り知れない世界史的な意義については、本誌七月号の畑田・則武両先生の対談に、感動的にのべられているとおりです。
 私がにこで考えてみたいことは、同じ時代に生き、同じこの歴史的な事件に直面しながら人間集団の生き方がこの壮大なドラマが物語るように、なぜ、こうもさまざまであり、ちがうのかということです。

 この壮大なドラマのなかの多彩な人間集団の生き方のちがいは、数百年にわたるベトナム民族の屈辱と苦悩に目をひらいて、それからの解放のみちを、社会発展の法則にしたがって、おしすすめる側にたつのか、逆に歴史の歯車をおしとどめ、これを逆転させる側にたつのか、あるいは、しっかりした自分の立場を確立することができず、無自覚のまま、この二つの流れの激突のまにまにおし流されて、うたかたの泡のように生きるのかによって、わかれているということができるでしょう。

 祖国の自由、民族の独立のみちに、日夜心をくだいて、諸国を訪れた青年ホー・チ・ミンが、フランスで、はじめて、レ−ニンの「民族問題と植民地問題についてのテーゼ原案』をよんで、興奮と嬉しさのあまり泣きだしながら「われわれに必要なのはこれである。これこそわれわれを解放する道である」と叫んだことは、有名な話です。

 そして、かれは、マルクス・レーニン主義(科学的社会主義)の理論を、ベトナムの特殊な条件に創造的に適用して、こんにちの偉大な勝利の基礎をきずいたのです。
 私は、ベトナム青年の情熱と英雄主義をささえているものを、ここに見い出すことができるとおもいます。
(『学習の友』1975年8月号)

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 一九七五年は、昭和五十年である。昭和元年は七日しかなかったので、昭和天皇の在位五十周年が祝われるのは翌年のことになるが、この頃から不思議と、昭和天皇の存在感がクローズアップされて来る。この年は、イギリスのエリザベス女王が来日した。迎えるのは日本の皇室メンバーである。秋十月になると、天皇・皇后は初の訪米を経験。

「天皇制というのはなんなんだ?」の議論とはまったく別なところで、昭和天皇は「不思議に存在感のある魅力的なおじいさん」というものになっていた。昭和天皇が「日本の象徴」であるなら、日本は平和だったということである。昭和五十年の日本は、「不景気」ということになっているが、実は戦後稀に見る「なにもない年」なのである。この年の日本は、「紅茶キノコのブーム」でしかない。

 紅茶の液の中に、正体不明の菌類のようなものの種≠入れると、それが培養された結果、紅茶が「体にいい飲み物」に変わるのだという。「紅茶キノコとはなんなのか?」という詮索はなされぬまま、「誰か譲ってくれませんか?」という日コミが広がって行った。なにしろ紅茶キノコというものは、「体にいい健康食品」ということ以外不明で、そうである以上、表立って売るわけにもいかないもの──つまり、どこにも売っていないものなのである。

正体不明で健康食品でロコミで、しかも「売る」がないから儲けにはつながらない。ただ「善意」によって「健康」が日本中に伝えられるという、不思議な現象がしばらく続いて、パッタリはやらなくなった。「紅茶キノコの害」というのも伝えられた形跡がないから、「一体あれはなんだった?」と言うしかないものがブームになった。それが日本の一九七五年なのである。

 日本は平和でなにもなかった。世界も似たようなものだった。世界のあちこちでテロ活動が続けられたが、世界が平穏で動かずにあればこそのテロである。世界は不思議に穏やかながら、そのあり方を少しずつ変えていた。

 一九七五年、ヴェトナムでは南北統一が達成された。決して「平和裡に」ではない。戦闘があった。一九七三年の一月に、パリでヴェトナム和平協定が調印され、アメリカ軍はヴェトナムから撤退した。撤退後もアメリカ政府は、南ヴェトナムの傀儡政権に援助を続けていたが、一九七五年にその手を引いた。アメリカに財政赤字が訪れて、余分な金を使っているわけにはいかなくなったのである。アメリカをそういう形で窮地に陥れるのは、当然躍進する経済大国日本ではあるけれども、日本人は、自分達の存在がそんな風に世界情勢を動かしているとは思わなかった。

 北ヴェトナムの軍隊は、アメリカの援助を失った南ヴェトナムヘ攻め込んだ。一九七五年の四月、サイゴンは陥落。一九六四年から続いたヴェトナム戦争は、完全に終結した。それはつまり、アメリカが「世界の共産化に歯止めをかけてやる」と思っていた時代が終わったということである。アメリカは時代の潮流に負けた。しかも、その負け方は、思った以上にロクでもないものだった。
(橋本治著「二十世紀 下」ちくま文庫 p179-181)

