学習通信050525
◎「めいめい別々の結果」……。

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 社会全般の仕事にたいする分業の効果を比較的容易に理解するには、どれか特定の製造業をとって、そこで分業がどんなふうに行なわれているかを考察してみるのがよいだろう。世間では、分業がいちばん進んでいるのは、いくつかの、まったくとるにたりない小さい製造業だということになっている。

これはおそらく、こういった製造業のほうが、もっと重要度の高い他の製造業にくらべて、実際に分業の度合がより進んでいるからではなく、これらのとるにたりない小さい製造業は、ごく少数の人々のわずかな欲求を満たすためのものであって、従業員の総数もとうぜん少なく、さまざまな部門の仕事に従事している人々を同一の作業場に集めているので、見る者のー望のもとにおくことが可能だからであろう。

これに反して、大規模の製造業は、大多数の人々の巨大な欲望を満たすためにある。そこでは、さまざまな部門の仕事にどれも多数の従業員が働いているので、これらの人々を同一の作業場に集めることは不可能である。単一の部門で働いている従業員は見えても、その部門以外の人々をも同時に見ることは滅多にないというわけである。それゆえ、この種の製造業では、それよりも小規模な製造業にくらべて、たとえ作業は実際上はるかに多数の部分に分割されていても、その分割は、それほど目立つことがないので、したがってまた、観察されることもずっと少なかったのである。

 そこで、ここに一例として、とるにたりない小さい製造業ではあるけれど、その分業がしばしば世人の注目を集めたピン作りの仕事をとってみよう。この仕事(分業によってそれはひとつの独立の職業となった)のための教育を受けておらず、またそこで使用される機械類(その発明をひきおこしたのも、同じくこの分業であろう)の使用法にも通じていない職人は、せいいっぱい働いても、おそらく一日に一本のピンを作ることもできなかろうし、二〇本を作ることなど、まずありえないであろう。

ところが、現在、この仕事が行なわれている仕方をみると、作業全体が一つの特殊な職業であるばかりでなく、多くの部門に分割されていて、その大部分も同じように特殊な職業なのである。ある者は針金を引き伸ばし、次の者はそれをまっすぐにし、三人目がこれを切り、四人目がそれをとがらせ、五人日は頭部をつけるためにその先端をみがく。頭部を作るのにも、二つか三つの別々の作業が必要で、それをとりつけるのも特別の仕事であるし、ピンを白く光らせるのも、また別の仕事である。ピンを紙に包むのさえ、それだけで一つの職業なのである。このようにして、ピン作りという重要な仕事は、約一八の別々の作業に分割されていて、ある仕事場では、そうした作業がすべて別々の人手によって行なわれる。

もっとも、他の仕事場ではそれらの二つか三つを、同一人が行なうこともある。私はこの種の小さい仕事場を見たことがあるが、そこではわずか十人が仕事に従事しているだけで、したがって、そのうちの幾人かは、二つか三つの別の作業をかねていた。かれらはたいへん貧しくて、必要な機械類も不十分にしか用意されていなかった。

それでも精出して働けば、一日に約一二ポンドのピンを全員で作ることができた。一ポンドのピンといえば、中型のもので四千本以上になる。してみると、これらの十人は、一日に四万八千本以上のピンを自分たちで製造できたわけである。つまり各人は、四万八千本のピンの一〇分の一を作るとして、一人あたり一日四八〇〇本のピンを作るものとみてさしつかえない。

だが、もしかれら全員がそれぞれ別々に働き、まただれも、この特別の仕事のための訓練を受けていなかったならば、かれらは一人あたり一日に二〇本のピンどころか、一本のピンさえも作ることはできなかったであろう。いいかえるとかれらは、さまざまな作業の適切な分割と結合によって現在達成できる量の二四〇分の一はおろか、その四八〇〇分の一さえも、まず作りえなかったであろう。
(アダム・スミス著「国富論 T」中公文庫 p10-13)

