学習通信050513
◎「はこばれるとまもなく多喜二は絶命した」……。
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ひと
伊藤千代子の獄中最後の手紙の公開に尽力した
畠山忠弘さん
国の主人公は、天皇でなく国民だ、と主張する日本共産党員というだけで、逮捕され、刑務所に入れられた戦前。一九二八年。
その党に二十二歳で加わり、十六日目に逮捕・投獄。拷問され、変節を迫られ、愛する夫の転向に直面しても「節」を曲げず。しかし、苛烈(かれつ)な造反に病に倒れ、二十四歳で世を去った伊藤千代子とは。
「彼女の最後の手紙が苫小牧市にあることは、まったく知りませんでした」
三年前の正月、東京の研究家から、その旨の手紙を受け取り、「確認」を頼まれたのです。千代子を知るにつけ、粘り強い信念、心根のやさしさに驚嘆。魅力のとりこになりました。
手紙は、疎開先・苫小牧市の文化振興に功ありとして、市立中央図書館に「コーナー」が設けられている、千代子の夫の未公開資料の中にありました。
「命あるものはみんなあらん限り生きようとしているのですね……」(義妹への手紙)。獄舎のれんが屏にしがみつくように咲く「地しぼり」の花に自らを重ねた千代子の生きざまと無念。これを世に知らせたい。当時、同市の共産党市議団長。闘志がわきました。
議員団で協議、市議会で公開を迫り、中央図書館に通い、資料を集め、千代子の地元・諏訪市にも二度行きました。この四月一日から、夫の母や妹、弟への手紙四通が公開の運びに。
市議を退いた今も、人々の面倒をとことん見ています。七月三日に同市で開催する「伊藤千代子最後の手紙公開記念の集い」の準備に忙しい毎日です。
文・写真 土田 浩一
(しんぶん赤旗 2005.5.12)
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足跡をたどってみて
伊藤千代子さんの二十四年の生涯をまとめてきました。
すでに彼女が死んで半世紀以上もたち、しかも共産党員や活動家が「非国民」「国賊」といわれた社会、党活動も非公然をよぎなくされた時代の資料は今のゆたかな情報化社会では考えられないほど限定されたものしかありません。
私が伊藤千代子さんの名をはじめて知ったのは、『月刊学習』で婦人共産党員の生き方を紹介するために調査対象としてピックアップしている時でした。その後、東栄蔵さんの書いた『伊藤千代子の死』を読んだ私は、土屋文明さんの歌を介して短歌を詠む人たちの間で関心がもたれ、生いたちを中心に調査されていたことに感銘をうけるとともに、戦前の共産党の歴史にかさねて彼女の生き方を調べ明らかにしたいと思ったのでした。
短歌にかかわる人のなかでは、短歌誌『未来』に伊藤千代子がことぞかなしき≠書いた吉田漱さんもいます。また、諏訪で伊藤千代子さんの墓をまもっているまたいとこの伊藤善知さんによると、やはり短歌にかかわって千代子さんを知り、だいぶ前に高知県から千代子さんの墓を訪ねて来た人がいたということです。その人が「赤旗」をすすめ郵送してくれていたといいます。今回の調査でその話を聞いた『月刊学習』編集部の田畑さんがその場で「赤旗」の購読をすすめ、地元の人に配達をしてもらうようにしたそうです。
諏訪地方で育った千代子さんが、同級生や代用教員の仲間、教え子のなかで、忘れられない印象をあたえていたことはこれまで書いたところですが、戦後に地元の新聞が千代子さんのことを報道したとき、病死した千代子さんの棺が荒縄でぐるぐるまきにしばられて監視つきで送られてきたと書かれたといいます。しかし伊藤善知さんは千代子さんは、火葬にされ骨つぼに入れられて帰郷したのが事実であると語っています。
小学校時代の現存する同級生の数人に電話(男性ばかりでしたが)をしても新しい情報を得られませんでした。七十年前の記憶をたどることの困難は当然でした。もっと早い時期に、千代子さんの情報、資料をあつめておきたかったと悔やまれました。
そんななかで、小学校の同級生で、千代子さんが諏訪をはなれるまで交流のあった松本ムメヨさんが諏訪市に健在でした。毎年、九月二十四日が近づくと千代子さんのことを思いだすという松本さんは「面長でロが小さく、背がすらっとしていてお姫様のように美しい人だった」千代子さんのことを「どうぞみんなに知らせてください」と話され、また、この取材に協力してくれた諏訪市の「赤旗」出張所の同志は「諏訪市にこんな立派な先輩がいたことをはじめて知りました。すぐれた先輩のたたかいに大いに学んでいきたい」と語っていました。
