学習通信050519
◎「人間は、誰でも、自分のなかに、……発展の可能性を」……。

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 さらに大事なことは、未来社会では、人間の生活に大きな転換が起きることです。
 さきほど、利潤第一主義の資本主義では、弱肉強食で、貧富の格差がたえず拡大してゆく、と言いましたが、そういう間題も解決できるでしょう。

 人間生活では、もっと大きな問題に、人間的発達の問題があると思います。

 社会というのは、一人ひとりの人間が集まってつくるものです。そして、その社会のなかで、一人ひとりが生活をし、活動し、楽しみ、またいろいろな努力をします。その動きが合流して社会の大きな流れになり、やがては日本社会の歴史をつくり、もっと大きく言えば、人類の歴史をつくってゆきます。この社会に、いまのこの時期に生を得た以上、この流れのなかで、自分とは何か、何だったのか、社会でどんな役割をになえるのか、誰もそれをつかみたいと思い、そのことを探し求めるのです。

 しかし、もうけ第一主義の現在の社会では、この願いがかなえられません。生きる道を選ぼうにも、多くの道は閉ざされており、自分のやりたいことをやれるという人は、ごくまれな存在でしょう。実は、いまの社会を人間社会の一つの型として見た時、私は、ここにこの社会の最大の欠陥の一つがあると思います。

 人間は、誰でも、自分のなかに、無数の、才能というか、発展の可能性をもっています。しかし、それを伸ばす機会についに恵まれなかった、あるいは、そのごく一部分を伸ばす機会しか得られなかった、こういう人が、現在では、圧倒的な部分をなすのではないでしょうか。
 ここに解決の道を開くのが、未来社会なのです。カギは、労働時間の短縮です。
 考えてみましょう。

 まず、残業がなくなる、それで生活できるだけの賃金が保障される日本になったら、どうなるか。労働者の生活はうんと変わるでしょう。文化の面でも、スポーツの面でも、豊かに楽しめるだけの時間が保障されます。

 ただ、残業がなくなっただけでは、人間的発達というところまでは、話が進まないかもしれません。

 では、労働時間が半分になったらどうでしょう。一日四時間働いたら、あとは自由な時間になる、あるいは一日八時間の労働を週三日やったら、あとは全部自分の自由時間になる。そういうことになったら、すべての人が、生活を楽しみもするでしょうが、同時に、自分がどんな才能をもっているか、それを試したり伸ばしたりする機会と条件を保障されるようになるでしょう。もっている才能が埋もれたまま、あるいは自分でそれに気がつかないまま、生涯を終わるなどというさびしいことは、過去のことになるでしょう。

 スポーツでも、芸術・文化でも、学問でも、さまざまな知的活動が、専門でそれにあたる人たちだけのものではなくなり、社会の誰もが参加し、貢献し、楽しめる人間活動の分野になるでしょう。

 そんなことが可能かというと、利潤第一主義から解放された社会では、それができるし、むしろ、そのことが社会的な活動のいちばん大事な内容になってくるのです。

 これが夢のような話で終わってしまうと困りますから、一つ、具体的な数字をあげてみます。私は、一昨年(二〇〇二年)、党本部で「代々木『資本論』ゼミナール」というものをやりましたが、その講義のなかで、戦後の日本における生産力の成長ぶりを調べたのです。私は、日本共産党の本部の仕事に移る前、鉄鋼労連という労働組合に十一年ほどいましたから、そこで親しみのあった鉄鋼産業での発展を追ってみました。

 調べてみると、日本の鉄鋼の生産量は、一九六〇年から二〇〇一年までの四十一年間に、二二一四万トンから一億〇二八七万トンに、四・六倍に増えました(粗鋼生産量)。ところが、労働者一人当たりの生産量は、同じ期間に、七四トンから五七六トンに、七・八倍に増加しました。生産力がそれだけ発展したのです。

 生産量の増える割合より、一人当たりの生産量(生産性)の方がより急速に増えたということは、資本主義のもとでは、その分だけ、労働者の数を減らすことができる、ということです。実際、生産量は四・六倍にも増えたのに、鉄鋼産業に働く労働者の数は、この期間に、三〇万人から一八万人にまで減らされました。

 では、生産力が発展したという条件を、労働時間の短縮に活用したら、どんな結果が生まれるかを、考えてみましょう。生産性が七・八倍になったんだから、労働時間を七分の一にしろとは言いません。労働者を減らさないで、三〇万人という数のままで、一億〇二八七万トンの鉄鋼を生産するようにしたら、どうなるでしょうか。労働時間をこれまでの五分の三に減らしても、一億〇二八七万トン(四一年前の四・六倍)の鉄鋼が生産できる、という計算になります。これは、週六日の労働を三日半に減らせる、ということです。

 もちろん、労働時間のこういう抜本的な短縮は、鉄鋼という一つの産業だけでできることではありません。しかし、戦後の日本の経済発展の過程をみると、どこの産業でも、同じような生産力発展が、共通の特徴となっています。

 しかし、資本主義社会では、生産力が上がったら、その分だけ労働者を減らして、職場に残る労働者は、これまで通り目いっぱい働かせる、それで社会の失業がひどくなっても、仕方がない、というのが、当たり前の理屈になっています。生産力の発展を、労働時間の短縮に活用するなどという考えは、利潤第一主義からは生まれてこないのです。