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 それゆえ、事物について他の人々がもっているのと同じ観念をもち、他の人々と同じ心になり、そのようにして真にある社会集団の成員になるということは、事物や行為に対して他の人々が付与するのと同じ意味を付与することなのである。そうでなければ、共通理解もなく、共同社会生活もないことになる。しかし、共同の活動においては、各人は、自分のやっていることを他人のやっていることに関係づけて考え、また、他人のやっていることは自分のやっていることに関係づけられる。すなわち、各人の活動が同一の総括的情況の中に位置づけられるのである。

他の人々がたまたま引っぱっている綱を引っぱることは、他の人々が引っぱっているのを知っていて、彼らがやっていることを助けるかそれとも妨げるかするためになされるのでなければ、共同的または連帯的な活動ではないのである。

一本のピンは、その製造過程で多くの人々の手を経るであろう。しかし、各人は、他の人々が何をするか知らずに、つまり他人が何をするかに一切かまうことなく、各自の役割を果たすかもしれない。つまり、めいめい別々の結果──自分自身の賃金──のためだけに働くかもしれないのである。この場合には、いくつもの行為が並存し、しかも各自の行動がある単一の結果に寄与するにもかかわらず、それらの行為が関係づけられる共通の結果は存在しないし、またそれゆえに真の相互交渉ないし共同活動も存在しないのである。

しかし、各自が、自分自身の行為の結果を他の人々が行なっていることと関連のあるものと見なし、しかも彼らの行動が彼自身に及ぼす結果をも考慮するならば、そこには共同の精神が存在する。つまり、共通の行動の意思が存在するのである。さまざまの協力者の間に一つの共通理解が成立しており、この共通の理解が各自の行動を統制するのである。

 一人がボールを機械的に掴み取り、そのボールをもう一人に投げ、その相手もそれを掴み取って、機械的に投げ返す、しかも各自は、そのボールがどこから来て、どこへ行くかを知らずに、そのように行動する、という具合に情況が設定されていると仮定しよう。明らかに、そのような行動は、目当てつまり意味のない行動であろう。

それは、物理的に統制されているかもしれないが、社会的に指導されてはいないことになる。だが、各自が、相手のやっていることに気づき、相手の行動に興味をもつようになり、そのために、相手の行動に関連のあるものとして自分自身がやっていることに興味をもつようになる、と仮定しよう。そうすれば、各自の行動は理知的になる。しかも社会的に理知的で、社会的に補導されたものとなるだろう。

もっと現実的な例をもう一つ挙げよう。乳児はおなかを空かしており、目の前で食事が用意されているのに泣く。彼が、自分の状態と他の人々がやっていることとの関係に気づかず、他の人々がやっていることが自分の満足に関係があることにも気づかないならば、彼はますます苛立ちながら、ますます大きくなる自分の苦痛に反応するだけである。彼は自分自身の肉体的状態によって物理的に統制されているのである。しかし、彼が前後を考え合わせるようになると、彼の態度はすっかり変わる。彼はいわゆる興味をもつ、つまり他の人々がやっていることに注目し、それを見守るようになるのである。

彼はもはや自分の空腹だけに反応するようなことはしないで、その空腹をやがて満たすために他の人々がやっていることに照らして行動する。しかも、そのようにして、彼は、もはや空腹というものがわからないでそれにただ屈伏するようなことはしないで、自分の状態を認知、再認ないし確認するようにもなる。それは彼にとって対象となる。それに対する彼の態度はいくらか理知的になる。そして、他の人々の行動と自分自身の状態の意味をそのように認知するとき、彼は社会的に指導されているのである。
(デューイ著「民主主義と教育 -上-」岩波文庫 p57-59)

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 マニュファクチュアの第二の種類、すなわちマニュファクチュアの完成された形態は、相連関する発展諸局面、すなわち一連の段階的諸過程を通過する製品を生産する。たとえば、縫針マニュファクチュアにおける針金は、七二種から九二種もの特殊な部分労働者たちの手を通過する。

