学習通信050512
◎「もうけをうみだす「金の卵」」……

■━━━━━

二人の先輩の話

 私は職場に入って一年間は、ほんとうにヤミクモに働いた。しかし、うすっぺらな給料袋を手にするたびに、これが白分のネウチか≠ニ頭にきた。そのころ、雑誌でこんな詩をよんだ。

つらいことがあっても じーっとこらえて 悲しいときにも じーっとがまんして だまって働くんだョ そうすりゃ きっと 上の人に認められるから 就職列車の窓ごしに 何度も 何度も 叫んでくれた 母さんの言葉 その言葉を信じて働きつづけたおれ 「父さんのいない家は…… おまえだけが頼りなんだ」 そう訴えかけている母さんの瞳が おれを残業にかりたてた けど母さん 生きるということは 耐えることばかりじゃない! 生きることは たたかうことなんだ! そう教えてくれた仲間がいるんだ 母さん どうしよう!

 この詩は私の心臓をつき刺した。私のこころをゆさぶった。それから、どうもたたかう≠ニいう文字と、おふくろの顔が二重うつしになって、おもいなやんだ。そのころ、ある先輩から労働者ちゆんは、自分だけいい子になろうたってダメなものだ。仲間みんながしあわせになるなかで、自分もしあわせになれるんだ≠ニ開かされて、とうとう組合にはいる決心をした。そして、いま、ほんとうによかったとおもっている。仲間ってつくづくいいなあとおもうようになった。

 これは、ある組合の新入組合員の歓迎会で、二年先輩の若い仲間がのべた歓迎のことば≠セ。
 もう一人の仲間は、「私は一匹狼、腕一本で生きるんだ。組合なんか関係ないと、すきなことを思うままにやってきたが、やっばりダメだった。交通事故をおこしたとき組合がどんなに親身にめんどうをみてくれたことか……そして、組合活動に参加するようになった」と経験をかたった。

 この二人の若い先輩たちのトツトツとした歓迎のことば≠ヘ、新しい職場に入った時の期待と現実にたいする失望、そして、これからの生き方についての悩みがいりまじっていた新しい仲間たちの胸をうった。それからみんなで腹いっぱい飲んで食って、ギターにあわせて思いっきり大きな声でうたううちに、いつのまにか、「仲間はいいなあ」といった先輩のことばが、みんなのこころに実感としてわきあがっていた。

 考えてみれば、ふしぎなことじゃないか? 昨日まで、まったくアカの他人で、百人百様、みんなちがった人生のみちを歩んできたものが、仲間≠チてよべるんだから。

 同じ職場にやとわれ、同じ職場でいっしょに働くようになったからだ。いや同じ職場でなくったって、同じ産業に働く労働者だからだ。いや、あらゆる産業に働く労働者は、みんな仲間なんだ。

人間らしく生きるために

人間らしく生きる三つの条件

 しあわせは おいらのねがい 仕事はとっても苦しいが 流れる汗に未来をこめて 明るい社会
をつくること みんなと歌おう しあわせの歌を ひびくこだまを追ってゆこう

しあわせは わたしのねがい 甘い思いや夢でなく いまのいまをより美しく つらぬきとおして生きること みんなと歌おう しあわせの歌を ひびくこだまを追ってゆこう

 私たちは、みんな人間らしいしあわせをねがっている。
 「もっと人間らしい扱いを」「高い賃金を」「自由な時間を」「恋人がほしい、なんでも話せる仲間がいたら」「おもいっきり遊びたい」……若い仲間は無限の夢をふくらませて、ほんとうに生きがいのある、ゆたかな青春をもとめている。
 私たちが、人間らしい生活をするためには、最低つぎの三つの条件がみたされねばならない。

一、世間なみの衣食住が保障されること。
二、毎日働く職場が明るく、労働に誇りをもてること。
三、人間らしい生活を妨げているいろいろな問題を一つひとつあらためて、よりよい環境をつくりあげる自由──民主主義が保障されていること。

 まず、第一の条件から考えてみよう。

労働者とは、どんな人間か

 私たちは、どうして衣食住に必要なものを手に入れるのだろうか。「買って」だね。ところで何を買うにも先だつものはカネだ。では、カネは、どうして手に入れる? 「働いて」だ。仕事や会社はちがっても、みんな「やとわれて」働いて、賃金というかたちでカネを手に入れる。それで衣食住に必要なものを買って生きている。これが、私たち「労働者という人間」の生き方だ。

 ところが、世の中には、これとまったくちがった生き方をしている人間がいる。資本家だ。かれらは人(労働者)をやとって働かせ、自分では働かないで、もうけて生きている人間だ。
 同じ人間でありながら、どうして、こんなちがいがうまれるのだろう。

 それは、いまの資本主義社会では、労働者は何一つ生産手段(ものを生産したり運んだりするのに必要な土地、建物、トラック、機械、設備などの労働手段と原料、燃料、電気などの労働対象をあわせたもの)を所有せず、自分のからだにそなわった労働力(肉体的、精神的エネルギー)を売って、つまり、どこかの会社や役所にやとわれて、働いて、賃金をもらって生きるよりほかに、生きるみちがないからだ。

