学習通信050506
◎「迷い道に踏み込まないための基本」……。
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科学の役割と限界
「価値観」という言葉は、あまり日常的には使わない言葉ですね。何か価値あるもので、何か価値のないものかという個々人の判断基準──これが「価値観」です。
科学的に証明されたものだけを信じる生き方も、一つの価値観です。しかし、科学的に証明されていようといまいと、自分の心のおもむくままに、信じたいものを信じるという生き方も、一つの価値観でしょう。人がどのような価値観をもつかは、その人の自由です。
「神は実在する」という命題は、「科学的命題」です。もちろん、この命題が「科学的命題」としての資格を得るためには、「神」という概念を明確に定義しなければなりません。「神とは人知や言語を超えたものである」などという訳の分からぬことを言っていたのでは、「科学的命題」として議論をはじめることさえできません。だから、議論に先だって、「神とは何か」についての客観的で明確な概念規定がなされる必要があります。
しかし、一方、神が実体をもった存在であるかどうかなどということとは別に、「神を信じることは素晴らしい」と考える立場もあります。言うまでもなく、この命題は「価値的命題」です。神が実在するしないにかかわらず、神を信じるというのも一つの立場であり、それはそれで一つの価値観です。そうした価値観をとらない人が、「実在するかどうかも定かでない神を信じて生きるなんて、愚かなことだ」と批判することはできるし、そうした批判は自由ですが、これは価値観の対立ですからいずれかに軍配を上げるという問題ではありません。人々が、それぞれの価値観にもとづいて神を「信じる」も「信じない」も、それは各人の完全な自由であって、科学がとやかく言う筋の問題ではありません。
死の危険に直面している人が、丹波哲郎さんの『大霊界』を読んで、「人間死んでも素晴らしい世界が待っているんだ」と信じながら心安らかに死途につくのを見て、「非科学的な死に方だ」などと茶々を入れるのは余計なお節介というものでしょう。「死後の世界」が実在するかどうかなどということに頓着せず、それをひたすら信じて心豊かに生きるのも一つの価値観の選択であって、当人の完全な自由です。
だから、科学にできることは、せいぜい、「スプーンが曲がるのは超能力である」とか、「こっくりさんでテーブルが動くのは霊魂の仕業である」とか、「UFOは宇宙人の乗り物である」とか、「サイ・パパは物質化現象で聖なる灰『ビブーティ』を掌中に作り出すことができる」とか、「心霊手術で癌の治療ができる」とか、「ミステリーサークルは宇宙人の仕業だ」とかいった命題の真偽を科学の立場から調べて見解を述べることぐらいであって、そうすることに価値を見出すかどうかはまったく別の間題です。
ただし、さしたる根拠もなく「霊はたたる」とか、「UFOは宇宙人の乗り物だ」などと決めつける人々は、徹底的に科学的・合理的立場を貫くべき問題についてもえてして非科学的・非合理的な立場に落ち込み、人生に不本意な結果を招きかねないということをよくよく考えるべきでしょう。自分自身の価値観を大事に育みながらも、科学的命題群については徹底的に科学的・合理的な思考を貫くこと──これが、迷い道に踏み込まないための基本です。
(安斎育郎著「科学と非科学の間」ちくま文庫 p20-22)
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大きな謎物語
空想の上ではいかにも巧く仕組まれた探偵物語があります。こういう物語では途中でいろいろ本質的な解決の手掛りが出て来て、私たち読者にその場合場合に適するような自分としての解釈を下させます。そして私たちが注意深く話の筋を辿ってさえ行けば、作者がその書物の終りで、実はかくかくの次第であったと打明ける以前に自分だけの力で完全に解決することが出来ます。まずい作り話ではそうもゆきませんが、こういう名作になるとその解決が私たちを失望させることもなく、しかもそれはちょうど私達の期待している時に巧く持ち出されています。
科学者をかような書物の読者に擬して、彼らは幾時代も幾時代も相ついで絶えず自然という書物の中の不可思議を解決しようとするものだと考えることは出来ないでしょうか。実はこう考えるのは間違っていて後にはやめなければなりませんが、その間に多少もっともな点もあって、この点をおしひろめて修正を加えれば、科学者が宇宙の謎を解こうと努力する有様をうまく現わすことが出来ます。
このように宇宙を大きな謎物語と考えると、この中の謎はまだ解かれてはおりません。ついには解き得るものだと断言も出来ないのです。自然という書物を「読む」ことによって私たちはいろいろなことを知りました。「読む」ことによって私たちは自然界の言葉の初歩をも覚えました。「読む」ことによって手がかりも大分理解出来るようになりました。科学はその発達の途上にしばしば行詰りの来ることがありますが、そんな時「読む」ことは喜びと剌激との源泉となりました。私たちは随分多く自然界を読んでこれを理解するようになりました。
しかしながら真の解決──そういうものがあり得るものとしても──はまだ程遠いのです。私たちはいつでも既発見の手がかりと首尾一貫する説明を見出そうとします。ともかくも承認されたいろいろな理論のおかげでたくさんの事実を説明することも出来ましたが、あらゆる手がかりと矛盾しないような解決はまだ得られていません。
一見完全と思われる理論も、更に「読ん」で行くと不完全なのがわかったことも非常に多いのです。その理論に矛盾する、あるいはそれでは説明の出来かねる新しい事実が現われて来るのです。読めば読む程、「自然の書物」の構成には非の打ちどころのないのがわかります。もっとも私達が進むにつれて真の解決は却って遠ざかって行くようにも思われますけれども。
コナン・ドイルの名作以来、どの探偵小説にも大概は、探偵が少なくとも問題のある方面に関しては、必要なだけの事実をことごとく集めてしまう時期があります。これらの事実は多くの場合に、全く異様な、支離滅裂な、何の関係もないもののように見えます。しかし名探偵は、その時はもうそれ以上の調査は不必要で、ただ思索のみがその集められた事実を関係づけるものだということを知っているのです。
だから彼はヴァイオリンを弾き、あるいは安楽椅子にもたれて悠然と煙草をふかし、しかもたちまちにしてこれを解決するのです。そして手許に得た手がかりの説明がつくばかりでなく、何か他の事も起ったにちがいないとわかるのです。その事柄はどこへ行けばわかるかが、今は彼にははっきり知れておりますから、何なら自分の理論を更に確かめに出掛けてもよいのです。
科学者が「自然という書物を読む」──まずい言い方を繰り返すことになりますが──にあたっては自分で解決を見出さなければなりません。というのは、他の物語を読む場合など性急な読者はよく書物の終りをめくって見るものですが、「自然の書物」を読む場合にはこんなことは出来ないからです。
「自然の書物」を読むのには読者は同時に探偵でもあって、少なくとも部分的にはある出来事と、いろいろなその前後の事態との関係を説明しようとするのです。ほんの一部分に関する解決を下すにあたっても、科学者たるものは乱雑な事実を出来るだけ多く集めて、独創的な考えによってこれを筋道の通った、理解のできるものにしなければなりません。
(アインシュタイン、インフェルト著「物理学はいかに創られたか -上-」岩波新書 p3-6)
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◎「「自然の書物」を読むのには読者は同時に探偵でもあって、少なくとも部分的にはある出来事と、いろいろなその前後の事態との関係を説明しようとするのです」と。