千代子さんが仙台の学校へ行ったのはなぜか≠ニいうことがいろいろといわれていました。今回の調査でやはり彼女は英語を学びたいという意欲をもち、そのために仙台の尚網女学院に進学したことが本当のところだろうという確信を持ちました。それは、一つは三瓶孝子さん(経済学者)が東京女子大の入学試験を同じ仙台で一緒にうけているのですが、その試験場で英語を学ぶために仙台にきていることを話していること、このとき東京女子大に合格したのは三瓶さんと千代子さんの二人だったというわけですから、その印象は強かったと思います。
もう一つは、新たにわかったことですが、土屋文明さんの夫人のところに千代子さんが英語を習いに通っていたという事実です。これは、土屋文明さんの家族の方が『月刊学習』一九八五年四月号の伊藤千代子の話を土屋さんに話したところ、土屋さんの知っていることもほぼ同じような内容であることをいわれながら、その話のなかで、三年前に亡くなった夫人が英語を教えていたことを話されたことで判明したことです。土屋さんの夫人は津田英語塾を卒業した人でした。
土屋さんにとっては、諏訪高女の一女生徒というだけでなく、直接土屋さんの家に出入りし、向学心に燃えた女生徒として、その姿が強く焼きつき、その人がらとともに、忘れがたい女生徒だったのでしょう。新たな事実がわかるたびに喜びとともにもっと早く手を打たねば≠ニ思うばかりです。
千代子さんの東京女子大時代の活動、さらに三・一五で検挙、獄中のたたかいなどについて、調査を必要とする内容が次々とでてきました。そんなときに千代子さんの裁判所の聴取書や訊問調書がみつかりました。戦前の裁判所の予審は、共産党員の思想そのものを罰とする立場でおこなわれ権力の側の彼らにとって有利な材料を裏づけようとするため、すべてを無条件に使うことはできません。しかし、他の裏づけ資料をあわせるなら一定の資料ともなります。
ところが、これらの記録が旧かなづかいの旧漢字用語、そのうえ写真複写であるために、私には判読じたいがやっかいなことでした。それを、日本共産党中央委員会党史資料室の蓮見さんが現代かなづかいに直して、便箋にきれいに書きなおしてくれるという労をとってくださったことで、それが活用可能となったということもありました。
聴取書の第二回、三月二十四日付を読み、最後に「警部毛利基」の名をみたときには身体がふるえる思いがしました。小林多喜二の死の場面がうかび千代子さんあなたも毛利に……≠ニ思わず「ああ」とうなってしまいました。
彼女が科学的社会主義を知り社会活動に参加しだしたのは東京女子大でしたが、当時の、学生運動のなかでも女子学生の中心的存在であったこと、すでに反党分子や党を脱落した人たちもふくめて、党員や活動家が数は少なくともいたこと、そして当時の活動のようすを知る手がかりもいくらか見つけだすことができました。
こうした資料を照らしあわせながら千代子さんの活動の足跡をあとづけていったのですが、なかでも塩澤富美子さんが戦後一時期に発行されていた『新女性』や『信州白樺』に千代子さんの思い出を書かれた内容は、千代子さん像をいっそう鮮明にするものでした。
塩澤さんのお宅で話をうかがったとき、千代子さんの姿にはじめて出会いました。そして、塩澤さんが千代子さんの全人格に敬愛をいだき「私が頼ってきた人で、姉のような感じでした」という言葉に、大学の寮で静かに社会のあり方や矛盾、学業について語りあう二人の姿が目にうかぶようでした。決してアジテーターではなかったけれど、説得力があり、心の強さを秘めていた千代子さんだったと話す塩澤さん。同じ時代に共通の思想で結ばれた二人がとても似ているという印象をもったのは私だけではないようです。
今回の調査で、千代子さんの三・一五検挙のときのようす、そのときの党の任務などが明らかになりました。党の中央事務局で全力で任務を果たしていた彼女が検挙、投獄されたとき、ひるむことなく敢然とたたかったのでした。
『月刊学習』四月号(一九八五年)で伊藤千代子さんのことがとりあげられているのを知って一冊の本が届けられました。『月刊学習』を印刷している光陽印刷の矢作さんからでした。その本は矢作さんの夫人の母・原菊枝さんの『女子党員獄中記』復刻版で、そのなかに千代子さんの獄中のようすが書かれていました。これまで書かれた千代子さんの獄中の姿といえば精神に異常をきたしたときのようすばかりが中心でした。
