学習通信050517
◎「その意味が共有された経験との関連によって」……

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 子どもは、話したがるようになっても、理解できる言葉を聞くべきであり、発音できる言葉だけを言うべきである。そのために努力することによって、あたかももっとはっきりした発音を自分で訓練しているかのように、同じ音節を繰り返すことになる。もぐもぐ話すようになっても、子どもの言うことを苦労して察してやろうとしてはならない。言うことをいつもわかってもらおうと望むこともまた、一種の支配力であって、そんなものはいっさい子どもの行使すべきものではない。

よく注意して、必要なものをみたしてやるだけでいいようにしなさい。必要でないものは、あなたにわからせるよう、子どもに努力させることだ。話すよう子どもに要求するのを急ぐのは、なおさらいけない。話すことになにか効用があると感じるようになるにつれて、自分でちゃんと話すことができるようになろう。

 なるほど、たいへん遅くにしか話しはじめない子どもが、他の子どもほどはっきりとは話せないのは、人の知るところだが、遅く話しだしたから、器官に障害があるまま放置されたのではなく、反対に、障害のある器官をもって生まれたために、遅く話しはじめたのである。でなければ、なぜ他の子どもよりも遅く話しだすことがあろうか。

話す機会がずっと少なく、話すよう刺激をあたえるのがずっと少なかったのだろうか。その反対だ。この遅れに気づくやいなや不安にかられて、もっと早くから発音できた子どもの場合よりずっと、片言でも話させようと気をつかったからである。そして、この間違った熱意が子どもの話しかたを混乱させるのに大いに寄与するのだし、そんなにせっかちにしなければ、話しかたをもっと完全なものにする時間があったはずなのだ。

 話すのをせきたてられる子どもは、うまく発音するだけの余裕がなく、話させられることを十分理解する余裕もない。そうはしないで、自分でしたいようにさせておけば、子どもは、まずもっとも発音しやすい音節を自分で訓練し、これに少しずつ、身振りで人にわかってもらえるなんらかの意味を含ませることによって、あなたがたから言葉をうけいれるまえに自分の言葉をあなたがたにあたえる。

こうすることによって、あなたがたの言葉についても、理解しえたのちにはじめてうけいれるのである。つかうのをせかされなければ、まずはじめに、こうした言葉にあなたがたがどんな意味をあたえているかをよく観察し、意味を確認してからこれを採用することになる。

 その年齢にまだ達していないのに子どもに話させようとせっかちにすることの最大の害は、子どもにしてやる最初の話も、子どもが言う最初の言葉も、子どもにはなんの意味ももたないことにあるのではなく、私たちのとは異なった意味をもち、しかも、それに私たちが気づかないことにある。その結果、私たちにたいへん正確に答えているように見えても、子どもは私たちを理解せず、私たちも子どもを理解しないまま、子どもは私たちに話をしているのだ。

通常、こうしたあいまいさのために、言葉に子どもが含ませてもいない観念を、私たちのほうがこれにあたえていることになり、びっくりさせられてしまうことがしばしばある。言葉が子どもにとってもっている真の意味に対する、私たちの側でのこの不注意こそ、子どもの最初の間違いの原因であるように私には思われるし、この間違いは、子どもがそれを直してからでさえ、その後の一生にわたって、子どもの性向に影響を及ぼす。私は、これからのちも一度ならず、例をあげてこのことを説明する機会をもつことになろう。

 だから、子どもの語彙をできるだけ少なくしなさい。子どもが観念よりもずっと多くの語をもち、考えることのできる以上のことを言うことができるのは、きわめて大きな不都合である。農民が一般に都会の人よりもずっと正しい精神をもっている理由の一つは、彼らの字引きがずっと小さいことである、と私は信ずる。農民は少ししか観念をもたないが、それらの観念をたいへん上手に比較するのだ。

 子どもの時期の最初の諸発展は、すべてほとんど一度に行なわれる。子どもは、話すこと、食べること、歩くことをほとんど同時に学ぶ。これこそ、人生の真の意味での第一期だ。それ以前は、母の胎内にいたとき以上のなにものでもない。感情も観念ももたず、やっと感覚をもつだけである。子どもは、自分自身の存在すら感じていないのである。
 彼は生きているが、生きていることを知らない。
(ルソー著「エミール -上-」白水社 p72-74)

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 言語は多くのことについての学習の主な道具となる傾向があるから、それがどんな風に働くかを調べることにしよう。赤ん坊は、もちろん、まず意味のない、すなわちいかなる観念も表わさない単なる音響、雑音、音調から始める。音は直接的な反応を引き起こす刺激の一種にすぎない。あるものは宥めるような効果をもち、他のものは人を跳び上らせるような傾向があるなど。