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ベトナム解放闘争の勝利

サイゴン政権の性格

ジエム政権と解放戦線

 第二次世界大戦後に、インドシナ(ベトナム・カンボジア・ラオスをふくむ地域)における植民地支配の再建をもくろんだフランスと、これに対抗した現地の民族解放運動とのあいだでたたかわれた第一次インドシナ戦争は、一九五四年のジュネーブ協定で終結した。ベトナムに関しては、ジュネーブ協定は北緯一七度線を「暫定軍事境界線」として、その北部に抗仏戦争をたたかったベトナム民主共和国の軍隊が、南部にはフランスとそれが支援したベトナム国の軍隊が集結し、二年以内に南北統一のための総選挙を実施するという解決策を採用していた。

 しかし、五〇年代になるとインドシナ戦争を共産主義との対決のための戦争とみなしてフランスの戦費の大半を支えていたアメリカは、この一七度線を東西両陣営の勢力圏を定めた境界線と考えて、非共産主義の南ベトナムをあくまで維持しようとした。アメリカの支援を得たベトナム国の首相ゴー=ディンージエムは、みずからを大統領とするベトナム共和国(以下サイゴン政権)を樹立し、ジュネーブ協定が定めた南北統一選挙の実施を拒否した。

 このようなアメリカやサイゴン政権に対抗して、ベトナム労働党(今日のベトナム共産党)を中核とした人びとが、南ベトナムの解放と南北統一の達成を目標として立ち上がった。このたたかいによってサイゴン政権が危機にひんすると、アメリカは最高時五〇万人を越える米軍を直接投入して、南ベトナムの維持をはかろうとした。このベトナムの人びとの民族解放闘争とアメリカの侵略戦争によって構成された戦争がベトナム戦争である。それは一九七五年四月三〇日にサイゴン政権が崩壊し、アメリカの完全な敗北に終わるまでつづいた。

 民族独立への願いと植民地支配の時期に形成された地主制のもとで生じた農民の土地に対する要求を結合した、共産主義者が指導する民族解放闘争の成長という、戦後第一期に各地で見られた傾向の典型がベトナムであった。

 アメリカが「共産主義の脅威」から守る空間とみなした南ベトナムに登場したゴー=ディンージエム政権は、戦争と労働党が実施した土地革命で地主制が大きく動揺し、政権の安定した社会基盤が欠如した状況に対処しなければならなかった。五〇年代に束アジアや東南アジアの親米諸国は、アメリカからの援助や日本の賠償によって供給された大量の物資に依拠して、国内のゲリラなどの挑戦に対処してきたが、ジエム政権もこうした「援助全面依存」政権であった。

 そのジエム政権が社会基盤の拡大を意図して行なった土地改革は、旧地主がジエム政権の軍隊に守られて村にもどり、すでに事実上農民のものになっていた土地を取りもどしたり、そこからの地代を強要することになったため、農民のはげしい反発をまねくことになった。ジュネーブ協定以降、南ベトナムにおける闘争形態を平和的な政治闘争の枠内に限定していた労働党を、一九五九年の武装闘争の部分的再開に踏み切らせた最も基本的な原動力は、こうした南の農民のラディカリズムであった。

六〇年初頭から各地の農村で発生した蜂起によって、「援助全面依存」政権としてのジエム政権の農村支配の脆弱性が一挙に暴露されることになった。方針を転換した党の組織力と南の農民を中心とする民衆のジエム政権に対する反発が結合したところに誕生したのが、六〇年に結成された南ベトナム解放民族戦線であった。

「自立経済」体制と危機への軍事的対応

 一九六一年に登場するケネディ政権は、共産主義者が第三世界で展開しているゲリラ戦争を、アメリカにとっての重大な挑戦と受け止め、これに本格的に対処する反革命戦略を展開した。そのひとつの柱は親米政権を「援助全面依存」政権から「自立経済」体制に転換させることであった。これらの国ではじゅうらい援助で獲得していた民生安定物資をみずからの手でつくりだし、国内資金と外資を基礎に輸入代替・輸出促進を内容とする工業化を促進する政策が採用されるようになり、援助が減少するようなことがあっても親米政権を支えうるような産業基盤の形成がはかられるようになった。

このような意味での「自立経済」体制の構築は、東アジアと東南アジア諸国では六〇年代の後半のベトナム戦争の激化がもたらした特需にも支えられてそれなりに軌道に乗り、共産ゲリラを政治変動には大きな影響力をもたない「森の勢力」にしてしまう反革命戦略としてそれなりの効果を達成することになった。

 しかし、南ベトナムに関しては、この「自立経済」体制の構築へは事態は進展しなかった。危機が深刻であった南ベトナムに対しては、アメリカは危機への軍事的対応を優先せざるをえなかった。

