学習通信050522
◎「誰がそれを打ち壊す権利があろうかって」……

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一九四二・六・二〇(土)
 ここ数日、日記をつけなかったのは、まず第一に、自分の日記について考えてみたかったのです。わたしのようなものが日記をつけるなんて、おかしいと思います。というのは、これまで日記をつけたことがなかった、というだけでなく、わたし自身にしても、まただれにしても、十三歳の女学生の告白なんかに興味をいだくなどとは考えられないからです。でも、そんなことは問題ではないでしょう? わたしは書きたいのです。いいえ、それだけではなく、わたしは胸の奥にあるものを、一切合財さらけ出したいのです。

 「紙は人間よりも辛抱強い」ということわざがあります。少しばかり憂うつなある日、外へ行こうか、うちにいようかと決めるのさえおっくうで、元気がなく、あごに手を当てて、じっと腰かけていたとき、ふとこのことわざを思い出しました。そうだ、紙が辛抱強いことは間違いない。それに、わたしは男の子にしろ、女の子にしろ、真実の友だちでないかぎり、えらそうに日記≠ネどと書いたボール紙の表紙のこの日記をだれにも見せるつもりはないから、何を書こうと、気にする人はないでしょう。さて、わたしがなぜ日記を書き始めるかという、根本の問題に来ました。それは、わたしには真実の友がいないということです。

 十三歳の少女が、この世の中で孤独を感じるなどと信じる人はいないでしょうし、また事実、そんなはずはないのですから、問題をもっとはっきりさせましょう。わたしにはいとしい両親と十六歳の姉がいます。わたしは友だちと呼べる人を三十人も知っています。わたしにはおおぜいの男の子の友だちがいます。この男の子たちは、わたしをかいま見たがり、それができないと、教室で鏡に映してわたしの姿をのぞこうとするのです。わたしには親類があります。なつかしいおじさんやおばさんがいます。りっぱな家もあります。わたしは何一つ不自由していないようです。

しかし、いくらお友だちがいても同じです。ただふざけたり、冗談を言い合ったりするだけのことです。わたしは周囲の共通のこと以外に、話す気にはなれません。わたしたちは、ちっとも親しくなれません。これがそもそも困ったことなのです。たぶん、わたしは自信に欠けているのでしょうが、そう思っても、どうにもならないのです。

 ですから、この日記をつけることにしたのです。わたしは長い間待っていたお友だちを、自分の心の中で理想的な人として描いておきたいので、ひとのように、あまりあけすけなことを日記に書きたくありませんが、この日記帳を心の友にしようと思います。そして、このお友だちをキティと呼びます。しかし、いきなりキティに手紙を書きはじめても、わたしが何を話しているのか、だれにもわからないでしょうから、いやだけれど、まず、わたしの生い立ちをかんたんに書きましょう。

 わたしのお父さんは、三十六歳のときお母さんと結婚しました。お母さんは二十五歳でした。姉のマルゴットは一九二六年、ドイツのフランクフルト・アム・マインで生まれ、わたしは一九二九年六月十二日に生まれました。わたしたちはユダヤ人なので、一九三三年ドイツからオランダに移住し、そこでお父さんはトラフィース商会の支配人になりました。この会社は同じ建物にあるコールン商会と深い関係があります。お父さんはこの会社にも関係しています。

 しかし、わたしの親類の人たちは、ヒトラーのユダヤ人弾圧政策のため、ドイツで不安な生活をしていました。一九三八年、ユダヤ人襲撃事件が起こってから、二人の叔父さん(お母さんの兄弟)はアメリカヘのがれ、おばあさんはわたしたちの家に来ました。おばあさんはそのとき七十三歳でした。一九四〇年五月からは、いい時代が急激に去りました。第一は戦争です。次いで降伏となり、ドイツ軍がやって来ました。