 社会が生産手段をにぎって、社会全体の利益、人間の生活と発展を第一の問題とする未来社会では、そのおおもとが違ってきます。生産力が発展したら、その条件を、社会の富をより豊かにする目的にどれだけ活用するか、そして労働時間を減らして労働者の自由時間を増やす目的にどれだけ活用するか──そういう段取りを計画的に組めるような仕組みが生まれてくるのです。生産カの発展を、こういう形で活用して、社会の富も豊かにしながら、人間の能力が自由に発達できる条件を積極的につくりだす、これは、利潤第一主義から解放された未来社会でこそはじめて生まれてくる、まったく新しい展望です。

 そして、新たに開ける展望は、個人個人の発展にはとどまりません。人間社会全体の活力が、それによって素晴らしく高まるでしょう。だいたい、社会の全体で、みんなが一定時間分担して生産の活動にあたり、残りの時間は自由にスポーツをやったり、知的活動に取り組んだりする、そうなったら、その人たちのなかから、それこそノーベル賞候補に値するような人や素晴らしい絵描きさんが、どれだけ出るかわかりません(拍手)。本当に社会全体が豊かな活力をもった社会になり、人類社会がすごく豊かな発展力をもつようになります。

 科学的社会主義の先輩たちは、社会のそういう発展の方向にこそ、人類社会の本来のあり方がある、現在はそこに進んでゆく過渡期ではないか、こういう展望を、資本主義社会を分折して明らかにしたのです。
(不破哲三著「新しい世紀と新しい綱領」報告集 日本共産党綱領 日本共産党中央出版局 p256-261)

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 デカルト派唯物論が本来の自然科学に流れこんでいるように、フランスの唯物論の他の方向は、直接に社会主義と共産主義とにそそいでいる。

 人間はもともと善であり、その天賦の知能は同等でおり、経験と習慣と教育とが全能であり、人間には外部の環境が影響をおよぼすものであり、産業に高度の重要性がおかれ、快楽は是認される、等々という唯物論の教説からして、この唯物論が必然的に共産主義や社会主義につながるということを見ぬくには、何もたいした洞察力を必要としない。

もし人間がそのすべての知識や知覚やその他を、感性界から、ないしは感性界における経験からつくりだすものだとすると、人間がそのなかで真に人間的なものを経験するように、また自己を人間として経験する習慣をもつように、そのように経験の世界をしつらえることが大切なことになる。

十分に理解された利害というものが、すべての道徳の原理であるとすれば、人間の私利と人類の利害とが一致することが、たいせつなことになる。

もし人間が唯物論的な意味で自由でないならば、いいかえれば、人間があれこれのことを避ける消極的な力によってではなく、彼の真の個性を発揮する積極的な力によって自由になるとすれば、ひとは個々人の犯罪を罰すべきではなく、むしろ犯罪のおこる反社会的な発生場所をうちこわして、各人にたいしてその本質的な生命の発現のできる、社会的な余地をあたえてやらねばならない。

もし人間がその環境によってつくられるものであるとすれば、ひとはその環境を人間的なものにつくっていかなければならない。

もし人間がその本性上社会的なものであるとすれば、人間はその真の本性をその社会においてはじめて展開するものであり、人間の本性のもつ力は、個人ひとりびとりの力によってではなく、社会の力によってはかられなければならないのである。

 このような文句やこれに似た文句は、ほとんどその文句どおりに、フランスの最もふるい唯物論者のあいだにさえ見いだされる。だが、ここはこれらの文句を論評すべき場所ではない。

唯物論の社会主義的傾向の特色を示しているものに、イギリスの比較的ふるいロックの学徒の一人であるマンダヴィルの悪徳の弁護がある。彼は、悪徳が今日の社会では不可欠のものであり、有用なものであることを証明している。だがそれはけっして今日の社会を弁護したものではなかった。

 フリエは直接にフランス唯物論者の学説から出発している。バブーフ主義者は粗野で未開な唯物論者であったが、しかし発展した共産主義も直接にフランス唯物論からはじまった。後者〔フランス唯物論〕は、エルヴェシウスがこの唯物論にきせた着物をきて、その母国であるイギリスにさまよい帰ってきた。ベンサムはエルヴェシウスの道義の説にもとづいて、彼の十分に理解された利害の体系を建設した。

おなじようにオーエンはベンサムの体系から出発して、イギリス共産主義を基礎づけた。フランス人力ペーは、イギリスに追放され、その地の共産主義思想に刺激され、それからフランスに帰って、ここで共産主義の、最も浅薄ではあるが、最もポピュラーな代表者になった。これよりももっと科学的なフランスの共産主義者デザミ、ゲーなどは、オーエンのように、唯物論の教説を現実的人間主義の教説として、また共産主義の論理的基礎として発展させている。
(マルクス著「聖家族」マルクス・エンゲルス 8巻選集@大月書店 109-110)

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◎「もし人間がその本性上社会的なものであるとすれば、人間はその真の本性をその社会においてはじめて展開するものであり、人間の本性のもつ力は、個人ひとりびとりの力によってではなく、社会の力によってはかられなければならないのである」と。