学習通信050520
◎「そのときこそ「なぜなのか」と」……

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天動説≠信じる子どもたち
  人類の到達を伝える教育と日常
    池内了・名古屋大学教授

 国立天文台のアンケート調査によって、小学生の40%が太陽が地球の周りを回っていると信じているという結果が報告された。地球が太陽の周りを回っていると周囲の人から教えられず、毎日大腸が東から昇り西に沈む様を見ているだけであるとすれば、太陽が地球の周りを回っていると信じるのは無理ないことである。

 つまりこの調査結果は、日常の教育がどうあるべきかを問うていると思われる。そしてそれは、子どもたちの自然観や宇宙観をどう育てていくかの問題でもある。地動説という宇宙観がどのように成立したか手短に振り返り、あるべき教育について考えてみたい。

証拠なしでも共有された宇宙観

 コペルニクスが地動説を唱えたのは、観測的事実によったのではなく、天動説では惑星の運動があまりに複雑になり過ぎるためであった。そして、水星や金星が常に太賜のそばに見えることから、それらが太陽の近傍を回っているとする方が都合がよいと考えたのだ。より少ない仮定で、より多くの事実を説明することができるという、「思考の節約」として地動説を構想したと言える。コペルニクスは、地球が太陽の周りを回っている証拠を見つけようとしたが、望遠鏡のない時代で、それは無理であった。

 ガリレオが宗教裁判にかけられたとき「それでも地球は回っている」とつぶやいたことで有名だが、ガリレオとて地動説を示す直接の証拠は手にしていなかった。木星の周りを四つの衛星が回っていることと、金星が月と同じように満ち欠けをするらしいこと、このガリレオ自らが発見した二つの観測的な事実を基にして、地動説を確信してはいたのだが、あくまで確信であって絶対的な真実と主張することができなかったのだ。

 地動説が人々の共有する宇宙観となったのは、一六八七年にニュートンが万有引力を発見し、それによって、ケプラーの三法則(惑星は太陽を焦点とする楕円軌道を描くなどの惑星の運動法則)を過不足なく説明できることを示してからのことであった。

 地球が太陽の周りを回っていることが直接示されたのは一八三八年のこと(星の年周視差=地球が太陽の周りを回ることによって星の見える位置がずれる=の発見)だから、人々は直接の証拠を手にしていなくても、ニュートンの理論が主張することを信じたのである。

 ここに、宇宙観の成立が、いかに人々の世界を見る目によっているかがわかるだろう。世界を解釈するもっとも合理的な考え方として人々によって膾炙(かいしゃ)されれば、直接的な証拠を目にせず、一見予言するかのような現象を目にしても、その宇宙観は人々の共有するものになるのである。

見かけと実際が異なることを学ぶ

 さて、子どもたちの多くが太陽が地球の周りを回ると信じていることに論を戻そう。その事実は、確固として成立している宇宙観が子どもたちに共有されていないことを意味する。あぜんとする結果ではあるが、さもありなんという気持ちもある。

 第一義的には、太陽系宇宙のようなもっとも基本となるべき事柄を、学習指導要領で割愛してしまった文部科学省の責任が大きい。子どもたちは、何も教えられなければ、見かけの太陽の運動をそのまま認めてしまうからだ。直接的には実感できない地球の運動を想像させ、太陽や月の運動が簡単に説明できることを、せめて小学校四年生くらいまでには教える必要がある。それによって、見かけの運動と実際の運動が異なる場合があることを学ぶことができるだろう。

 もう一つ私が気になるのは、宇宙観はいわば伝承で引き継がれていくものであるにもかかわらず、親や先生と子どもだちとの日常の会話で語られていないということである。「子ども百科」と名の付く本が多数出版され、そこでは地動説が解説され、月の見え方が図示され、恒星の季節変化まで説明されている。今回の調査は、それらの本を囲んでの会話が決定的に欠けていることを示している。科学が日常生活から乖離(かいり)していると思わざるを得ないのだ。

 「理科離れ」がいわれているが、学校の科目で順序立てて教えず、日常で科学を話題にする会話が欠けていては、その解決は無理というものである。
(しんぶん赤旗 20041109)

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天動・地動

 安野光雅の天動説の絵本

 「地球は丸いというけれど、どうもなんだかあやしげだぞと思う子供もなるたけ大ぜいいたほうがいいだろう」という北杜夫氏のことば(『どくとるマンボウ小辞典』中公文庫)に出あって、古くからの友人の次のような文章を、私のメモ帳のなかからとりだした。

 「ぼくの好きな絵かきさんに安野光誰という人がいる。この人はふしぎな絵≠ニいうありえないものを現実に存在するかのように絵にしたり、かくし絵のもりのえほん≠ニか、抒詩的な風景画、発見のよろこびを見出させる旅の絵本%凾ナ有名な国際的な画家だ。その他、多くの著書があるが、その中のどれだか忘れたけれど、子どもに対して、ついてもよい嘘が三つあるといって、結婚は幸せである、サソタクロースは実在する、天動説は正しい、をあげている。