 これに反して、資本家というのは、自分ひとりではつかいきれないベラボウな生産手段をもっていて、何百人いや何千、何万人の労働者をやとって働かせ、もうけをあげて食っているのだ。
 つまり、いまの社会には、生産手段をもっているか、いないかのちがいを根本にして、資本家階級と労働者階級という二つのまったくちがった社会的集団=階級が存在しているのだ。

 なるほど労働者は、むかしの奴隷のように身体ごと売買されたり、農奴のように土地にしばりつけられてはいない。Aという職場がイヤならBという職場にかわることもできるし、自分の時間は、自分のすきなことにつかえる。たしかに自由≠セ。

 しかし労働者は、どこかの資本家にやとわれ、働いて賃金をもらわないと明日から食っていけない。家族をやしなうこともできない。つまり、目にみえない賃金という鎖で資本家階級につながれ、どんなにもがいても、そこからは自由になれない。この意味で「賃金奴隷」とよばれる。

労働者こそ人間のなかの人間

 ところが、資本家がたとえ世界最新の機械をすえつけ、何百台のバスやトラックをそろえ、デラックスな施設や建物をつくっても、そこで、労働者が働かなかったら何一つ生産されないし、何の役にもたたない。資本家はビター文もうけることもできない。

 いや、これらの生産手段も、もとはといえば、みんな労働者がつくりだしたもので、資本家がつくりだしたものは何一つない。
 だから、どんなに貧乏でピーピーしていようと、汗と油でうすよごれていようと、労働者こそ社会の土台である生産や流通のにない手だ。

 道具をつくり、労働によって自然にはたらきかけて人間生活に必要なものをつくりだす──ここに人間と動物のちがいがあるのだ。だから生産のにない手である労働者こそ、人間のなかのもっとも人間らしい人間だということになる。労働の尊厳とか「労働は神聖だ」といわれるのも、このことだ。

 この人間のなかの人間である労働者こそ、人間らしい生活をするのに必要な衣食住を誰よりもゆたかに保障されるのは、社会の進歩のために当然のことではあるまいか。

 ここから第二の条件である「職場が明るく、労働に誇りをもてること」ということも、また、あたりまえのことだ。
 労働者が毎日の労働によろこびと誇りをもって、明るくたのしく働くことができてこそ、はじめて、ゆたかな社会、人間らしい生活のできる社会だといえる。

労働の尊厳と誇りをふみにじる奴は誰か

 だが、現実に、第一と第二の条件はみたされているだろうか。
 「大幅賃上げ」「時間短縮」「人員ふやせ」「休暇をふやせ」「レクリエーションを」「寮や社宅の改善を」……。切実で多面的な労働者の要求がこれにこたえている。
 職場はくらくて、自由にものもいえず、四六時中、監視のきびしい眼がどこかに光っている。

 ところが、資本家はどうだろう。「ナショナル」の松下幸之助氏の個人所得は年間九億円、一時間に一〇万円余、一分間に一、七〇〇円という勘定だ。日給一、〇〇〇円の労働者が九億円稼ぐのにどのくらいかかるとおもう? なんと三三〇〇年、気の遠くなるような話だ。三〇〇〇年前といえば日本の縄文土器時代、エジプトのピラミッドがつくられた時代だ。その昔から今日まで、一文もつかわず、のまずくわずでためてきた総額を松下氏はガッポリー年間でフトコロにいれるのだ。

 「世の中狂っちやいませんか」っていいたくなるね。これでは労働の尊厳も「神聖」もあったものではない。この月とスッポンのちがいは、いったい、どこからくるのだろうか。

 労働力を買った資本家が、私たちの尻をたたいて、給料の三倍も四倍もの「働き」をしぼりとるからだ。生産手段を所有しているというただそれだけの理由で、労働力のうみだしたもうけのなかから、チョッピリ賃金に支払う分をのぞいた残りの全部が、資本家のフトコロにころがりこむからだ。

 松下会長の九億円は、こうして、みんな労働者がうみだしたものだ。だから、かれらにとっては労働者は、もうけをうみだす「金の卵」なんだ。そして、いまの社会では生産手段を所有し、労働者をしぼりあげて大もうけをしている大資本家が経済はもちろん、政治を支配しているのだ。

 労働者が人間らしい生活をうばわれ、若い君たちが青春をふみにじられているのも、根本のわけはここにある。労働の尊厳、労働のよろこびと誇りをふみにじる奴はだれだ! こう私たちは問いつめ、その張本人を告発しなければならない。
(「労働組合員教科書」1973年 学習の友社 p12-18)

■━━━━━

 プロレタリアートと富は対立物である。これらの、ものは、このようなものとして一つの全体をなしている。それらは私的所有の世界の二つの姿態である。この二つのものが対立のうちで占める一定の地位が問題である。これを全体の二つの側面として説明するだけでは足りない。

