学習通信050510
◎「いちばんきらいな悪徳──追従」……

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友だちのような父親

 親として、おとなとしてせいいっぱいに生きながら同時に、子どもたちのよき遊び相手であり、相談相手でもある──言うにやすく、行なうに難きことのひとつです。とくに共働きだったり、なにか社会的な仕事をもったり活動をしていると、自分のことで手いっぱいか、あるいは時として思いだしたようにメチャクチャに甘やかしたり遊んでやるといったふうになりがちです。ひとりの社会人として懸命に生きぬきつつ、同時にりっぱに後つぎを育ててゆく──困難ですが、どうしても統一的にやりとげなければならない私たちの仕事ではないでしょうか。

 忙しいといえば、カール・マルクスという人はもっとも忙しかった人間のひとりでしょう。
 『資本論』をはじめ数多くの著作活動、革命運動の実際的な指導と助言、亡命と一生つきまとった貧乏・病気……。しかしそのなかでも、マルクスはよき家庭人であり、父親であったようです。その具体的なありさまは、『革命家マルクス』(土屋保男・新日本新書)などにいきいきと描かれていますが、「子どもたちのすてきな馬、すてきなお話じょうず、そして子どもたちのほんとうの話しあいてで、何でも打ち明けられる友だち、命令ではなくて、教えさとすマルクス」は、それだけでも子どもたちにけしがたい印象と影響を与えたといえます。

 三人の娘は長じてそれぞれにりっぱに父親のあとをついだといえますが、あるとき娘たちの質問に答えて、マルクスが自己について語った「告白」という短い文章のなかにも、私たちがしつけについて考えるばあい大切な親の姿勢が語られているように思えます。

あなたの好きな徳──素朴
あなたの好きな男の人の徳──強さ
あなたの好きな女の人の徳──弱さ
あなたの主要な性質──ひたむき
あなたの幸福観──たたかうこと
あなたの不幸観──屈従
あなたがいちばん大目にみる悪徳──軽信
あなたがいちばんきらいな悪徳──追従
好きな仕事──本食い虫になること
好きな格言──人間的なことで私に縁のないものはない
好きな標語──すべてを疑え
(近藤・好永・橋本・天野著「子どものしつけ百話」新日本新書 p26-27)

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親子というより四姉妹

 私の父は、二十六歳のときに一銭五厘のはがきで戦地に駆り出され、三十歳で戦死した。父と母が共有した時間は、わずか三年余りという短いものだった。箱人り娘であった母と、苦労を知らずにきた祖母と、二歳の私と、生まれたばかりの妹……。

 残された女四人は、世の荒波を避けて、ひっそりと肩を寄せ合って暮らした。必死でたたかっている母と祖母の姿を、まさに幼少のころから目撃してきたわけであるが、その姿が痛々しく思えて仕方なく、なんとかして拡が支えてあげたいと、これはもう物心ついて以来考えていた。戦後、母について食料の買い出しにいき、自分の体ほどもあるリュックを背負って歩いたりした。

 両親がいて、兄弟姉妹の多い家庭の友達がうらやましかった。大きくなったら、毎年子どもを産んで、バック・ナンバーのようにそろえたいと考えていた。

 大学を卒業して、大学院の修士課程一年目に結婚し、すぐに妊娠した。いよいよバック・ナンバー第一号が手に入る……と喜び勇んでいた私は、異常に激しいつわりにもひたすら耐えた。しかし、五ヵ月目にはいって胞状奇胎であることが判明し、余儀なく人工流産をした。これは、胎盤がガン化して胎児を食い、子宮壁にまで侵入するものである。

 発見が遅れたので、母体の方にも危険がおよんでいた。ガンのなかでもとくに悪質のもので、実際にこのガンがわずか数週間のうちに全身に転移して亡くなる人を目の前で見ることになった。私の場合もガン・モニター・テストが二ヵ月たっても陰性にならず、子宮摘出が検討された。

