学習通信050520
◎「運動なんかして馬鹿らしいと思わんかネ」……

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伊藤千代子生誕百年
 記念講演会 7月に諏訪で

 戦前、日本共産党員として活動した伊藤千代子(長野県諏訪市出身)の生誕百年記念事業として、「九条の会」呼びかけ人の作家・澤地久枝さんを講師に迎えて七月十七日、諏訪市内で講演会をおこなうことがきまりました。同実行委員会が十九日、発表したもの。

 伊藤千代子は、戦前の 「3・15」事件で逮捕され獄中での拷問や虐待に屈せず戦争反対の主張を貫き、二十四歳で獄中で死去しました。彼女の諏訪高等女学校(現・諏訪二葉高校)時代の恩師である歌人の土屋文明が「こころざしつつたふれし少女(おとめ)よ新しき光の中におきておもはむ」と詠んでいます。

 諏訪市役所内で会見した同実行委員長の木島日出夫前衆院議員は「憲法九条を改悪し日本をふたたび戦争のできる国にしようという動きが強まっています。そうしたとき、戦争前夜の千代子らのたたかいを握り下げることは大変、意義のあること」とのべました。

 記念講演会の同日、市内にある顕彰碑前で墓前・碑前祭もおこなわれます。昨年、北海道の苫小牧で発見された伊藤千代子の最後の手紙のコピーが、諏訪市立図書館に展示される予定です。
(しんぶん赤旗 20050520)

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伊藤千代子(1905〜1929)

 小林多喜二の小説「一九二八年三月十五日」で、その非道な拷問、弾圧がなまなましく暴露された、いわゆる三・一五事件の日本共産党への全国いっせい大弾圧は、千六百人におよぶ共産党員と党支持者を検挙しました。

 「二七年テーゼ」の実践にとりくみはじめたばかりの日本共産党は、この年の二月一日に、「二七年テーゼ」の党建設の方針にしたがって非合法の中央機関紙「赤旗」を創刊し、大衆のあいだにはじめて公然と姿をあらわします。そして同じ二月に、全国的闘争として普通選挙法による第一回の総選挙を、合法政党の労働農民党から党員十一名をたててたたかうという、まさに「二七年テーゼ」にもとづいて前進しようという時期でした。

 共産党の前進を恐れた天皇制政府の三月十五日の大弾圧は「さしせまった侵略戦争の『銃後』をかためるために、侵略戦争反対、自由と民主主義の旗を敢然とかかげ、人民の利益を擁護して不屈にたたかう日本共産党を暴力で圧殺しようとした」(『日本共産党の六十五年』)ものでした。

党中央のレポーターとして

 この弾圧で、二十二歳の聡明で清楚な一人の女性共産党員が検挙されました。彼女の名は伊藤千代子。東京女子大の学生でした。

 共産党の中央事務局(レポータ一)上の任務にあった彼女は、その頃「二七年テーゼ」の具体化として作成過程にあった「政治経済情勢に関する日本共産党のテーゼ」「大衆党の活動についての日本共産党のテーゼ」の草案の印刷のための原紙書きを受け持ちます。前日の十四日は徹夜でガリをきったのですが、「政治経済情勢に関する日本共産党のテーゼ」の方の原稿で文字が不明の個所があったために、印刷局担当の同志のところへ出向いたところを、張りこんでいた特高につかまったのでした。

 東京・滝野川署につれていかれ、その後警視庁にまわされたとき、取り調べ(実際は拷問)を担当したのは、小林多喜二への残虐な拷問を指揮し、また、スパイ大泉をつかって野呂栄太郎を検挙し、さらに宮本顕治現議長の取り調べにもあたった毛利基でした(この時は警部)。これは、伊藤千代子さんの果たしていた党の任務について、天皇制権力・特高の側が重視していたことを示すものといえます。

 獄中での毛利らの拷問のようすについて宮本議長は「特高課長毛利や特高警部の山県、中川らが来て『世界一の警視庁の拷問を知らないか、知らしてやろうか』『この間いい樫の棒があったからとってある』といいながら、椅子の背に後手にくくりつけ、腿を乱打する拷問を繰り返し、失神しそうになると水をかけ」(「私の五十年史」)るなど拷問を続け、歩けなくなったとその残虐さをのべていますが、伊藤千代子さんにたいする拷問も想像を絶するものであったでしょう。