 あとの二つについては言いたくないが、天動説については考えさせられる。不幸なことにいつの問にか、物心ついて以後、自然にぼくは、地球は丸いのだと、太陽のまわりを地球がまわっていることを自明のこととして知っていた。地動説は不思議でもなんでもなかった。ブルーノが、ガリレイが、デカルトが、コペルニクスが味わったような感動をもたなかった。リンゴが落ちるのを見てもおどろかない。さびしいことだと思う。そこで安野さんは地動説とはどんなに凄いことであったかを逆説的に子どもたちに示そうとして、美しい天動説≠フ絵本を描いて考えさせる。ここには新鮮なおどろきがある。……」(須賀三郎「こぼれ話四題」勤労者通信大学第十六期基礎コース『月報』NO.3)

山中人は不覚不知

 「大地がまるいですって? たしかに船のりたちもそういっていました。でも、もしほんとうにまるかったとしたら、はんたいがわにいる人たちは、いつもさか立ちしているのでしょうか……」『天動説の絵本』(福音館書店)のあるページのことば書き。小さい頃、熱をだすときまって見た夢のことを思いだした。私は小さなボールみたいな地球にへばりついている。その地球がググーッと回転する。頭を下につりさげられた形になったとき、私は熱にうなされているのだった。

 「それに、地めんがまわっているのですって? 雨の日にカサをまわしてごらんなさい。しずくは八方にとびちってしまうでしょう。ちょうどそのように、もしまるい大地がまわったら、家も、木も、人も、みんなはねとばされてしまうではありませんか」

 道元の『正法眼蔵』山水経の一節を思いだした。「山は不断に運動している」(青山常連歩)ということがそこで話題にされていた。「山の運動はその遠きこと風の如し≠ニいう以上にすみやかでありながら、山中人は不覚不知」とある。道元は地動説を予感していたのだろうか?

天体はなぜ静止していないか

 そして、遠く、はかり知れぬ速さで
 自転する地球のはなやかさ。
 天国のようにあかるい昼と、
 恐怖にみちた、ふかい夜とが交替する。
 海は大きな潮流をなしてながれ、
 底の巌にぶつかってどよめき泡だち、
 そして、岩も海も、ともに引かれて動くのだ、
 永遠に走りつづける天体の運行に。
   (ゲーテ『ファウスト』天上の序曲)

 大天使ガプリエルが歌うこの歌を、私は井上正蔵氏の訳によって引いたが、最後の二行が地球の自転のことをいっているのか、公転のことをいっているのか、他の翻訳ともつきあわせてみたが、はっきりしない。

 それはともかく、地球をもふくめて天体は、なぜ静止していず、必ず運動している──自転や公転をしている──のだろうか。

 それは理屈以前の事実であって、運動するから運動するのだという以外、いいようはない──そう私は思っていた。理屈が事実に先だつのではない。まず事実があり、その事実を事実として認めるところからすべての理論は出発しなければならない。「運動は物質の存在の仕方である……。運動のない物質が考えられないのは、物質のない運動が考えられないのと同じである」(エンゲルス『反デューリング論』)というのはそういうことだ、と私は思っていた。

まわる方が自然なのだということ

 たまたま堀源一郎氏の『意外性の宇宙』(朝日出版社)を読んでいて、目からウロコが落ちるような思いをした。

 太陽はなぜまわっているか、地球はなぜまわっているか、と私たちは問う。しかし、ほんとうはこれはおかしいので、もしまわっていない天体があったら、そのときこそ「なぜなのか」と問うべきだ。──そのように氏は書いていた。

 なぜかといえば、まわっているという状態は、まわっていない状態よりも自然だから。すなわち、まわっていない(止まっている)というのは自転の速度がゼロという状態で、ゼロ以外のすべてがまわっているという状態なのだから。このごくあたりまえのことをよくよく考えれば、ゼロ以外の状態の方が無限のバラエティーがあり、したがっておこりやすい(ふつうだ)ということがわかるはず。──そのようにそこには書かれていた。

 「たしかにわれわれは日常の生活の中で見ると、どんな動きでも放っておけばやがて止まってしまいます。いつまでもまわりつづけるコマはありません。物が動き続けるためには何らかの力を加えなくてはならないことを経験しています。これは摩擦のためなのですが、そのためにとにかく止まっている方が自然であると考えてしまうようです。……ところが摩擦のはたらかない天文現象などでは、逆に、動いている状態、回転している状態がふつうなのです……」

 「もし山の運動を疑うものがあれば、それは自己の運動もまだ知っていないものだ。自己の運動がないのではない、自己の運動をまだ知りえていない──把握していないものだ」(もし山の速歩を疑著するは自己の速歩をもいまだ知らざるなり、自己の速歩なきにはあらず、自己の速歩いまだ知られざるなり、あきらめざるなり)という山水経の言明について、あらためて考えてみたいと思う。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p64-68)

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◎「それらの本を囲んでの会話が決定的に欠けていることを示している。科学が日常生活から乖離(かいり)している」と。

◎「まわっているという状態は、まわっていない状態よりも自然だから」と。