アメリカがゲリラに対処する能力をもっていることを示す実験台として南ベトナムを選択し、そこにアメリカの威信をかける構造を作り上げたケネディ政権は米軍顧問を大量に派遣して「特殊戦争」政策を展開したが、これはアメリカの関与の拡大で「カイライ」という非難に脆弱になったジエム政権が、ますます改革拒否的になり独裁性を強化するという事態を生み出し、ついには一九六三年のジエム政権打倒のクーデタに行きついてしまった。

ジエム政権の崩壊は、アメリカにとって事態の改善になるどころか、サイゴン政権の危機をますます深刻化させることになり、六五年春には急速な成長を見せた解放戦線のたたかいの前にサイゴン政権の命運は風前の灯であった。ジョンソン政権は、これに対してサイゴン軍にかわって米軍が戦争をになうという道を選択する以外に、サイゴン政権の崩壊を阻止する方法を見出せなかったのである。

 「この町を救うためにはこの町を破壊しなければならなかった」という言葉は、アメリカのベトナム戦争の性格をするどく浮かび上がらせている言葉であるが、これは経済的な面にもある程度あてはまるものであった。あまりに軍事的危機が深刻であった南ベトナムでは、軍事情勢を悪化させないように経済をともかく援助で支えることが優先し、経済発展を考慮する余裕などなかった。

アメリカの戦争という性格が強化された一九六五年から六七年にかけてサイゴン政権の支配する人口を増大させた最大の要因は、解放戦線の浸透した農村地域を米軍の砲火が降りそそぐ「自由爆撃地区」として、そこの住民を難民化させて都市に吸収したことであった。そして援助と輸入に依拠してサイゴン政権支配下の住民の生活水準を上げることが重視され、ついにはかつての南ベトナムの最大の輸出品であった米の輸入まで行なわれることになり、国内の産業開発や輸出の振興のインセンティブはいちじるしく低下することになった。サイゴン政権は極度にアメリカに従属した巨大な軍事機構となった。

繁栄の幻想とその崩壊

 それでも表面的には、サイゴン政権支配地域には豊富な民生安定物資が出回り、人びとの平均収入も周辺諸国と比較してそれほど低くない水準に上昇することになった。これは、軍事情勢が好転すれば、かなり解放勢力には困難を与える性格のものであった。一九六八年のテト攻勢後にサイゴン政権が農村においても支配を拡大して、解放勢力に与えた困難は、世界史的には「自立経済」体制が構築されていた諸国でゲリラが直面した困難と共通性をもっていた。

七〇年代にはいると、サイゴン政権も「自立経済」体制の構築を構想するようになった。機械化と高収量品種の導入による稲作を始めとする農業生産の向上や為替レートの調整による財政の健全化などがそれなりの成果を見せるようになり、外資と援助が順調に流入すれば、アメリカに丸抱えになっている軍事機構というサイゴン政権の性格を「自立経済」体制に切り換えられる可能性が存在しなかったわけではなかった。七三年のパリ協定の締結時にアメリカがサイゴン政権の存続にまだ希望をもっていたのは根拠のないことではなかった。

 しかし、ベトナムでは解放勢力は「森の勢力」に追いつめられることはなかった。民族の独立という課題での解放勢力のサイゴン政権に対する政治的優位は明白であり、かつ軍事的にも北の人民軍の大量投入に支えられた面はあったものの、一九七二年の春季大攻勢で解放勢力は南ベトナム内部の戦略的要衝を確保することができた。

この解放勢力の圧力に対抗するために巨大な軍事機構を縮小するわけにはいかなかったのである。このようななかで、七四年−七五年の世界的な経済不況の影響をまともに受けたことが、サイゴン政権から「自立経済」体制への転化の可能性を奪うのみならず、その存在そのものに致命的打撃を与えることになった。すでにインドシナに対する行政府の戦争政策に批判的になっていた米議会は、好況ならばともかく不況のなかでインドシナヘの援助を増大する意思などまったく持たなくなっていた。

これにウォーターゲート事件によるニクソン辞任という事態が重なり、アメリカはサイゴン政権の危機に有効に対処できなくなっていた。このような情勢をにらんで、ベトナム労働党が七五年春に大規模な軍事攻勢を開始すると、サイゴン政権は労働党の予測もはるかに上回るスピードで崩壊していったのである。
(土井・浜林ほか「戦後世界史 上」大月書店 p178-183)

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◎「われわれは政府をとりかえなくてはならない!」。

◎「わが山河、わが人民は永遠である。アメリカが敗退したあと、われわれは数倍の美しい、わが祖国を建設するだろう」と。