学習通信050508
◎「こんなことは、いわば常識です」……

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科学への懐疑とその背景

 科学への素朴な信頼は、戦後民主主義と深く内的に結びついていた、と思います。
 しかし、いつの頃からか、それは国民の共通感覚のなかに確かな場をしめえなくなってきているみたいです。
 いつ頃から、とそれを特定することはむつかしいのですが、およその見当では、五〇年代の半ばあたりに転換が生じている、といえそうに思います。

 一九五七年の春から秋にかけて、「朝日新聞」は「あいまいな言葉」と題するつづきものを毎週のせました。同年、有紀書房から一本にまとめて出版されましたが、そのなかに「科学的」ということばが「進歩的」などと並んでとりあげられているのは、いかにも象徴的です。

 そこではまず「科学的」ということばのもつ「日本特有のひびき」「その日本的なイメージ」が、四点にわたって指摘されていました。

@まちがいがない──くるいがない、ということ。いちぶのすきもなくピタリとあたる、割り切れる、それが「科学的」ということだ、というイメージ。

A人間らしくない──人間味がない、ということ。すべて論理づくめでうるおいがなく、非情、というイメ一ジ。

Bよくわからないが権威あるものだ、ということ。いい例がクスリの広告で、よくわかりすぎると、なんだか「科学的でない」印象を与え、権威がなくなる。

C生活に密接な関係があるようでいて、実はあまり関係がない、ということ。

 以上四つのイメージがいりまじって「科学的」ということばをあいまいにしている、というのでした。

 これは、生理学者のO氏の意見として紹介されていたものですが、そのO氏によれば、これは「日本人が自分で科学を築かず外国から輸入したということに原因がありそうだ」ということです。すなわち「ヨーロッパでは科学が人間の解放と深く結びついて形成された。ところが、出来上った科学をとり入れた日本では、その根底にある科学形成のエネルギーが忘れられた」と。これは直接にはAのところにつけられたコメントですが、Aだけに限定されるものではなかろう、と思います。

 少しあとに自然科学者H氏の意見が紹介されています。

「科学は計算である。その結果の価値判断は科学以外のもの、たとえば道徳とか政治とか宗教とかがやるものだ。もちろん科学は人類の幸福を追求する。だが、なにが人類の福祉になるのかは科学外の判断だ。正直にいって私などはそこまで手が回らない。たとえば原水爆実験にしても、実験国はあれを世界平和の維持に必要だといっている。はたして実験が平和維持のため必要かどうかは、たしかに大問題だが、それは科学のラチ外である。科学的≠ニいうのは正しい≠ゥ誤っている≠ゥであって、よい≠ゥ悪い≠ゥではない」

年表をくってみると、次のような背景が浮かびあがってきます。

一九五四年三月
  アメリカのビキニ水爆実験で、第五福竜丸、被災。
 四月 学術会議総会、核兵器研究拒否と原子力研究三原則を声明。
 五月 全国に放射能雨。
 九月 東北大学シンクロトロン完成。
  *電気洗濯機、ミキサーなど普及、「台所改善運動」すすむ。

一九五五年二月
  日本生産性本部発足。
 四月 東大の国産ロケット実験成功。
 八月 第一回原水爆禁止世界大会、広島で開催。
    森永砒素ミルク事件。
 十二月 原子力基本法公布。
  *高度経済成長のスタート。「神武景気」といわれ、テレビの普及はじまる。

一九五六年七月
 『経済白書』発表、「もはや戦後ではない」と書きだす。
  *水俣病発生。

 H氏は正直に語っているのだと思います。が、これでは「科学は非人間的なもの」ということになるのも無理はありません。──「もちろん科学は人類の幸福を追求する」ということと、「なにが人類の福祉になるのかは科学外の判断だ」ということとは、氏の頭のなかでどうつながっているのでしょう。

 もっとも、H氏のような意見ばかりだったわけではありません。科学史家のS氏は次のように語っていました。

「今日の科学は社会と密着している。個々の観察や計算などは、それだけで純粋に行われるであろうが、ひろい意味での科学的≠ニは、科学の社会的な機能までをふくめ て判断することだ」「科学を限られた範囲で狭く考え、その社会的な機能を他人にまかせているのは非科学的≠セ」

 哲学者のM氏もまた、次のように語っていました。

「私は純粋に科学的≠ネどというのはありえないように思う。なるほど初めと終りをぬきにして中間の部分だけをとりだせば純粋な科学≠フ概念をつくることはできよう。しかし、そのときの科学≠ヘ神にも悪魔にも仕える科学≠ノなってしまう。だが、今日、真の意味で科学的≠ニいうのはそのように抽象化され断片化された知識ではなく、全体的な判断でなければならない」

以上、とにかくこれは五〇年代なかばのあるがままの一記録です。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p117-122)

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 今から一世紀余り前、科学者たちは悩んでいました。光の速さについて、それまでのニュートン物理学とは決定的に矛盾する新事実が発見されたためです。