でも私は、その状況だけをとりだして千代子さんの獄中を書き残すのは、読み手には強烈かもしれないけれど、正しい継承ではないし、正確ではないと思ってきました。彼女は敵権力によって拘禁性の精神病におとしいれられたのであり、それは夫の党への裏切りに遭遇したことへの怒りと悲しみの深さとしてみるべきだと思うのです。また、彼女の獄中での同志や肉親にたいする態度につらぬかれている共産党員像をこそ書かれなければと思ったのです。
今回の調査で彼女の精神状況がその後たしかに回復していたこともわかり、その死はまさに天皇制権力と党を裏切った者たちへの憤りのなかでの死であったのです。
そしていま、千代子さんの墓は、諏訪市湘南の南真志野の竜霊寺にあります。細長い黒御影石の墓の表には「圓覚院智光貞珠大姉」と刻まれています。この墓の近くに、かつての千代子さんの実家がありました。
戦後四十年の年に、こうして千代子さんを記録でき、私自身にとっても忘れられない出会いとなりました。
(広井暢子著「女性革命家たちの生涯」新日本出版社 p27-32)
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洋服を着ていた今村恒夫は、かなり逃げのびることができたが、自転車で追跡してきた特高の体当たりをうけて、彼もまた逮捕された。
二人はそこからすぐ築地警察署へ送られた。
江口渙は、「作家小林多喜二の死」という文章のなかで、つぎのように今村の証言をつたえている。
「築地署へ引っ張って行かれた小林は、最初山野次郎と称して、頑として本名をいわなかったが、顔見知りの水谷特高主任が写真と人相書をつきつけたので、仕方なしに名前だけはいった。
やがて警視庁から特高係長中川成夫が、部下のテロ係の須田巡査部長と山口巡査を引きつ れてやって来て、訊問にとりかかった。すると小林は今村を省みて、
『おい、もうこうなっては仕方がない。お互に元気でやろうぜ』と、声に力をこめていい 放った。
それを聞いた特高どもは『何を生意気な』というが早いか、中川警部の指揮の下に、小林を寒中まる裸にして、先ず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかった。築地署の水谷主任、小沢、芦田などの特高係四五人が手伝った」
二人はそれぞれ別室にいれられて、今村の拷問は築地警察の特高にまかされ、残忍な性格で知られている警視庁特高の須田と山口は多喜二にかかった。しかし、彼は、身をもって党と信念をまもり、最後まで屈しなかった。惨虐をきわめた拷問は、前後三時間以上も、まったく無意識状態におちいるまでつづけられた。それはただの拷問ではなかった。明らかに殺意がこもっていた。
当時、同じく三船の手引きで逮捕され、築地署に拘留されていた岩郷義雄は、つぎのように多喜二の最期をつたえている。
「真冬の冷たい檻房に暮色がようやく迫ろうとし、五つの房にすしづめとなった留置人たちは、空腹と無聊と憂鬱とでひっそり静まり、ただ夕食の時刻が来るのを心待ちにしていた。
突然、私の坐っている檻房の真正面にあたる留置場の出入口が異様なものものしさでひら かれた。そして特高──紳士気取りの主任の水谷、ゴリラのような芦田、それに小沢やその 他──がニ人の同志を運びこんできた。
真先に背広服の同志がうめきながら一人の特高に背負われて、一番奥の第一房に運ばれた。
つぎの同志は、二三人の特高に手どり足どり担がれて、私のいる第三房へまるでたたきつけるようにして投げこまれた。一坪半ばかりの檻房は十二、三人の同房者で満員だった。その真中にたたきこまれて倒れたまま、はげしい息づかいと呻きで身もだえするこの同志は、もはや起きあがることすらできなかった。
『ひどいヤキだ……』同房人たちは驚いた。
私は彼の頭を膝にのせた。青白いやせた顔、その顔は苦痛にゆがみ、髪のやわらかい頭はしばしば私の膝からすべり落ちた。『苦しい、ああ苦しい……息ができない……』彼は呻きながら、身もだえするのであった。『しっかりせい、がんばれ』と、はげますと、『うん……うん……』とうなずく。その同志は紺がすりの着物に羽織という服装であった。顔や手の白さが対照的にとくに印象ふかい。整った容貌は高い知性をあらわし、秀でた鼻の孔に真紅な血が固っていた。手指は細くしなやかで、指のペンダコは文章の人であることを物語った.同房人たちも胸をひろげてやったり、手を握ったり、どうにかしてこの苦痛を和らげねばならないと骨折った。