 「冗談じゃない!」と、私は病院中に聞こえるような声で叫んだ。家のなかに子どもの笑い声がいっぱいにあふれている情景しか思い浮かべられない私は、子どものいない人生を送るくらいなら、今死んでもいいのだから、と主治医を説得した。実のところ命をかけた選択であったのだが、治療が功を奏したのか、こちらの執念のたまものか、なんとか危機を脱出でき、病院からも放免されたが、それから五年間は妊娠厳禁というきびしい執行猶予がついていた。

 執行猶予が解けたあと生まれたのが長女である。長女が生まれたとき、世界中の景色が変わったように思えた。うれしくてうれしくて、結局その日は終夜、目をランランと輝かせたまま一睡もできなかった。

 翌年二女が、二年置いて三女が生まれた。「バック・ナンバーを十冊ほど」はかなわなかったが、病院で過ごしたあの極限の時間を思うと、夢のような幸せである。娘たちは美しく成長し、今、二十歳、十九歳、十六歳になった。

 夫は仕事で帰宅が遅いので、ほとんどの時間は娘たちと私とで過ごしている。娘たちと囲む食卓は、明るく華やいでいる。台所は娘たちが預かっている。面倒を見てもらっているのは私のほうである。精神年齢の低い私と、良くできた娘たちとの取り合わせは、親子というよりは四姉妹というのがふさわしい。人生を、恋を、仕事を、そして遊びを語り合う……というと格好良く聞こえるが、要するになんでもいいたい放題である。遠慮のない本音が飛びかう。

 苦労の末に手に入れた子どもたちである。飛び切り上等の娘たちである。親ばかを絵にかいたような私である。こうなると、私は観音さまのようにやさしい母親で、声ひとつ荒げたこともないとしても不思議はないが、実はそうではない。

 ふだんはだらしのないくらいメロメロに甘い母親であるが、一年に何度かは、あらしのように怒り狂うことがある。娘たちがそれぞれの社会生活のなかで出会う困難をうまく処理できないさまがもどかしくて見ていられなかったり、試練に晒(さら)され傷つく姿がかわいそうで耐えられなかったりするときである。自分でもなにを対象に憤っているのか分からないのではあるが……。

 傷つきながら自分で学び取っていくのを、そばで見守っていてあげるのが親としてとるべき態度であることは、理性では分かっているのだが、つい黙っていられなくなってしまう。世問の風に当てないように親鳥の羽の下に守っていてあげたいと思ってしまう。

 昔、母のたたかう姿を見て、こちらはまだ年端も行かぬ子どものくせに、母を保護してあげられたら、と思った。そして今、子どもたちの傷つく姿を見て自分自身の痛み以上に心をわずらわせている。攻守ところを変えても良いころなのだが、自分だけはなににでも立ち向かえると信じているひどい思い上がりなのか、苦労は自分が背負い込もうと考える困果な性格なのか。

 そろそろ、こちらの羽もかなりくたびれてきているはずであり、子どもたちの羽の方がよほどたくましく育っているであろうに、まったく困ったものである。

子どもの数だけ十字架背負う親

 子どものころに読んだ本のなかで、『クオレ・愛の学校』というのが、心に残っているもののひとつである。毎月の物語として挿入されているどの話も、それぞれの意味で感銘を受けたが、なかでもなにかの折にしばしば私の思考の地平に現れる場面がある。

 船が難破し、もう数分もたてば沈没することになったとき、救命ボートの席があとひとつだけになってしまう。船に残されていた幼い少年が、知り合ったばかりの少女にその席を譲り、自分は船と運命を共にするという話である。

 ずっと後になって、青函連絡船の洞爺丸が台風で遭難した際の話を聞いた。救命具の数が足りなくなったとき、ある牧師さんが、自分の着けていた救命胴衣を外して人に譲り、結局その牧師さん自身は助からずに亡くなったということであった。

 このふたつの話は、私が愛について考えるときに、いつも胸のうちを去来する。ひとつしかない救命胴衣を喜々として相手に与えられるかどうかを、愛の尺度として考えることがある。

