学習通信050502
◎「稼ぐが勝ち」……。

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 誰もが同じ価値観を共有するのではなく、個人それぞれの価値観のなかでの成功が重視されるようになった。マイサクセスというくらいですから、個人個人で様々な成功のバターンがあるわけです。
 これが、かつてのような街の代表的な層が見えなくなった理由だと思います。さらにインターネットの普及がこの流れに拍車をかけているのです。
 すでに時代は変わってしまっているのです。
 僕はこの変化は悪いことではないと思います。
 たとえば、街の代表層が見えないということは、規格の画一化による大量販売よりも、よりエンドユーザーを向いた商売が有効になる。そして時代が見えないということは、逆に隠れた大きなチャンスがたくさんある、ということなのです。

 僕はごく短期間で会社を立ち上げ、三〇歳で一〇〇億円を稼ぎだしましたが、こういう世界のビジネスチャンスは、旧態依然のオヤジ世代にはつかむことができません。

 これまでの社会システム・会社システムのなかに安住してきた人たちには、今後ますます苛酷な未来が待っていることでしょう。
 この流れは変えることができません。これまでの「成功物語」の幻想を捨て、いますぐ新しい時代への対応を取るべきなのです。
 この本が、皆さんが一〇〇億円を稼ぎ出すヒントになればと思っております。
 稼ぐが勝ち、です。
(堀江貴文著「稼ぐが勝ち」光文社 p8-9)

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金の切れ目が縁の切れ目−『アテネのタイモン』

 シエイクスピアが書いた三十七本の戯曲のなかで、モノがものを言う作品の筆頭は『アテネのタイモン』だろう。モノの中でも金。ここは金がものを言う世界である。

 タイモンはタイトルが示すとおりアテネの貴族。彼の特徴は度外れた気前のよさだ。そこにつけこみ、エビタイを目指してタイモンにたかる人々が劇の冒頭から次々と現われる。詩人は彼を称える詩を、画家は肖像画を献じ、宝石商は逸品を高値で買い上げてもらおうと馳せ参じる。

 タイモンは善意の人でもある。友人の借金の肩代わりをしてやるわ、召使いにも大金を与えて金持ちの娘と結婚できるようにしてやるわ……。貴族や元老院議員たちは馬だの猟犬だのをプレゼントするが、それらはすべて見返りを求める贈り物である。従ってタイモンにたかる人々は、モノと共に媚びへつらいをも差し出す。

 だが、こんな浪費がいつまでも続くわけはない。執事のフレイヴィアスは再三再四主人に向かって台所は火の車であることを告げ、湯水のごとき出費を抑えてくれと懇願してきたが、タイモンはそんな言葉には耳を貸さず、山のような請求書にも目を向けようとしない。毒舌家のアペマンタスも、先行きを予想し、折りに触れ苦い批判を浴びせてきたが、これまたタイモンには馬耳東風。

 リア王は、愛が計量可能だと思い込む過ち(百人の供回りを五十名にしろと言う長女ゴネリルの愛は、二十五名に減らせと言う次女リーガンの愛の二倍だ、と彼は言う)を犯した。タイモンの過ちは、来るものを拒まず、彼らを友人だと錯覚したことだ。どちらも巧言令色にヨワい。タイモンは人々に惜しみなく恩恵とモノと金を与えるが、彼もまた「友情」という見返りを期待している。だが、元老院議員が高利貸しを営んでいるこの劇世界では、金の切れ目が縁の切れ目なのは火を見るより明らかだ。しかしタイモンはそれに気づかない。遂に破産したタイモンを救う友情はどこを探しても皆無である。

 『アテネのタイモン』は滅多に上演されない。私もいままでに見たのはたったの二度。一度目は一九九三年の冬、ニューヨークでナショナル・アクターズ・シアターという劇団の好舞台を見た(初演はカナダのストラットフオード・フエスティヴアル)。上手と下手にモダンな螺旋階段、第二次世界大戦前夜を暗示させる豪華な宴会は退廃した雰囲気を漂わせ、楽士たちはデューク・エリントンのジャズを奏でていた。

 二度目に見たのは一九九六年一月のシエイクスピア・シアターの公演である。演出は出口典雄。サングラスをかけた宝石商は携帯電話で商談をする。このことからも窺えるように、出口はこの劇を現代の日本、しかも極度に膨張したバブル経済とそれがはじけてからの時期に重ねて見せた。