 彼女は、その後に検挙された共産党員の夫が獄中で「天皇制支持」を表明し、日本共産党の解体を主張する解党派グループの一員となったことを知らされ、その悲憤がもとで病に倒れ、一九二九年の九月二十四日、二十四歳の生涯を拘束された病院の一室で終えたのです。
(広井暢子著「女性革命家たちの生涯」新日本出版社 p6-8)

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スパイ摘発、拷問に抗して

 党は、公然部隊でも非公然部隊でも、あいつぐ検挙、投獄によって大きな損害が続いた。スパイ・挑発政策が、日本共産党弾圧のもっとも有効な武器の一つとして、特高警察によって追求されていた。一九三二年のいわゆる大森銀行ギャング事件は、日本共産党資金局の行為として報道されたが、あとで有名になった秘密警察のスパイ、通称松村こと飯塚盈延がこの計画の推進者だった。日本共産党に打撃を与えるために、弾圧によって検挙するという方法だけでなく、スパイを入れて共産党の信用を落とすようなやり方を持ちこませ、国民大衆の支持を失わせるというのが、スパイ・挑発政策のねらいたった。

 小林多喜二は、すでに一九三三年二月、こうしたスパイの一人、三船留吉によって街頭連絡中を検挙され、岩田義道と同じように死体となって築地署からかつぎだされた。こうしたスパイ・挑発政策に対する闘争は、階級闘争の重要な一部として、政治的、組織的に正しい方針を堅持し、党の規律を確立するということを前提にして、系統的に追求されなければならないということが、当時のコミンテルンの雑誌でも強調された。野呂栄太郎は、重い肺結核を病んで、しかも片足は義足という困難な条件で活動していて、私たちと会うとき、少し一緒に歩いても激しい息切れがして、ごみ箱などがあるとそこに腰をおろして呼吸を整えなければならぬ状況だったので、彼をしばらく休養させることにした。その直後、十一月二十八日、野呂は最後の連絡に出て検挙された。

 大阪の獄中から出て党活動に加わっていた袴田里見は、党中央にいた小畑達夫、大泉兼蔵はスパイだという意見をかねてから寄せていたが、野呂の検挙は彼らへの疑惑を一層強めた。査問委員会がつくられ、最高の処分は除名であるという当然のことも再確認され、臨時のアジトで査問が行なわれた。二人は結局、それぞれ警視庁の特高の警官と連絡をとっているスパイであると自白した。

休息中、突如小畑が暴れ出して、それを取り押えようとする居合わせた者ともつれあっているうちに、急に静かになったので、みんなが一安心しているうちに、小畑のようすが異常だということがわかって、あわてて一人が人工呼吸を試み、私は柔道の活を入れたが、小畑は蘇生しなかった。これは予期しない、不幸で残念な出来事だった。後のち特高警察は、これを党内の派閥闘争による「リンチ殺人事件」として大々的に宣伝した。査問は、このような事態の再発を防ぐため中止されたが、二人がスパイであることは明白になったので、その除名処分は『赤旗』に発表された。

 私はこの後まもなく、これまたスパイと目をつけていた、東京市委員会にいた荻野増治によって、街頭連絡中を十数人の警官に包囲されて麹町署に検挙された。特高課長毛利や特高警部の山県、中川らが来て、「世界一の警視庁の拷問を知らないか、知らしてやろうか」「この間いい樫の棒があったからとってある」と言いながら、椅子の背に後手にくくりつけ、腿を乱打する拷問を繰り返し、失神しそうになると水をかけた。そして、「岩田や小林のように労農葬をやってもらいたいか」とうそぶきながら拷問を続けたが、私は一言もしやべらなかった。歩けなくなった私を、看守が抱えて留置場に放りこんだ。十二月二十六日で、監房の高い窓からは雪がしきりに吹きこんだ。一切の夜具もなく、拷問の痛みと寒さのため私は眠ることができなかった。