 このような種類のマニュファクチュアが、もともと分散していた諸手工業を結合する限り、それは、製品の個別的な生産諸局面のあいだの空間上の分離を少なくする。製品が一つの段階から他の段階に移行する時間が短縮され、これらの移行を媒介する労働も同様に短縮される。こうして、手工業に比べ、生産力が増大する。しかもこの増大は、マニュファクチュアの一般的な協業的性格から生じるのである。

他方、マニュファクチュアに固有な分業の原理は、さまざまな生産諸局面の分立化を生じさせ、それらは、同じ数の手工業的な部分労働として相互に自立化したものとなる。分立化させられた諸機能のあいだの連関を確立し維持するには、製品を一つの手から別の手に、また一つの過程から別の過程に絶えず運ぶ必要が生じる。このことは、大工業の立場からすれば、特徴的な、費用のかかる、マニュファクチュアの原理に内在する、限界性として現われる。

 一定分量の原料、たとえば紙マニュファクチュアにおけるぼろきれ〔木綿ぼろ、古麻など〕、または縫針マニュファクチュアにおける針金をとってみると、この原料は、さまざまな部分労働者たちの手で生産諸局面を時間的につぎつぎに通過し、その最終姿態に達している。これに反して、その作業場を一つの全体機構として見るならば、原料は、そのすべての生産諸局面に同時にそろって存在している。

結合された細目労働者たちから成り立っている全体労働者は、用具で装備されたたくさんの手の一部分で針金を延ばし、同時に他方ではほかの手と道具で針金をまっすぐにし、さらにほかの手と道具で針金を切り、とがらせるなどの働きをする。さまざまな段階的諸過程が、時間的継起から、空間的並存に転化されている。それゆえ、同じ時間内により多くの完成商品が供給される。

その同時性は、確かに総過程の一般的な協業的形態から生じるのであるが、しかし、マニュファクチュアは、協業の諸条件をあるがままのものとして受け入れるだけでなく、部分的には手工業的活動を分解することによってはじめて、それらの諸条件を創造する。他面、マニュファクチュアは、同じ労働者を同じ細目に縛りつけることによってのみ、労働過程のこの社会的組織をつくりあげる。

 各部分労働者の部分生産物は、同時に、同じ製品の特殊な発展段階にすぎないのであるから、一人の労働者は他の労働者に、または、一つの労働者群は他の労働者群に、彼らの原料を供給する。一方の労働成果は、他方の労働の出発点をなす。

それゆえこの場合、一方の労働者は、直接に他方の労働者に仕事を与える。それぞれの部分過程で目的とする有用効果を達成するために必要な労働時間は、経験的に確定されるのであって、マニュファクチュアの全機構は、与えられた労働時間内に与えられた成果が達成されるという前提に立っている。この前提のもとでのみ、相互に補足し合うさまざまな労働過程が、中断することなく、同時にかつ空間的に並行して、続行できるのである。

労働相互の、それゆえ労働者相互のこの直接的依存は、各個人にたいし自分の機能に必要な時間だけを費やすよう強制するのであり、そのため、独立の手工業の場合とは、または単純な協業の場合とさえも、まったく異なる労働の連続性、画一性、規則性、秩序、とりわけ労働の強度までもが、生み出される。このことは明らかである。一商品にたいし、その生産のために社会的に必要な労働時間だけが費やされるということは、商品生産一般にあっては、競争の外的強制として現われる。

なぜなら、皮相な言い方をすれば、個々の生産者はいずれも商品をその市場価格で売らなければならないからである。これに反して、マニュファクチュアでは、与えられた労働時間内に与えられた分量の生産物を供給することが、生産過程そのものの技術的法則となる。
(マルクス著「資本論B」新日本新書 p598-601)

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◎「労働相互の、それゆえ労働者相互のこの直接的依存は、各個人にたいし自分の機能に必要な時間だけを費やすよう強制するのであり、……まったく異なる労働の連続性、画一性、規則性、秩序、とりわけ労働の強度までもが、生み出される」と。

「ピン作りの仕事」「一本のピンは、その製造過程で」「縫針マニュファクチュア」……。