わたしたちユダヤ人の苦難が始まったのはこの時からです。ユダヤ人弾圧の布告が、次から次へと出されました。
ユダヤ人は黄色い星印をつけなければなりません。ユダヤ人は自転車を供出しなければなりません。ユダヤ人は電車にも自動車にも乗れません。ユダヤ人は午後三時から四時までの間しか買物ができません。しかも「ユダヤ人の店」と書いてあるところだけです。ユダヤ人は夜八時以後は家の中にいなければなりません。この時間をすぎると、自分の庭に出てもいけないのです。ユダヤ人は劇場、映画館、その他の娯楽場へ行くことができません。ユダヤ人は一般のスポーツ競技にも参加できません。プール、テニスコート、ホッケー競技場、その他一切の競技場にはいれません、ユダヤ人はキリスト教徒を訪問できません。ユダヤ人はユダヤ人学校に通わなければなりません。このほか、同じような数かぎりない制限があります。

 こんなわけで、わたしたちは、これをしてはいけない、あれは禁じられているというものだらけです。しかし、どうやら生活していきました。ヨービーはわたしに「あなたは、禁止されているのじゃないかと思って、何をすることもこわがっているのね」と、よく言いました。わたしたちの自由は極度に制限されました。それでも、まだがまんのできる程度でした。

 おばあさんは一九四二年一月に死にました。おばあさんは、今でもわたしの心の中に生きています。わたしがどんなにおばあさんを愛しているか、だれも知らないでしょう。

 一九三四年に、わたしはモンテッソリ幼稚園へ通いはじめ、小学校もそこでした。そこを卒業して、いよいよK先生とお別れのとき、とても悲しくて、二人とも泣きました。一九四一年に、わたしは姉のマルゴットといっしょに、ユダヤ人中学校に入学しました。姉は四年生で、わたしは一年生です。

 ここまでは、わたしたち四人は無事でした。さてこれから、現在のことに移りましょう。
(アンネ・フランク著「アンネの日記」文藝春秋 p12-14)

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キティ様
 一九四二・七・一一(土)
 お父さんとお母さんとマルゴットの三人は、十五分ごとに時を告げる、ベステルトーレンの時計の音に慣れずに困っています。しかしわたしは慣れました。最初から、この時計が好きでした。とくに夜は、忠実なお友だちのような気がします。あなたは姿を消す≠ニいうことが、どんな気持か知りたいでしょう。実のところ、わたしにもまだよくわからないのです。この家で、ほんとうに落ちついた気分になれそうに思えません。といって、ここがいやだというのではありません。妙な下宿屋で休暇を送っているような気がします。ちょっとばかげた考え方かも知れませんが、ふとそんな気持になります。

この家は理想的な隠れ場所です。少し傾いているし、湿気もありますが、こんな快適な隠れ場所は、アムステルダムのどこにも、いやすオランダじゅうさがしてもないでしょう。わたしたちの小さな部屋は、最初、壁に何の装飾もなく、ひどく殺風景でしたが、お父さんが前もって、映画スターの写真と絵はがきを持って来て下さったので、わたしは糊とブラシを使って、壁全体を一つの大きな絵にしました。これで壁がぐっと陽気に見えます。ファン・ダーン一家が来たら、屋根裏の物置から材木をもってきて、壁や部屋の中を引き立てるために、小さな戸棚を二つ三つ造りましょう。

 お母さんとマルゴットは、少し元気になりました。お母さんは昨日、はじめてスープをつくるぐらい元気が出ましたが、階下へおしゃべりに行っている間に、スープのことをすっかり忘れてしまい、豆が真黒になべに焦げついてしまいました。コープハイスさんは、わたしに「少年年鑑」という本を持って来てくれました。わたしたち家族四人は、昨夜二階の専用事務室へ行ってラジオをかけました。わたしはだれか聞いていやしないかと、とても恐ろしくなって、お父さんに三階へ帰りましょうとせがみました。お母さんはわたしの気持を察して、わたしについて帰ってくれました。

わたしたちは、近所の人がわたしたちの話し声を聞いたり、わたしたちのしていることを見やしないかと、とても神経質になります。着いた日に、すぐカーテンを作りました。しかし、これは形も、品質も、柄も違ういろいろな布切れを寄せ集めて、お父さんとわたしが、下手くそに縫い合わせただけのもので、カーテンとはいえないようなしろものです。この芸術品は、落ちないように、画びょうでとめてあります。