 私的所有は、私的所有として、富として、自分自身を、そしてそれとともにその対立物たるプロレタリアートを存立させておくことを余儀なくされている。それは対立の肯定的な側面であり、自分自身に満足した私的所有である。

 プロレタリアートは、逆に、プロレタリアートとしては、自分自身を、そしてそれとともに、彼をプロレタリアートとし、彼を制約する対立物を、すなわち私的所有を揚棄することを余儀なくされている。それは対立の否定的な側面であり、対立自身における不安定であり、解消された、また解消されつつある私的所有である。

 有産階級とプロレタリアートの階級は、同一の人間的自己疎外をあらわしている。だが前者の階級は、この自己疎外のうちに、快適と安固を感じており、この疎外が彼みずからの力であることを知っており、また疎外のうちに人間的生存の外見をもっている。後者はこの疎外のうちに廃棄されたと感じ、そのうちに彼の無力と非人間的生存の現実性を見てとる。それは、ヘーゲルふうの表現をもちいていえば、永罰のうちにおける永罰にたいする反逆であり、彼らの人間的本性と、この本性を率直に、断固として、全般的に否定している彼らの生活境遇との矛盾によって、やむなくそこまでかりたてられるところの反逆である。

 だから対立の内部では私的所有者は保守派であり、プロレタリアは破壊派である。前者から対立を維持する行動が生じ、後者からこれを絶滅する行動が生じてくる。

 たしかに、私的所有は、その経済的運動のなかで、それ自身の解消をめがけてつきすすむが、しかしもっぱらそれは私的所有とは独立な、無意識の、その意志に反しておこってくるところの、事の性質によって制約された発展をつうじてのことであり、もっぱらそれがプロレタリアートをプロレタリアートとして、彼の精神的および肉体的な窮乏を意識した窮乏、自己の非人間化を意識し、それゆえ自分自身を揚棄しつつある非人間化として生みだすことによってである。

プロレタリアートは、私的所有がプロレタリアートを生みだすことによって自分自身にくだした判決を執行する。それは賃労働が他人の富と自分自身の窮乏を生みだすことによって自分自身にくだした判決をプロレタリアートが執行するのと同じことである。

プロレタリアートが勝利しても、それによってそれはけっして社会の絶対的な側面になるのではない。なぜなら、プロレタリアートは、自分自身とその相手側とを揚棄することによってはじめて勝利するからである。そうなったときに、プロレタリアートも、またこれを制約する対立物の私的所有も消滅する。

 社会主義的著述家たちがプロレタリアートにこの世界史的役割をあたえるのは、それは批判的批判が信じているふりをしているように、けっして彼らがプロレタリアを神とみなしているからではない。かえってその反対である。

いっさいの人間性の捨象が、人間性の外見の捨象さえもが、完成されたプロレタリアートのうちに実践的に完了しているために、プロレタリアートの生活条件のうちに今日の社会のいっさいの生活条件が、最も非人間的な極端にまで集約されているために、人間がプロレタリアートたることによって自己を喪失しており、しかも同時にこの喪失の理論的意識をかちえているだけでなく、また、もはやしりぞけようのない、もはや言い飾りようのない、絶対に有無をいわせぬ窮乏−必然性の実践的表現──によって、この非人間性にたいする反逆へと直接においこまれているために、そのためにプロレタリアートは自分白身を解放することができるし、また解放せざるをえない。

だがプロレタリアートは、彼自身の生活条件を揚棄しないでは、自分を解放するわけにいかない。それはプロレタリアートの境遇に集約されている今日の社会のいっさいの非人間的生活条件を揚棄しないでは、彼自身の生活条件を揚棄するわけにいかない。プロレタリアートは、はげしくはあるが彼をきたえる労働の学校をむだに卒業するわけではない。

あれまたはこれのプロレタリアが、あるいは全プロレタリアートすらもが、さしあたり何を目的としておもいうかべているかが問題なのではない。問題は、プロレタリアートがなんであるか、またこのなんであるかにおうじて歴史的に何をするように余儀なくされているか、ということである。その目的と歴史的行動は、彼自身の生活境遇のうちにも、また今日のブルジョア社会の全組織のうちにも、明白に、取り消しようのないように示されている。

イギリスとフランスのプロレタリアートの大部分が、彼らの歴史的任務をすでに自覚しており、この自覚をまったく明確なものにつくりあげようとたえずつとめていることは、ここでくわしく述べるにおよばない。
(マルクス著「聖家族」マルクス・エンゲルス8巻選集@ 大月書店 p93-95)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「あれまたはこれのプロレタリアが、あるいは全プロレタリアートすらもが、さしあたり何を目的としておもいうかべているかが問題なのではない。問題は、プロレタリアートがなんであるか、またこのなんであるかにおうじて歴史的に何をするように余儀なくされているか、ということである」と。

松下幸之助と労働者……奥田碩と労働者……昔も今も、いや格差はもっと酷い。