 最初にこれを考えた子どものころは、躊躇することなく救命胴衣を与えられる人として母がいた。当然、祖母や妹も含まれていた。子どもが生まれて、子どもたちがそこに加わった。夫が勘定に入っていないのは不公平に思えるかもしれないが、夫はいかにもたくましく見えて、救命胴衣などなくても悠々助かりそうな気がしているので、こういう対象としてはあまり思い浮かばないのである。

 しかし、このような想定は、思考実験としてはありえても、日常生活のなかで実際に命にかかわる極限状態での選択を迫られることは、そうひんぱんにあることではない。私の子育ての過程のなかでも、こういうことを考えるところまで追い込まれたのは、多少状況が異なるのだが、幸いなことにただ一度しか経験していない。

 ある日、娘のひとりがいなくなった。常日ごろから物事をすべて、いじらしいほどに真面目に受けとめる性格である。難しい本を幾冊も読み、人生とはなんぞやとか、人間はなんのために生きているのか、という類の問いに真正面からとりくんでいる娘であった。ときとして、哲学的な言葉や、厭世的なことを口走ったりもしていた。

 この時も、まったく突然というわけではなく、こちらにも幾分かの予感があり、危惧を抱いていた。実際、いなくなる前夜も、私の部屋に呼んで、命の尊さについて話し合った矢先のことである。残されたメモなどから判断しても、自殺を志向していることは明らかであった。

 結論からいうと、死に場所を捜して歩いた末、死に切れなかった娘から、五日後に電話があり、私は着のみ着のままでハンドバックだけを抱えて空港に駆けつけ、最果ての地に飛んで娘を連れ帰り、この件は一応落着したのであったが、私の子育てのなかで一番苦しかったときは? とたずねられたら、迷わずこの五日間をあげるであろう。

 この五日間、何がつらかったといって、施す手立てのないことほどつらいことはなかった。どんな難題であっても、こちらがなにかをしたり、なにかとたたかったりすることで、問題が解決するというのなら、敢然と立ち向かうことができる。娘の立ち寄りそうな先に連絡し、心当たりを捜し回った後は、ただ待つしかなかった。なにを待っているのかさえ分からない。家族全員が文字通り生きた心地もなく、呆然自失の体でまんじりともしなかった。

 私の人間としての弱さ、脆さ、繊細さ(と本人がいうとあまり真に迫らないが)をそのまま受け継いで生まれた娘に、申し訳ない、気の毒なことをしたと、そればかり考えていた。生来の脆さを克服するために、私が長年かかって辛うじてかちとってきた強さを培うだけの時間を、娘はまだ生きていない。

 娘に人間として足りないところがあるとしたら、それはとりも直さず親である私の責任だと思った。子どもを産み育てることは、子どもの数だけの悦びを増やすことでもあるけれど、同時に、子どもの数だけの十字架を背負うことでもあるのだと、このときになって初めて気がついた。

 どんな姿になっていようとも、ともかく生きていてほしいと祈る思いであった。神様……といいかけて、日ごろ余りお付き合いもないのに、これは身勝手に過ぎると考え直して、ご先祖様におすがりすることにした。十年前に他界した祖母の写真の前にひざまずいて、「私の寿命というものがもし残っていますなら、それをすべて引き替えにして娘を無事で帰してください」とお願いした。私の救命胴衣をしかと差し出したのである。娘が無事で帰ってきたからには、私はいつお迎えがあっても文句はいえない立場である。

 朝、目を覚ましたとき、ああ、皆元気で生きているんだ、としみじみ実感する幸せ……今まで当たり前に思っていたそのことが、どんなに大切なことであるか、そして、それ以上なにも望むことはないのだと知ったのは、それ以来である。
(米沢富美子著「人生は夢へのチャレンジ」新日本出版社 p170-179)

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◎「傷つきながら自分で学び取っていくのを、そばで見守っていてあげるのが親としてとるべき態度であることは、理性では分かっているのだが、つい黙っていられなくなってしまう。世問の風に当てないように親鳥の羽の下に守っていてあげたいと思ってしまう」と。

◎「ひとりの社会人として懸命に生きぬきつつ、同時にりっぱに後つぎを育ててゆく──困難ですが、どうしても統一的にやりとげなければならない私たちの仕事」と。