 その後も拷問は続けられたが、私が一切口をきかないので、彼らは「長期戦でいくか」と言って、夜具も一切くれないで夜寝せないという持久拷問に移った。外では皇太子誕生ということで提灯行列が続いていた。そのころ、面会に来た母親が私の顔を見て「お前は変わったのう」とつぶやいたが、それは、私の顔が拷問ではれあがって、昔の息子の面影とすっかり変わっていたからだった。

 その後移された警視庁で、私は高熟を出し、猩紅熱として市ケ谷の病監に送られた。警察での拷問の傷が原因らしかった。私はその後、市ケ谷刑務所の病監、品川署、警視庁、府中署など、約一年間留置場をたらいまわしにされた。品川署にいたとき、洗濯物を干しに留置場のわきに出たときに、壁を飛びこえて逃げようとして、うしろから看守に抱きつかれて失敗した。そこで府中では、「こいつは足ぐせが悪い」というので足錠をかけたまま独房にニヵ月置かれた。私は、錠のまま房内で体操をやった。何の読み物もなく、入浴もない原始的な拘禁生活の一年がたった。何回の取り調べに当たっても、私は調書を一切つくらせず、検事局での人定尋問にも黙秘だった。当時、黙秘権というものは法律で保障されていなかったが、拷問に抗し、警察、予審では一切白紙で通すというのが、私の覚悟だった。私は二十五歳だった。
(宮本顕示著「網走の覚え書き 私の五十年史」新日本文庫 p117-120)
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転地直前に検挙

 野呂が平野義太郎に会った四日後の二十八日は朝から小春日和の晴天であった。野呂はおだやかな陽ざしを浴びて、出かけて行った。この少し前から、野呂は宮本け顕治に会ったときなど少し歩いただけで激しく息切れがして、ごみ箱などがあると、そこに腰をおろして呼吸を整えなければならぬほど病気が悪くなっていた。中央委員会では野呂に当分休養して貰うことにした。野呂はこの日、大泉兼蔵や小林輝次と街頭の連絡をして、次にのら転地療養に出かけることになっていた。家では妊娠中の富美子が転地の準備をしていた。

 野呂の検挙後、明らかになった状況からみると、野呂が転地し、しばらく東京を離れるということはスパイ大泉兼蔵を通してただちに特高課長毛利基に通報されていた。野呂は転地がきまっても、富美子にもまだ最終的な転地先を話していなかった。おそらく転地先は中央部でも秘密にされていたと思われる。そのような状況のもとで、野呂が転地してしまえば、大泉や特高には野呂の所在が分からなくなるということであった。このため、毛利は野呂が最後に街頭連絡に出てくるのを機会に検挙することにした。警察は目ぼしい駅の周辺に多数の刑事を張りつけた。このとき、野呂の顔を知っていたのは山陽為三である。毛利は山郷に中心になって野呂を検挙するように指示した。

 警視庁では野呂を検挙すると、大泉あてに「ニモツツイタスグコイ」という電報を打っている。これは大泉に野呂の検挙を知らせたものであった。

 警視庁では野呂を逮捕すると、すぐに新聞記者に発表した。野呂の逮捕はその日の夕刊にのった。

 富美子はタ方になって近所の肉屋へ肉を買いに行った。彼女が肉を切って貰っているところへ夕刊が配達されてきた。彼女は何気なく、その紙面を見た。ところが、そこには、「野呂栄太郎捕らわる」という見出しがあり、小さな写真と短い記事があった。

 彼女はその夜、重要な書類を処分した。野呂の身が案じられ、一睡もできなかった。
 翌日から彼女は転居の準備をした。しかし、野呂がこの家のことを喋る気づかいはまったくなかったので、一刻を争うことではなかった。富美子は、野呂が検挙されてから一週間ほどしてから引っ越した。

 小林勇も野呂の検挙を新聞で知った。留置場は病身の野呂にはさぞ苦しかろうと思うと、心が痛んだ。風早も野呂の検挙を知って大きな打撃を受けた。

留置場でも農村問題

 野呂は検挙されると、言問署に留置された。ここに佐々本恵真という東大の学生がいた。彼は滝川事件の抗議運動を組織しているなかで、五月に検挙され、言問署に留置されていたのである。野呂は留置場内の第五房に入れられた。