 この劇の山場は「縁の切れ目」後にタイモンが主催する大宴会だ。窮状を救ってもらおうと、タイモンは元老院議員たちの邸に召使いを追って借金を申し込むのだが、誰も彼もがのらりくらりと見え透いた言い訳をして断る。そればかりか、タイモンの足元を見た彼らは、ここに至るまでの貸し金の取り立てにかかる。怒り心頭に発したタイモンは一計を案じ、彼らを「最後の晩餐」に招待する。招かれた連中はいい気なもので、なんだ、破産したなんて言ってるけど、まだ金があったのか、我々をかついでたんだな、と言わんばかりにまたもやぬけぬけと押しかけてくる。

だが、出されたご馳走は石と白湯のみ。招待された客たちは呆気にとられる。ナショナル・アクターズ・シアターでタイモン役を演じたブライアン・ベッドフォードは、見るからに温和な面持ちなのだが、そのタイモンが裏切り者の「友人」たちに湯をぶっかけたり石を投げつけたりする様には鬼気迫るものがあった。ここで客席から一斉に拍手が起こったのにはびっくりさせられた。

 シェイクスピア・シアターの舞台でもこの場は傑作で、客たちは金色の布のかかった朱塗りの据膳の前に正座する。衣裳は現代のスーツなので、彼らが居並ぶ様は、我が大物政治家や実業家たちの高級料亭における宴会を髣髴(ほうふつ)させる(見たことないけれど)。

 タイモンはこのあとアテネを去り、隠者のように身ひとつで森の洞窟に籠ってしまう。草の根を食べようとして土を掘るうち、なんと地中からざくざくと金貨が出てくる。これを嗅ぎ付けるや、元老院議員から詩人や画家までがタイモンのもとに押し寄せる。文字どおり金が彼らを動かすのだ。金貨を掘り出したときのタイモンの言葉は、金の力を的確に表現している。かのマルクスも『金』と題した論文でこの部分を引用しているのだそうだ。たとえば「これだけの金があれば、黒を白に、醜を美に、不正を正義に、卑賤を高貴に、老いを若さに、臆病を勇気に変えられる」。

 『アテネのタイモン』の登場人物は、金やモノの有無によって態度や生き方が変る者と変らない者に分けられる。言うまでもなく前者は、タイモンの気前のよさとその財産を食いものにするアテネの貴族・元老院議員・詩人や画家だ。タイモン自身も、彼らの態度の変化の煽りを受けたせいでではあるが、このグループに入る。しまいには完璧な人間嫌いになってしまうのだから。シェイクスピアが材源としたプルタークの『英雄伝』でも「タイモン、またの名をミザントロプス(即ち、人間嫌い)」と書かれている。

 変化しないのは、初めから人間嫌いなアペマンタス、タイモンヘの友情を貫く将軍アルシバイアディーズ、忠実な執事のフレイヴィアスだが、忘れてならないのはタイモンや元老院議員の召使いたちだ。シェイクスピアは、名もない一般大衆を付和雷同する「衆愚」として描くことが多いのだが、『アテネのタイモン』は例外だ。この劇で食いものにされる側の愚と、する側の浅ましさの両方を平準な目で見ている一番「まとも」な人物は、実は金も権力もない一般大衆なのだった。
(松岡和子著「シェイクスピア「もの」語り」新潮選書 p109-112)

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 金は、一切を購う特性をもち、あらゆる対象を我がものにする特性をもつがゆえに、とくに本格的な意味において所有されるところの対象である。それの特性の普遍性はそのものの万能性にある。それゆえに、それは万能なものとして通用する。……金は必要と対象のあいだ、人間の生活と生活手段のあいだの取りもち役である。ところで、私に私の生活を賄ってくれるものは、また私にとっての他人たちの現存をも私に賄ってくれる。それは私にとって私ならぬ他の人間である。

「なに、べらぼうな、もちろん手や足や
頭や臀、こいつらはお前さんのもんだ!
でも、何でもあっしが新しく利用すりや、
それでそいつはあっしのもんじゃないんですかい?
六百の馬の代金が払えりや、
そいつらの力はあっしのじやないんですかい?
あっしが突っぱしりゃ、りっぱなもんで、
まるで二十四本の足の持主でさあ。」
 ゲーテ『ファウスト』(メフィスト)