 私たちの日常体験によると、時速七〇キロのタクシーに乗っていて、向こうからくる時速ハ○キロの乗用車とすれ速えば、すれ速うときの相対的な速さは「時速一五〇キロ」という結構な速さになるでしょう。「ビュ〜ン」とすれ速うので、対向車のドライバーの顔の特徴を見定める余裕もなく、あっと言う間にすれ速ってしまうでしょう。

 ところが、同じ時速七〇キロのタクシーに乗っていて、後ろからくる時速八○キロの乗用車に追い越される場合はどうでしょう。すれ違いざまの相対的な速さは「時速一〇キロ」というのんびりした速さになるでしょう。ドライバーがどんな年格好の人か、どんな表情で運転しているかも割合ゆっくりと観察することができるでしょう。

 こんなことは、いわば常識です。
 ところが、今から一〇〇年ほど前に発見された事実は、この常識が光の場合には成り立たないことを示したのです。それは、こうです。

 私たちは気づきませんが、地球は太陽のまわりを秒速三〇キロで回っています。これをタクシーに見立てましょう。この秒速三〇キロのタクシーに乗って、向こうからくる光とすれ違う場合を考えてください。光の速さはおよそ秒速三〇万キロですから、光が地球とすれ違うときの相対的な速さは、さっきのタクシーと乗用車の場合を例にとれば、「秒速三〇万三〇キロ」ということになるでしょう。

 一方、こんどは、太陽のまわりを秒速三〇キロで走っている地球を、後ろからきて追い越す光を考えてみてください。光の速さはやはり秒速三〇万キロですから、追い越されるときの相対的な速さは、三〇万キロから三〇キロを引いて、「秒速二九万九九七〇キロ」ということになるでしょう。つまり、地球というタクシーに乗って、向こうからくる光とすれ速う場合と、後ろからくる光とすれ違う場合とでは、地球が走っている分だけ光の速さが違って観察されるはずなのです。わずかではあるが、この差は当時の技術でも十分正確に検出できるはずのものでした。

 ところが、光の速さは、向こうからくる光も、うしろからくる光も、寸分違わなかったのです。「光速不変の原理」の発見です。これは、それまで絶対だと思っていたニュートン物理学の屋台骨を揺るがす大事件でした。悩んだすえに、科学者たちはニュートンを捨て、新たに見つかった「光速不変の原理」にもとづいて新しい物理学の体系を組み立てました。

それが、一九〇五年にアルバート・アインシュタインによって発見された「特殊相対性理論」でした。そして、光の速さに比べて遅い物体の運動の場合には、特殊相対性理論のもとでの運動方程式は、ニュートンの運動方程式によって非常に正確に近似できることも分かり、相対性理論は古典的なニュートン物理学をも包みこんだ、より一般的な物理学の理論体系であることが明らかにされたのです。

 「分からないことは調べればいい」そして「矛盾につきあたったら、整合性をもった新たな認識の体系を組み立て直せばいい」──これが、極意です。超能力の問題を考える場合にも、この姿勢を保ちつづければいいでしょう。

 もちろん、私は、「まだ分からないことはたくさんある」ということを理解しつつも、同時に、「人間の努力で分かってきたこともたくさんある」ということをとても大切に感じています。だから、これまでの科学的知識の蓄積を玉のように慈しむ心を忘れたくありません。したがって、「超能力」や「心霊現象」についてのあいまいな噂話で、これまでの科学の蓄積をポイ捨てするようなことだけは決してするつもりはありません。不完全なことは承知の上ですが、現代の科学の側に立ちます。

 現代科学の擁護者の立場に徹底的に立って初めて、「超能力」や「心霊現象」に遊び半分ではなく、一種の厳粛な思いで真剣に対峙できるのだと思いますし、よく調べもしないで、「現代科学で説明できないこともある」などという一般論をもちだして「超常現象信奉」にのめり込むようなことはしないつもりです。

 だから、超常現象を信じたいと思っている人々には、私はきっと旧態依然たる現代科学にしがみつく頑固な科学者に見えるかも知れませんが、それは覚悟の上のことです。現代科学の体系的知識をないがしろにする姿勢からは、いいかげんな論議しか生まれないでしょう。

 これまでの説明でお分かりのように、私は「科学万能論者」ではありませんし、世の不思議現象は現代科学の力で難無く解明できると思っているわけでもありません。だから、調べもしないで「現代科学で説明できるはずだ」とか「現代科学を超えた現象だ」とか決めてかかるようなスタンス(姿勢)はとりません。「超能力だ」という主張があれば「本当か」と調べる──これが私の基本的な姿勢であり、その意味ではいたって常識的です。

 したがって皆さんも、「超能力」や「心霊現象」を扱うからといって、何か特別の姿勢で身構えるという必要もありません。
 どうか、ゆったりと構えて本書をひもといてください。
(安斎育郎著「科学と非科学の間」ちくま文庫 p30-34)

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◎「「分からないことは調べればいい」そして「矛盾につきあたったら、整合性をもった新たな認識の体系を組み立て直せばいい」──これが、極意です」と。