一体、この同志は何の組織に属する何という人だろう、私は知りたく思った。『あなたの名前は?』と、私は尋ねたが、それには答えず、間欠的に襲いかかってくる身体の底からの苦痛にたえかねて、『ああ、苦しい』と、もだえるのであった。
たった今まで、この署の二階の特高室の隣りの拷問部屋で、どんなに残虐な暴行がおこなわれたか、そして、二人の同志がいかに立派にたえてきたかを、この同志の苦しみが証明した。
やがて、『便所に行きたい』というので、同房人が二人がかりでそっと背負って行った。便所へついたと思う間もなく、腹からしぼり出すような叫び声がおこった。やがてつれもどってくると、『とても、しゃがまれません。駄目です』と、同房人が言った。
私は先ほどから、そわそわして様子を見ている看守に言った。『駄目だ、こんな所では、保護室へ移さなければ』私たちの房の反対側に保護室があった。そこは広く、畳がしいてあり、普通、女だけを入れたが、大ていあいていた。看守はうなずいて、私たちは同志を移転させ、毛布を敷き、枕をあてがった。そして、彼の着物をまくって見た。『あっ』と私は叫んだ。のぞきこんだ看守も『おう……』と、うめいた。
私たちが見たものは『人の身体』ではなかった。膝頭から上は、内股といわず太腿といわず、一分のすき間もなく一面に青黒く塗りつぶしたように変色しているではないか。どういうわけか、寒い時であるのに股引も猿又もはいていない。さらに調べると、尻から下腹にかけてこの陰惨な青黒色におおわれているではないか。
「冷やしたらよいかもしれぬ』と、私は看守に言った。雑役がバケツとタオルを運んだ。私たちはぬれたタオルでこの『青黒い場所』を冷やしはじめた。やがて、疲れはてたのか、少しは楽になったのか、呻きも苦痛の訴えもなくなった。同志は眼を閉じて眠る様子であった。留置場に燈がついて、夕食が運ばれた。私はひとりで彼の枕辺に坐って弁当を食い終った。そして、ふたたび彼の顔をのぞいたとき、容態は急変していた。半眼をひらいた眼はうわずって、そして、シャックリが……。私は大声でどなった。看守はあわてて飛び出して行った。
やがて、特高の連中がどやどやとやってきた。私は元の房へつれもどされた。保護室の前へ衝立が立てられた。まもなく医者と看護婦がきた。注射をしたらしかった。まもなく、担架が運びこまれた。
同志をのせた担架がまさに留置場を出ようとするときであった。奥の第一房から悲痛な、引きさくような涙まじりの声が叫んだ。
「コーバーヤーシー……』
そして、はげしいすすり泣きがおこった。
午後七時頃であった。」
築地署裏の前田病院にはこばれるとまもなく多喜二は絶命した。午後七時四十五分であった。
特高警察は、虐殺した多喜二の遺体に新しいメリヤスのシャツとズボン下を着せた。死体引き渡しのとき拷問の生傷を一時おおいかくすためであった。そして、検事局と協議の後、翌二十一日の午後三時ごろ、臨時放送で急逝を報じた。各紙夕刊もいっせいに報道した。死の直接の原因は必臓まひという発表であった。
警視庁の毛利特高課長はつぎのような談話を発表した。
「余り突然なことなので、もしやと心配したが、調べてみると、決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死に逃げまわるうち、心臓に急変をきたしたもので、警察の処置に落度はなかった」
また、市川築地署長は、
「殴り殺したという事実はまったくない。当局としてはできるだけの手当をした。長い間捜査中であった重要な被疑者を死なしたことは実に残念だ」
そして、検察当局は、遺体引き取りの照会を、母と弟の住んでいる杉並区馬標の留守宅へ送らず、原籍地という理由で、小樽若竹町の幸田夫妻のもとへ発した。
(手塚英孝著「小林多喜二-@-下-」新日本新書 p123-129)
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◎「その死はまさに天皇制権力と党を裏切った者たちへの憤りのなかでの死であった」と。
◎「衆院憲法調査会最終報告書 3氏の評価」
小林節 慶応大学 の文章から
「近代立憲主義の克服」と称して、愛国心や家庭の維持など新たな義務を憲法に課そうとする動きがあり、報告書にも顔を出している。これは大変なトリック。本当は、国家は国民に命じる明治憲法への回帰だ」(京都新聞 2005.4.16)と。
闘うことの確信を深めて前進だ。