 シェークスピアは『アテナイのティモン』のなかでこう言っている。

「金か? 結構な、ぴかぴかの黄金か? いや 神々さまだ!
わしはだてにお祈りするわけじゃない。
これだけそいつがあれば黒も白、醜も美、
不良も良、老も若、儒も勇、賤も貴だ。
 そいつは……祭司を祭壇から誘うし、
なおりかけの病人から寝枕をひっこ抜く。
そうだ、この黄金色の奴隷めは聖なる絆を
解(ほど)いたり結んだり、呪われた者の呪いを払ったりする。
そいつ奴のおかげで癩病はかわいくなり、泥棒は崇められて、
元老院での地位と権勢を手に入れる。そいつ奴は
くたびれた年増やもめに求婚者を連れてくる。
病院から膿の出る潰瘍でひどく嫌われて
追い出された女を、こいつは
芳ばしく五月の若さへよみがえらせる。
 いまいましい金属め、
 きさまは人々を誑かす
 人類共同の娼婦だ。」
そしてもっと後のほうで、
「汝、いみじき国王弑逆者よ、
 息子と父の高価なる離別よ!
 ヒュメナイオス〔婚礼の神〕の至純の臥所の絢
 爛たる冒贋者! 勇ましきマルス〔軍神〕!
 とこしえに華麗なるいとしき求婚者、
 その金色の輝きはディアーナ〔貞操の女神〕の
  浄き膝なる聖なる雪をも溶かす!
 目に見ゆる神、汝は不可能事どもを密に睦ませ、
 否応なしに口づけさせる!
 汝はいかなる言語にても、いかなる目的のためにでも、語る!
 おお汝、人々の心の試金石よ!
 思いてもみよ、汝の奴隷たる人間の立ち上がるを!
 汝の力が彼らすべてを掻き乱して滅ぼさんことを!
 さすれば、この世の主権は獣どもがものならん!」

 シェークスピアは金の本質を的確に描いている。彼を理解するために、まずあのゲーテの箇所の解釈から始めよう。

 金によって私のためにあるもの、私が代価を支払いうるもの、換言すれば金が購いうるもの、……金そのものの持主である私とはそれなのである。金の力の大きさが私の力の大きさである。金のもつ性質は私──金の持主──のもつ性質であり本質力である。したがって私が何であり、何ができるかはけっして私の個人性によってきまっているのではない。私は醜いが、しかし私は絶世の美女を購うことができる。だから私は醜くないのである。というのは、醜さの効果、人の顔をそむけさせる力は金によってなくされているのだからである。

私は──私の個人としてのあり方からすれば、──びっこであるが、しかし金は私に二四本の足をもたせてくれる。だから私はびっこではない。私は性の悪い、不誠実な、非良心的な、才気のない人間であるが、しかし金は尊ばれており、したがってその持主もそうなのである。金は最高によいものであり、したがってその持主もよい人間であり、のみならず金は私に、不誠実であるという厄介なあり方をしなくてもすむようにしてくれる。だから私は誠実だと頭ごなしに推定される。

私には才気はないが、しかし金は一切万物の現実的な才気である。どうしてその持主が才気のないはずがあろうか? それにまた金の持主は才気に富む人々を自分のために購うことができるのであって、才気に富む人々を自由に使う力をもつ人間は、才気に富む人よりももっと才気に富む人間ではないか? 人の心が渇望するどんなことでも金のおかげでできる私、その私はあらゆる人間的能力を所有するではないか? したがって私の金は私の無能をことごとくその反対物に変えるではないか?

 金は私を人間的な生活へ結びつけ、私に社会を結びつけ、私を自然と人間たちに結びつける絆であるならば、それはあらゆる絆のなかの絆ではないか? それはあらゆる絆を解いたり結んだりできないだろうか? だからそれはまた普遍的な分離剤なのではなかろうか? それは真の分離貨幣〔補助貨幣〕であるとともにまた真の接合剤でもあり、社会の化学的力なのである。

 シェークスピアは金においてとくに二つの属性を取り出している。

@、それは目にみえる神であり、あらゆる人間的および自然的諸属性の、それらの反対物への転化であり、諸事物の普遍的な混同と転倒であり、それはもろもろの不可能事を睦み合わせる。

A、それは人間たちと諸国民との普遍的娼婦、普遍的取りもち役である。
(マルクス「経済学・哲学手稿」マルクス・エンゲルス巻選集@ 大月書店 p84-86)

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◎「金は私を人間的な生活へ結びつけ、私に社会を結びつけ、私を自然と人間たちに結びつける絆である」「また真の接合剤でもあり、社会の化学的力なのである」……。