 十二月十三日の朝、佐々木は市ヶ谷刑務所に送られることになった。彼は野呂のところへ行き、弁当の差し入れ口から手をさしのべた。野呂は佐々木の手を強く握った。佐々木が「元気で行ってきます、体に気をつけてください」というと、野呂は佐々木の手をいっそう強く握って、「気をつけてな、がんばってな」といった。

 党中央部では野呂の検挙によって、党内にスパイや挑発者が潜入していることは確実と見て、宮本顕治、逸見重雄、袴田里見、秋笹正之輔らによって、調査委員会を設けた。党内組織からは大泉兼蔵と小畑達夫にはスパイの疑いがあるという意見が中央部に寄せられていた。これらも参考にして、調査委員会では十二月二十三日から二十四日にかけて、秋笹正之輔の下宿で二人に対する査間会を開いた。大泉と小畑は自分たちが警視庁のスパイであることを認めた。中央委員会では大泉と小畑の除名を『赤旗』の二十四日の号外で発表した。

 この査問の休憩時間中に小畑が特異体質に起因するショック死を起こした。宮本たちは小畑に可能な手当をしたが、小畑は蘇生しなかった。このため査問はそのまま中止された。二日後の二十六日、宮本顕治がスパイの手引きで検挙され、新聞は宮本の写真をのせて、大きく報道した。

あくまで生き抜こうとして食べ物を

 野呂は、十二月には言問署に留置されていたが、一九三四年(昭和九年)一月になると、上野署や大平署に回され、中旬頃、品川署に移された。晩の食事が終わって、就寝までにはまだ少し間があるという時刻であった。品川署の留置人たちはその僅かの時間をくつろいでいた。そのとき、急に廊下がさわがしくなった。やがて警視庁の運転手が誰かを担ぎこんできた。運転手は男を廊下におろした。その人は両脚を前に投げだしたまま動かなかった。それが野呂栄太郎だったのである。

野呂の顔は真っ黒い濃い縮毛で覆われ、頬はおちくぼんでまるで両頬をつよくぺこませているようにみえた。分厚い眼鏡がきらきらと光り、その風貌をさらに印象深くしていた。肩は黒い二重廻しに包まれていたが、衣服を吊すあのハンガーのように突張っていて、床に座っているだけでも苦しそうであった。留置人たちは好奇心をもって野呂を眺めた。

 翌日から留置人たちの関心が野呂に集まった。野呂は流動食しか食べられないほど衰弱していた。食欲もあまりないようだったが、しかし、時間をかけてでも全部食べるようにしていた。真冬の留置場は健康な者にもこたえたが、野呂は弱音を吐くことはなかった。

 野呂のその姿はやがて留置人たちの心のなかに驚きと敬意の気持ちをよび起こしていった。野呂が便所に行くときには、賭博やゆすりで留置されている者たちまでもすすんで手助けをし、背をかすようになった。

 野呂の人柄が知られるよ,うになると、夕食後のひとときなど、看守が野呂の独房の前に来て話しこむことが多くなった。ある晩のことである。看守が
「そんな死にかけた体で、運動なんかして馬鹿らしいと思わんかネ」
といった。その声はからかい半分、同情半分のものであった。
「馬鹿らしいと思ったら誰がするものか」
だしぬけに野呂は大声でいった。
「自分の病気だけにかまっていられないほど大事な仕事だからこそ、こうやって、やっているのです。仕事をするためには病気も治さなければならないが、警察はそのどちらもやらせてくれんじゃないですか」

 野呂は憤然としてこう答えた。しかしそのあとで、こんどは静かな口調になって、「満州事変」の性質や、それに反対することが日本人民にとってどんなに大切かを話した。看守だけでなく、監房のみんなが鳴りをひそめて野呂の言葉に聞き入った。

 二月になってから、検事の取り調べが始まった。それにつれて野呂の病状も急に悪くなった。向井鹿松が面会に行ったとき、向井は自分のそばに野呂が来ても、それが野呂だというどとがすぐには分からなかった。野呂はそれほどまでにやつれて人相が変わっていたのである。