 わたしたちの隠れ家の右側に、大きな会社の建物があり、左側には家具工場があります。勤務時間が過ぎるとだれもいませんが、それにしても、音は壁を伝わります。マルゴットがたちの悪い風邪をひいたとき、夜中にせきをしてはいけないといって、せき止めの薬をたくさん飲ませました。わたしは火曜日にファン・ダーンー家が引越して来るのを心待ちにしています。人がふえたら、おもしろくなるし、にぎやかにもなるでしょう。夕方や夜、わたしをこわがらせるのは、静かすぎることです。わたしたちの保護者の一人が、夜ここに寝れるといいと思います。

 一歩も外出できないということが、どんなに息苦しい気持か、あなたに説明することはできません。またわたしは、見つかって殺されやしないかと、とても心配です。そんなことを考えるのは、気持のいいものではありません。わたしたちは、昼間は、ささやくような低い声で話し、音をたてないように、静かに歩かねばなりません。さもないと、下の倉庫にいる人たちに聞こえるおそれがあります。だれかがわたしを呼んでいます。
  アンネより
(アンネ・フランク著「アンネの日記」文藝春秋 p30-32)

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いまこの時に
戦争にみる人間の愚かさ
  アンネの死は物語る
 作家 小川洋子さん

 人間が生きている社会のなかで、ごく当たり前の、すごく目立だない、ささいな瞬間にこそ、本当の喜びや美しさや悲しみが隠れていて、それに気づいてこそ幸せであり、豊かさであると思うんです。

 それを握り出して物語の形にしていくのが、文学の仕事じゃないかと思います。すでにそこにあるのに、誰にも気づかれないものをみつけだすという作業は、社会がそういうものに目を向ける余裕がないと成り立だない分野なんですね。つまり、人間にとって、文学を喜びとできる社会であるかどうかが、一つの大事な道しるべだと思うんです。そのことをわかってもらいたいと、芦屋「九条の会」の呼びかけ人の一人になりました。

北斗七星の輝き

 憲法九条は、人間が掲げるべき一つの理想として必要なものだと思いますね。なんていうか、星座をみるときに北斗七星が目印になるみたいにね。人間が等しく追い求めていく目標となるような、輝きを放つものとしてあってほしいなと思います。

 中学一年生のときに『アンネの日記』を初めて読みました。それは、自分にとって、言葉で自分を表現することとの出会いであったし、社会とか歴史の問題に子どもながらに気づかされる出会いでもありました。

 アンネ・フランクがあれほど才能のあった少女だったのに、まったく理不尽な理由でその才能を摘みとられたことに、むなしさや怒りを感じてきました。そういう、戦争に代表されるおろかな人間たちの社会にあっても、『アンネの日記』という文学は、六〇年の間ずっとそのまんまの形で生き残り続けている。偉大だと思います。くり返しですが、そんなに才能のある彼女が死ななければならなかったことご、これは何回考えても一つの輪のようになって、その悲しみから逃れられません。

 小説を書き始めたときも、人間とはいったい何なんだろうっていう漠然とした疑問をもって、ホロコーストのような大虐殺、あるいはヒロシマ・ナガサキ、ああいう想像を超えた残虐さ、人間の深く持っている暗闇みたいなものを描き出したいという気持ちがスタートだったんです。

 でも、書くのが辛いとかしんどいなと思ったときに、こうして小説を書いて自分の本を世に出せることがどんなにありがたいか、感謝の気持ちをアンネ・フランクによってよびさまされる、そういう人生の支えでもあります。

 私は、阪神タイガースの大ファンで、よく甲子園球場にいって、タイガースのタオルを首に巻いてメガホンをもって応援しています (笑い)。

阪神勝って平和

 みんな本当に一生懸命応援していて、阪神が勝つと、私もその一人ですが、みんな心から幸せそうなんですよねえ。このときが一番平和を感じますね。
 このあいだも阪神が勝って、駅まで歩いていたとき、後ろにいたおじさんとおばさんが「きょうはパチンコも勝ったし、阪神も勝ったし、ええ一日やったなあ」って話しているのを聞いてると、なんていうんでしょうかねえ、人間という生き物にいとおしさを感じて。平和を感じますね。誰がそれを打ち壊す権利があろうかって思います。
聞き手 兵庫県・喜田光洋
(しんぶん赤旗 2005.05.21)

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◎「さて、わたしがなぜ日記を書き始めるかという、根本の問題に来ました。それは、わたしには真実の友がいないということです」と。