ボウシという音声は、いく人かの人が参加する行動に関連して発せられるのでなければ、チョクトー族の言葉の音声、つまりうわべは音節のはっきりしない唸り声、と同じように無意味なものにとどまるだろう。

母親が乳児を戸外へ連れて出ようとしているときに、彼女はその子の頭に何かを被せながら「ボウシ」と言う。外に連れて行ってもらうことがその子どもの関心事にたる。母親と子どもは、ただ物理的に互いに連れ立って外に出るだけでなく、両者は共に外に出ることに関心をもっている。つまり、彼らは共通にそのことを楽しむのである。

「ボウシ」という音声は、活動の中の他の諸要素と連結することによって、間もなく、それが親にとってもつのと同じ意味を子どもに対してももつようになる。つまり、その音声は、それが入り込む活動の記号となるのである。言語は相互に理解可能な音声から成り立っているという単なる事実は、ただそれだけで、その意味が共有された経験との関連によって決まることを証明するに足るのである。

 要するに、ボウシという音声は、「帽子」という物が意味をもつようになるのと全く同じ仕方で意味をもつようになる、つまり、一定のやり方で用いられることによって意味をもつようにななのである。そして、それらが成人に対してもつのと同じ意味を子どもに対してももつようになるのは、成人と子どもの両方が共通の経験の中でそれらを用いるからである。

同じ用い方がなされる保証は、その物とその音声が、子どもと大人の間に能動的な関係をうち立てる手段として、ある共同の活動の中で最初に使用されるという事実にある。類似した観念ないし意味が生ずるのは、両方の人間が、それぞれ一方の行なうことが他方の行なうことに依存し、しかも影響を与えるような行動に、共同者として従事するからである。

もしも二人の未開人が共同して獲物を追いかけているとして、ある合図がそれを発する者にとっては「右へ行け」を意味し、それを聞く者にとっては「左へ行け」を意味するとしたら、明らかに、彼らは狩猟を一緒にうまくやって行くことができないだろう。相互に理解しあうということは、音声をも含めて、諸事物が、共同の作業を営むことに関して、両者にとって同様の価値をもつ、ということを意味するのである。

 共同の仕事において使用された他の諸事物との関連によって音声が意味を獲得した後には、それらの音声は、それらが表わす諸事物が結びつけられるのと全く同じように、それらとよく似た他の音声と関連して用いられて、新たな意味を展開することができる。

だから、子どもが、たとえば、ギリシャ人の兜について学ぶ際に使う言葉は、最初は、共通の関心と目的をもつ行動の中で用いられることによって、ある意味を獲得した(つまり理解された)のであった。そして、それらの言葉は、聞いたり読んだりする者を剌激して、兜が用いられるような活動を想像の上で試演させることによって、新たな意味を呼び起こすのである。

「ギリシャ人の兜」という語を理解する人は、当分の間、心の中で、その兜を用いた人々の仲間になるのである。彼は、自分の想像力によって、ある共有された活動に従事するのである。言葉の完全な意味を学びつくすことは容易なことではない。おそらく、大部分の人は、「兜」とはギリシャ人と呼ばれる人々がかつて着用した奇妙な種類の被り物をさすという考えにとどまるだろう。そこで、われわれは、次のように結論するのである。

すなわち、観念を伝え、獲得するために言語を用いるということも、事物は、共有された経験すなわち共同の活動において用いられることによって、意味を獲得するという原理の拡張であり、洗練なのであって、いかなる意味においても、それは決してその原理に矛盾するものではない、と。

明白な事実としてか、想像においてか、そのいずれかで、言葉が共有された情況の中へ要素として入り込まないときには、それは純物理的な刺激として作用するにすぎないのであって、意味すなわち知的価値をもつものとしては作用しないのである。それは、活動がある特定の溝の中を進むようにさせはするが、しかしそこにはそれに伴う意識的な目的ないし意味は少しもないのである。

だから、たとえば、プラス記号は、ある数の下に別の数を書いて、それらの数を加算するという動作を行なわせる刺激となるかもしれないけれども、その動作を行なっている人間が、もし自分の行なうことの意味を自覚しないならば、彼は、自動機械とほとんど同じように働くにすぎないことになるだろう。
(デューイ著「民主主義と教育 -上-」岩波文庫 p32-35)

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◎「その年齢にまだ達していないのに子どもに話させようとせっかちにすることの最大の害は、子どもにしてやる最初の話も、子どもが言う最初の言葉も、子どもにはなんの意味ももたないことにあるのではなく、私たちのとは異なった意味をもち、しかも、それに私たちが気づかないことにある」と。