 野呂が悪いらしいという噂は他の留置場にいた蔵原惟人の耳にも入ってきた。野呂の便所の時間が長くなった。次の順番の者が便所に行くと、「胸の痛むような真っ黒い血便が見られた」。留置人たちはみんなで野呂を病院に入れるよう要求した。

 野呂は十九日に入院することになった。警察はその前の晩一晩だけ、佐藤さち子(青山みどり)に野呂を看病する許可を与えた。佐藤の要求によるものであった。その頃、新聞は小畑の死をリンチによる殺人事件だとデッチあげた記事をのせていたが、野呂はその夜、佐藤にそれが反共宣伝のためのもので、事実ではないということを話し、また「三二年テーゼ」の内容について話をした。野呂は佐藤の看病に感謝し、彼女に礼を述べた。

 十九日は朝から時雨のような雨が降りていた。野呂はすっかり衰弱していた。それでも朝食の時間になると、おどろくほど熱心に食事を食べた。口のまわりに髭がのびていて、その髭に卵の黄身がついた。野呂はそれをふるえる手で拭きながら、スプーンを口に運んだ。それはすさまじい生への愛着であった。

死──党史に輝く生涯

 病院へ行く時間がきた。佐藤と詐欺でつかまっていた看護婦が野呂を抱えて、人力車に乗せた。野呂は静かに両眼を閉じていたが、顔は鉛色になっていた。野呂はすっかり痩せ細っていた。佐藤は野呂を抱えあげた途端、あまり好いので、はっとして思わず涙が出た。彼女はそれを隠すのに困った。野呂は人力車に寝かされた。そして、いよいよ車に幌がかけられるとき、佐藤に「いろいろお世話になってありがとう。いつか宮本なんかに会う機会があったら、よろしくいって下さい」
といった。午前十一時前のことである。

 それから僅か約一時間半後の午後零時三十分、野呂は死んだ。三十三歳十ヵ月の短い生涯である。遺体は弟の武男や従妹の浅井節子の立ち合いのもとに火葬にされたが、それさえも特高が管理した。
 富美子は野呂が死んだことを知らされて、ほとんど気を失ってしまうほどであった。野呂が死んで二日後の二十一日、新聞は「共産党委員長野呂死す」という小さな記事をのせた。

 守屋典郎は豊多摩刑務所の独房で、野呂の死を知った。しかし、獄中ではもう公然たる抗議運動をする力はなかった。一人一人が野呂を殺した天皇制警察に抗議し、ある者はハンストを行った。

 党中央委員会では三・一五弾圧六周年にあたる三月十五日に野呂の労農葬を行うことにした。しかし、それを大衆的に行うことはできなかった。また、小泉信三や岩波茂雄を呼びかけ人にして友人葬をしようという案もあったが、これも実現しなかった。弾圧はそれほどきびしくなっていたのである。

 野呂の遺骨は両親の遺骨のある郷里の佛現寺に二人の刑事が持って来た。刑事は
「この男の菩提寺がここだと聞いたので、骨壷を持って来た」
といった。骨壷には針金がかけられていた。彼らは、
「葬式は絶対にしてはならぬ」
といった。弟の繁雄は骨壷の針金をみて、ぎょっとしたが、これは骨壷の蓋がとれないようにかけてあるのだと思い直して、胸の怒りをおさえた。姉妹たちも遺骨にまで目を光らす警察のやり方を怒り、悲しんだ。
 日本共産党中央委員会は三月八日の『赤旗』に「弔辞」を発表し、「同志野呂のなし遂げた功績はわが党史上に特筆大書しなければならぬ」と書き、野呂の生涯を称えた。

 野呂の死は外国へも伝えられた。とくに、一九三五年(昭和十年)の『月刊労働──国際労働雑誌』の七月号は野呂の研究業績の先駆性を高く評価し、その野呂を警察が殺害したことを告発した。
(松本剛著「野呂栄太郎」新日本新書 p192-197)

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◎「骨壷には針金がかけられていた」と。

外国の話しではなく戦前の日本で起こったことなのです。